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ÉKRITS連載_インターフェイスからサーフェイスへ — スキューモーフィズム再考 - インターフェイスを読む #4

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第4回目「インターフェイスからサーフェイスへ — スキューモーフィズム再考」が公開されました.今回「読む」のは,副題にもあるように「スキューモーフィズム」です.

スキューモーフィズムをデスクトップメタファーからフラットデザイン・マテリアルデザインへのつなぎと考えるのではなく,「物理世界の表皮」として考えみたらどうなるだろうかと書いています.そして,スキューモーフィズムとともにスマートフォン📱という薄い板が物理世界とヒトとのあいだに入ってきており🤳,ヒトとコンピュータとのあいだにあるものが「インターフェイス🖥🖱⌨️」ではなく,単に「サーフェイス🏁」となって,ヒトとコンピュータと物理世界とが重なり合って,その重なりにおいて行為🙌が反射(リフレクション)✨するようになっているのではないか,ということを書いています.
連載1, 2回目が「🤚」,3回目は「👀」ときて,今回は「🏁」における反射✨からヒトとコンピュータとのあいだの行為を考えるテキストになっています.
よろしくお願いします🏁✨🤳

2017年の振り返り

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2017年にはこの投稿を含めて28本の記事を書いています.2015年が35本だったから,結構減ってしまっています.こうやってブログを書く回数が減ってくると「来年こそは増やすぞ💪」と書くところですが,このくらいのペースを守るような感じで無理せずに続けていこうと思っています👻

2017年は二つの連載をしていました.一つはMASSAGEで「モノとディスプレイとの重なり」で,もう一つはÉKRITSで「インターフェイスを読む」です.

MASSAGEの連載「モノとディスプレイとの重なり」を12回目まで書いて,ひとまず第一部終了としました.編集の庄野さん,読んでくれた皆さま,ありがとうございました😚 現在,次の連載をどうするか考え中です.おそらく,タイトルが変わります.
MASSAGE連載08_ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》についてMASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくるMASSAGE連載10_谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」/ ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間MASSAGE連載11_光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》ÉKRITSの連載「インターフェイスを読む」は第3回目まで終えています.こちらは,博論のときから継続的に考察しているインターフェイス論をアップデートしています.1月はじめに第4回目が公開される予定です.こちらも,編集部の浅野さん,大林さん,読んでくれた皆さま,ありがとうございました😚 ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手- インターフェイスを読む #1 ÉKRITS連載_スケッチパッドで「合生」される世界- インターフェイスを読む #2ÉKRITS連載_GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」- インターフェイスを読む #3その他,甲南女子大学の同僚の馬場先生と毎年行っている新視覚芸術研究会では美術家の永田康祐さんをゲストに迎えて開催しました. 告知:第4回新視覚芸術研究会「…

出張報告書_HELLO, YCAM!

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12月15-17日に開催された「HELLO, YCAM!」では多くのトークを聞いた.そこから感じたのは,YCAMがハックできる施設であり,ハックできる人たちがいるということだった.どこでも使おうと思える建物の空間を実際に使ってみたり,多くの異なる領域を拠点とする集団がそれぞれの集団をハックしてみたりと,施設と組織自体を中の人たちが改変していく.アーティストという何もないところから始める人とともに作業をしてきたYCAMのスタッフは,0から考えることに慣れているとR&Dディレクターの伊藤隆之さんが言っていたように,YCAMは0から1にする行為を行い続けている.しかし,よく考えてみると0ではない.そこにはすでにアーティストがいて,建物があり,組織がある.けれど,YCAMはそれを既定のものとせずに,常に改変できないかと様子を伺っている.専門委員の城一裕さんを中心にして,展示施設としてだけでなく研究施設へと整備されていく様子は,国の制度をハックして,YCAM自体が改変されているように見える.HELLO, YCAM!のトークセッションは,YCAMが自らを改変していくプロセスが話されていたと思う.


Sports Hackathon & Yamaguchi Future Sports Day from YCAM on Vimeo.
エデュケーターの菅沼聖さんがエキソニモをゲストに迎えた「教育」をテーマとしたトークで「書き込み可能性」と言っていた.この言葉を聞いたとき,YCAMのスタッフは「書き込み可能性」を自ら拡張していると私は考えた.公共施設という縛りがきつそうで書き込みの余白がほとんどなさそうなYCAMで,なぜ「書き込み可能性」自体を拡げることができるのであろうか,ということを大学という組織に属している私はトークを聞きながら考えていた.このテキストを書いている時点ででた一つの答えは,彼らはテクノロジーをうまく使っている,ということだった.YCAMはテクノロジー万能主義ではないけれど,テクノロジーを使うことで「これまで違うことができる」ということをポジティブに考えている.「それは単にあたらしいテクノロジーを使っただけではないのか」という問いがあったとしても,それは単に「問い」でしかない.YCAMの施設,スタッフはテクノロジーを作品に,身体に,教育に,地域にと様々…

Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE

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私が参加している科学研究費の研究グループ「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」の年次報告書みたいなもの & ARTZONEで行われた渡邉朋也個展「信頼と実績」の記録として「Poi vol.2 featuring Tomoya WATANABE」を刊行しました.デザインは前号に引き続き,『科学者の網膜』が話題の増田展大さんです.
目次は以下の通りです.


