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2010年の簡単なまとめと,2011年へ

2010年は,「カーソル」の研究からはじまって,それがエキソニモさんのカーソルを使った作品《断末魔ウス》と《↑》への論考につながった.エキソニモ論文と同時に,藤幡正樹さんの作品における「薄さ」を考える論文を書いていた(エキソニモ論文は無事刊行され,藤幡論文は今印刷中).幸い,このふたつ論文は査読を通った.このふたつの論考を足がかりに,これまで研究してきたユーザ・インターフェイスから,メディアアートへと研究の幅を広げていきたい.もともとはメディアアートの研究をしていて,そこからユーザ・インターフェイスへと向かったので,やっと元に戻ったとも言える.

論文以外では,「間主観的な映像」というタイトルで学会発表を行った.ドナルド・ディヴィッドソンの「三角測量」という考えを使って,映像を理解していこうという試みでしたが,まだまだこちらの方は考えがまとまっていない.しかし,ディヴィッドソンの考えは,メディアアートとユーザ・インターフェイスでなぜ,ヒトとコンピュータとのあいだにコミュニケーションが生じるのかを考えるうえで重要なのではないかと思っているので,少しずつでも考察を進めていきたい.

2011年は,「情報美学概論」という講義を行うことができるので,メディアアートとユーザ・インターフェイスとをパラレルに扱いながら,ヒトとコンピュータとのあいだの「美学」を考えていきたい.

また,伏木啓さんの《Fragmentation》への論考を書きながら,ショットを繋げていく映像と固定ショットにおいて選択範囲を作りそこだけの時間・空間の在り方を変える映像との違いを考えた.そこで,前者は平倉圭さんの『ゴダール的方法』で極限までに考察されているけれど,後者にはまだまだ「分からない」領域が広がっているような気がした.ユーザ・インターフェイスの映像は,動かない映像の中に次々と選択範囲,もしくはカーソルの「縄張り」の領域をつくっていくものだと考えているので,ここを解明していくことで,固定ショット&選択範囲の映像のことが少し「分かる」のではないかと思っている.あとは,ユーフラテスさんの映像も固定ショット&選択範囲の映像の一種だと思うので,ここもまた,2011年にはじめて行う「映像文化」という講義で考えていきたい.

なぜカーソルにこだわるのか from .review

.review に書きかけの論考から.講義準備やら,査読論文の校正やらで考えが進まないうちに,年末になってしまった……. -- なぜカーソルにこだわるのか。
カーソルもまたアニメーションのキャラクターと同じ二次元の表象である。しかも、コンピュータを使わざるを得なくなっている現在の環境において、もっとも目にする二次元の表象のひとつだと言える。しかし、カーソルと私たちとの関係はこれまでほとんど考えられてこなかった。そして、考えられないまま、カーソルはひっそりとディスプレイ上から消えていくかもしれない状況になってきている。
いつもいつも目にしている表象から、ヒトは少なからず影響を受けているのではないかと言うのが、私の考えである。つまり、カーソルは私たちに何かしらの影響を与えている。しかし、カーソルは物語を持たない。そして、歴史を持たない。それゆえに、考える対象とならない。物語と歴史があれば、ヒトはその対象を考えることができる。しかし、それらがないとヒトはその対象を掴むことができない。対象は、するすると逃げていく。いや、私たちの意識が対象から逃げいく。カーソルは私たちの意識から逃げて行き、そして、何事もなかったのように、ディスプレイからもなくなろうしている。このとてもひっそりとした存在の意味が掴んでみたいのである。そして、カーソルが私たちに与えている影響も考えてみたい。カーソルが絶対的な存在でなくなった今だからこそ、カーソルの存在が相対化され、その存在が意味を掴めるような状況になってきていると、私は考えている。

何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」 【ドラフト】

何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」

3つの映像の「退屈さ」と「心地よさ」
伏木啓の《Fragmentation》は,3つの映像から構成される作品である.3つの映像が順番に,2面スクリーンに投影される.2つの映像は,それぞれ新宿駅の交差点と公園の様子を固定ショットで撮影したものである.あと1つの映像は,紅茶を注ぐ白いワンピースの少女を撮影したもので,これはショットが次々と入れ替わる.

新宿駅の交差点と公園の風景を固定ショットで撮影された映像は,2面スクリーンに映し出されていることで,スクリーンの繋ぎ目に生じる時間と空間のズレが興味深いと思うけれど,退屈さを感じる映像である.それはただ新宿駅の交差点と公園をスクリーンに映し出している.しばらく見ていると,少しおかしいことに気付く.それは新宿駅の映像では,スクリーンの左端を横切る電車が全く通りすぎないことであり,公園では誰も乗っていないブランコが延々と揺れていることである.電車とブランコがループしている,ということに気付いたとしても,それが技術的に可能なことはすぐに分かるので,目の前の日常的風景から受ける印象は,やはり退屈なままである.

白いワンピースの少女が,ポットからティーカップへと紅茶を注ぐ映像はとても心地がよい.少女が注ぐ紅茶は,なぜかいつまでも注がれ続ける.紅茶が注がれるあいだ,少女は様々な場所に立つ.2面スクリーンがそれぞれ違うショットを映し出す.少女の全体の姿と注がれる紅茶のアップであったり,少女と観覧車だったりと映す対象は様々であるが,2面にそれぞれ異なるショットが映されることで,映像のあいだに関係が生まれ,そこから心地よいリズムが生まれている.

しかし,作品を見ている時と,それについて書いているときとで,3つの映像に対する印象が異なるのである.見ているときは,少女が紅茶を注いでいる映像が心地よく,一番印象的であった.あとの2つは面白いなとは思ったが,退屈さを感じておりあまり印象に残らなかった.けれど,映像について考え始めると,電車とブランコの映像の方が,白いワンピースの少女よりも興味深いのである.

「いまここ」へ集中する矢印
ショットのつながりで作られた映像に,私たちは慣れている.ショットを小刻みに刻んでいけば,「いまここ」は簡単にあいまいになっていく.それが2つのスクリーンで行われれば…

光とプラスチックと仮現運動(PDF)

学会誌に投稿したがボツになって,細切れにこのブログに挙げていたものを,PDFでひとまとめにしてあげてみる.

ゲームについて,映像の仮現運動という現象とコントローラのプラスチックというマテリアルから考えたもの.映像学85号にのっていた岩城覚久さんの「イメージ生成システムとしての映画 ──ベルクソンと知覚のシネマトグラフ的メカニズム──」や,まだ手に入れてもいないけれど,きっと映像を捉えるための新しい方法を提供してくれるだろう,平倉圭さんの『ゴダール的方法』も読んで,もう一度,この問題を考え直したいと思っている.

光とプラスチックと仮現運動:ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力
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以下,大分長くなってしまった「はじめに」です.

はじめに
ビデオゲーム1の「パックマン」には、ワープ通路と呼ばれる場所がある。画面右側のワープ通路を端まで行くと、パックマンが一度暗闇に消えて、一呼吸おいて、左側のワープ通路からひょっこり現れる。ワープ通路を通るパックマンの消滅と現れに対して、映像作家の佐藤雅彦は、<ワープ>がどういうことかわかったと書いている。
仮現運動が、例えば猛獣などのが草木に隠れながら素早く移動するときにそれを認知するといった、現実に根ざした生得的能力であるのに対して、<ワープ>を認知する能力は、メディアの発達が目覚めさせた生得的能力なのではないだろうか。われわれがそれをSF小説やSF漫画で知識として知るのは、もちろん《パックマン》よりはるか前のことであろうが、その<ワープ>という表象をわれわれの内部に実際生むこととなったのは、パックマンをはじめてプレイしたときだという人が多いのではないだろうか。もしかして、それ以前のゲームに同様な動きが組み込まれていたとすれば、そのゲームで<ワープ>の表象を初体験した方もいるだろうが、重要なのは、どのゲームで知ったとか、いつ知ったとかいうことではなく、<ワープ>については現実として体験したことがないのにもかかわらず、そのテレビゲームに触れた瞬間に、大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった(=表象した)ということなのである(佐藤 2007:46)。 ここで興味深いのは、佐藤が「テレビゲームに触れた瞬間に」と書いているところである。「パックマン」を含むビデオゲームは、見るだけではなく、手元…