目次にもあるように,私は「作品解説」を書いています.渡邉さんと田川さんが懇切丁寧な解説を解説を書いているので,私はタイトルの文字列から考えられることを書きました.

また,秋庭さんの論考で触れられている私のブログはこちらです

告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する


8部配布できるものがありますので,希望者の方は以下のフォームに記入をお願いします😊
Poi Vol.2 への興味,ありがとうございます🙏 手持ちがなくなったのでひとまず回答受付を停止しました.

読み込んでいます...



[科学研究費基盤研究(C)「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)]

MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第12回「ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》」が公開されました.

「モノとディスプレイとの重なり」と題して書いてきた連載ですが,ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》を取り上げた今回は「ディスプレイ」は出てきません.代わりに出てくるのは「穴」や「影」といったモノのようでモノでなくて,モノに依存しているような存在です.ディスプレイはイメージの支持体として考えられますが,よく考えてみれば,イメージに依存して存在する「穴」や「影」のような存在なのかもしれません.だから,モノとしてのディスプレイが消えたとしても,ディスプレイは一つの場として,イメージとの関係のなかで存在し続けるのでしょう.そして,谷口暁彦さんによるカバーイメージは,最後は宇宙にまでいってしまいました.そんなこんなで今回で連載は一区切りです🖥🕳💻

よろしくお願いします😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊

新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」の個人的振り返り

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8月19日(土)に京都のメディアショップで新視覚芸術研究会第4回シンポジウム「デジタル時代の次元の折り重なり」を開催しました.東京から来ていただき,デジタルメディアの指標性について,あらたな視点を出してくれた永田康祐さん,そして,暑いなか,来ていただいたみなさま,本当にありがとうございます!
私は「次元の折り重なりを透かし見る[👁📷🎥 → 🖥|/|👀] デスクトップ・リアリティと永田康祐《Function Composition》」という発表をしました(→発表ノート).発表は,「👁📷🎥 → 🖥|/|👀」という絵文字が示しているように単眼👁の📷のようなふたつの眼👀でディスプレイ🖥という体験に変わった時に,二つの二次元平面「| |」が重なり合って,そこに「 / 」的な透き間が生まれて,そこに三次的な表象が入り込むという流れです.
発表後のラウンドトークで,飯田豊さんが90年代には久保田晃弘さんや水越伸さんの著書を挙げながら,メディア論とインターフェイス論とが密接な関係にあったのに,それ以後,メディア論の系譜がつくられていくにつれて,二つの流れが乖離していってしまったという指摘は,確かにという学ぶところが多かったです.そして,この二つを再び結びつけるためにはインターフェイス論をメディアの原理論と考える必要があるというのは,私のこれからの課題だと思いました.
「デジタル時代の次元の折り重なり」というテーマに基づいて,発表の準備をしていて,辿り着いた前面と背面という少なくとも二つの二次元平面=層とが重なり合いを考えていました.さらには,二つの層のあいだには「透き間」と言えるような別の空間的な何かが生まれていて,それがポストインターネットと呼ばれる作品の見え方をわかりづらくしているのではないかと考えるようになりました.そして,永田さんの発表を聞いて,二つの層と一つの透き間が絶えず入れ替わるなかでのヒトの認識を表象につなぎとめる指標的な存在を見つけ出す必要があるのかなと思い始めています.
二つの層が折り重なり生まれる「透き間」というのは,東浩紀さんが言う「不気味なもの」なのではないか,という質問をシンポジウムが終わった後に受けました.確かに,発表でも東さんのテキストは重要な役割を果たしているから,「透き間」は「不気味なもの」と考えることができるかも…

美術手帖(2017年9月号)にHouxo Que個展「S H I N E」のレビューを寄稿

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https://twitter.com/kuad_artzone/status/897814268011134976
美術手帖(2017年9月号)に,京都のARTZONEで開催されたHouxo Que個展「S H I N E」のレビュー「凹凸のない光の基底面」を書きました.Queさんの作品を継続的に見てきて,今回はじめてあらわれた「光の色面の重なり」やディスプレイに表示された「文字」について書いています✨
レビューのお供にこちらのテキストもお読みいただけるとうれしいです😊 →モノとディスプレイとの重なり 第3回「光を透過させ、データとは連動しないディスプレイのガラス───Houxo Que《16,777,216 view》、Evan Rothの《Dances For Mobile Phones》