Fragmentation メモ:中心への「↑」とループ|バラバラ|往復の「↑」

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伏木啓さんの Fragmentation を考えていたときに描いた図. 作品の時間の流れを示そうとしている.中心へと流れ込む時間.これは,フルッサーがテクノイマジネーションでの時間意識といったものに近い.バラバラな時間の向きの中に点線で囲まれた選択範囲があってその中だけ時間がループしたり往復しているのは,テクノイマジネーションの「あと」の時間意識なのではないだろうかと考えている.テクノイマジネーションが歴史の「あと」にあるとすれば,歴史の「あと」にあるテクノイマジネーションではない「もうひとつ」の時間意識.多くの視点をとることがテクノイマジネーションだとすれば,この「もうひとつ」の時間意識もテクノイマジネーションの中にあるものなのか? しかしそれとは異なる感じがする.「もうひとつの」という言葉や,自分が気になっている矢印が示す「その先にあるもの」というのは多様な視点をとることとも違う.そこには,私たちがどうしても「入り込めない」領域があるような気がする.そこに入り込んでしまうと,ループや往復している時間が示す「退屈さ」があるのではないか.

ループや往復している時間が「退屈」なのだろうか.それとも,それらの時間に入り込めそうで,入り込めずにバラバラな時間の中にいることが「退屈」なのか.バラバラでもなく,ループしているわけでもなく,かといって時間の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.時間の中にたしかにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.居場所がないととすれば,不安になるのではだろうか.しかし,作品を見ているときの感覚は「退屈」であった.居場所がなくなり,時間との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことからくる「退屈さ」だったのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.そこで選択範囲が反転して,自分が時間が中心となり「退屈さ」がなくなる.

Fragmentation メモ:「いまここ」へ集中する矢印

カットのつなぎにより物語を作り出す。線形的な物語ではないけれど、カットのつなぎはどうしても物語を作ってしまう。シーンごとの時間の流れの向きは異なり、矢印の向きはバラバラだけれど、それぞれが結びついて重層的な時間の流れを構成する。多くの向きがバラバラの矢印があり、それがいっときひとつの対象にその向きをいっせいに向けられることで、対象に意識が集中する。そのとき、意識はその対象にひとつにのみ向けられる。カットの連続で作られる映像は、矢印がいっせいにひとつの対象に向けられた時だけを切り取って、それを結びつけている。矢印が向けられている対象に位置は毎回異なるかもしれないが、矢印が異なる方向を示していることはない。

2つのスクリーンで構成されていて、それぞれが異なる時間の向きを示しているとしても、最終的には意識の矢印はひとつの時間・空間を指すことになる。最終的には、見ている人の「いまここ」の中に、映像は流れ込んでいく。2つのスクリーンの力をかりて、映像の「いまここ」は重なり合いあいまいになっていくが、見る人の意識の中で、ひとつの「いまここ」を示す矢印が生じることになる。ドイツのメディア学者のヴィレム・フルッサーが示す「いまここ」へと集中する矢印の図のような意識が生じているといえる。その意味で、2つのスクリーンとカットで構成された映像は、フルッサーが「テクノイマジネーション」と呼ぶものを示していると考えられる。線形的ではない意識、多くの視点をもち旋回しながら自分という中心に至る意識としてのテクノイマジネーション。線形的なクライマックスはないが、中心をもつがゆえに盛り上がりを持ってしまう映像。物語を排除した映画のような映像であるが、その構造ゆえに物語を作り出してしまう。

Fragmentation メモ:映像内の選択範囲と世界の複数性

作品を見ている時と、それについて書いているときとで、3つの映像に対する印象が異なる。見ているときは、少女が紅茶を注いでいる映像が一番印象的であった。あとの2つは、面白いなとは思ったが、あまり印象に残らなかった。けれど、映像について考え始めると、あとの2つの方が興味深いのである。

少女が紅茶を注ぐ映像は、カットが次々に切り替わるリズムが心地よいものである。あとの2つはカットが切り替わることはなく固定ショットである。固定ショットの中で、あるひとつの範囲、電車とブランコが延々と動き続けるように加工されている。

カットのつながりで映像を作っていくことに、私たちは慣れている。カットを小刻みに刻んでいけば、「いまここ」は簡単にあいまいになっていく。それが2つのスクリーンで行われれば尚更である。2つのスクリーンでひとつの対象を異なる捉えた映像を同時に流したり、ひとつのスクリーンは対象を映し出し、もうひとつが全く関係ない情景を示したりする。鑑賞者はこれら2つの映像を結びつけていく。2つの映像の関係を作る中で、「いまここ」があいまいになっていく。

しかし、これはみんな知っていることである。どういうことか? カットのつなぎで作られていく映像では、出演者も制作者もいま自分が行っていることが「カット」され断片化されて映像作品となっていくことを知っている。鑑賞者も、予め断片化されることが決まっていたものをつないだ映像を見ていることを知っている。ここではすべてが予め断片化されている。

固定ショットの映像の場合はどうだろうか。固定ショットでは、今回の場合、写っている人たちは自分が映像作品の一部になることも知らない。ただ自分の時間の流れの中にいるだけである。その一部をカメラが捉えている。その意味では、時間の断片化が起こっているとは言えるが、断片化されても時間の向きはその人自身に属している。人に属している時間の向きを変えられないため、固定ショットの映像では、そこに写り込んでいる「電車」と「ブランコ」の時間が断片化される。そのひとつの断片を延々とループするように時間の向きが変えられる。向きが変えられるのは「選択範囲」の中だけであり、選択範囲外には全く影響がない。「選択範囲」だけ、時間の向きが変えられるのである。そして、それ以外の人やものは自分たちが属している時間の向きで存在している。「選択範囲」と「…

Fragmentation のためのメモ:もうひとつの選択範囲

すべてを選択するのではなく、一部を選択すること。選択した一部の範囲をループさせること。そこだけ、時の流れが滞留する。画面の中の人は、誰も気づかない。画面の外で映像を見ている人は気づく。

世界の一部をカメラで切り取った映像は、すでに断片化している。世界を断片化する映像の一部に選択範囲を指定して、そこだけ時の流れる方向を変えて、さらに断片化する。最初の断片化が空間の断片化だとすると、次のものは時間の断片化と呼べるかもしれない。空間を断片化するカメラの存在には、映像内の人々は気づくことができる。しかし、編集上で決定される画面内の選択範囲とそこで施される時間の断片化について、映像の内の人々は知ることができない。

画面の中に滞留する時の流れを作り出すこと。映像を見る人はそこに注目する。なぜなら、時間が滞留しているから。ループする時間に人々は注目する。それは、普段体験することがないから。時は流れるもの。だから、滞留する時間には、人々は注意を向ける。それが操作された時の流れであっても。

滞留した時間に意識がいくほど、今度は普通の時の流れが気になり始める。普通の時の流れが、意識を向けられるもうひとつの時間となる。特別なわけではないが、「もうひとつの」という言葉が与えられることで、普通の時の流れの意味は変化する。選択範囲を一度決めることで、「選択範囲を反転する」という選択肢が生じる。反転した選択範囲は、「すべてを選択」していたときとは異なる意識を見る人に与える。

「多くの」ではなく、「もうひとつの」くらいが丁度いいのかもしれない。人が意識を向けることができるのは、意識を向かう先と、さらに「もうひとつ」くらいなのではないだろうか。意識が向かう先がひとつあり、さらに多くのことを意識することはできない。意識が向かう先のもうひとつ先くらいにしか、人の意識は選択範囲を定めることができないのではないだろうか。

あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──

日本映像学会の学会誌『映像学』85号に「あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──」が掲載されました.

この論文は「カーソル」の性質を,エキソニモさんの《断末魔ウス》と《↑》から考えたものです.
はじめに 本論考が考察の対象とするのは、ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である。とはいえ一口にカーソルといっても、それは CUI(コマンド・ライン・インターフェイス)にもあり、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)にもあり、iPad に代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように、その現れ方も一様ではない。そこで本論考はさしあたり、GUI におけるカーソルに焦点を絞る。なぜなら、四半世紀のあいだ、私たちとコンピュータとを結びつけてきたのは GUI だからである。GUI でカーソルは手の「拡張」やマウスの「分身」として機能して、人間とコンピュータというふたつの異なる存在を結びつけてきたと考えられている。しかし、私たちはカーソルのことをどれほど理解しているのであろうか。「拡張」や「分身」という言葉でカーソルを理解したつもりになっているだけではないだろうか。そこで、まず GUI におけるカーソルが曖昧で多くの「わからなさ」を抱えたイメージであることを確認する。そして、カーソルを「中途半端な存在」として受け入れるエキソニモによるふたつの作品、《断末魔ウス》(2007)と《↑》(2010)を論じる。この作品の考察から、カーソルが現実世界と仮想世界との「あいだ」を作り出し、その「あいだ」を移行していく存在であることを明らかにする。  興味ありましたら,本当は学会誌を手に入れて読んで頂きたいのですが,普通の書店で売っていないものなので,ドラフトをここにおいておきます.ドラフトなので,『映像学』に掲載されているものと若干異なります.もし引用される場合は,『映像学』を参照ください.『映像学』が手に入りづらい方はご連絡ください.

Fragmentation:断片と矢印

断片に「意味」を与える矢印。
←→↑→↓↑
左右上右下上、ではない。
矢印の先への意識。
矢印の先の先への意識。
「矢印の先の先」は、そこには見えないかもしれないし、見えているかもしれない。どちらでも関係ない。
ただ「矢印」があり、「矢印」には「矢印の先」があり、「矢印の先」には、「矢印の先の先」があるだけ。
断片と矢印が組み合わさると、断片は始点・終点になる。矢印は、断片が断片のままであり続けることをできなくする。断片は「何か」になってしまう。にもかかわらず、矢印は、矢印のままである。
そこに矢印はない。そこには、移動し続ける電車、揺れ続けるブランコ、注がれ続ける紅茶しかない。しかし、それらの動きの向きを意識すると、そこに矢印が現れてしまう。それは、どうしようもないこと。

矢印についての寄せ集めメモ

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「矢印」について考えたいと思っていて,Youtube で見つけた動画.いろいろなところに矢印があるな.
以前,教えてもらった廣村正影さんの矢印関する仕事も気になる. 矢印 意識と行動予測の視覚化 去年銀座で展覧会やったときにいくつかのムービーをつくったんですね。矢印っていうのは面白いなって思ってサインをやることになると矢印たくさんつかうじゃないですか。それで矢印が動いたらどうなるんだろうなって思ったんですよ。人間の頭に矢印をつけて歩いてもらったらどう見えるんだろうなって思ったんですよ。頭に矢印ついてると、興味がある方向に少しぶれたりするんじゃないかなって思ったんですね。  地球大学クリエイティブ 第2回 廣村正彰「意味のコンテクストをデザインする」from tamalog 2次元(2 dimension)の平面的とも言えるサインデザインが、3次元(3 dimension)の空間の中に位置付けられたときにいかなる視覚効果をもたらすかということに注目し、これまでの「サイン計画」や「VI計画」の概念を取り払い、様々な建築家や写真家とのコラボレーションを手がけてきた異色のクリエイター・廣村正彰。  今回の展覧会では、1階では「矢印→」や「アルファベット」をモチーフに、矢印という記号それ自体が、空間の中で動きをもった表情を得ることによって、平面にはない新たな意味をもつのではないか。  http://www.tokyoartbeat.com/event/2007/5284 2次元と3次元のあいだを移行する「矢印→」.カーソルも含めてというか,カーソルから派生して出てきた「矢印→」そのものへの興味をどう研究に結びつけるか.アートの領域では,クレーとか,荒川修作とデュシャンとかも「矢印」を考えるうえで重要.アートとかデザインとか区別せずに,「矢印→」を中心にしてそれらをリンクさせていければおもしろことになりそう. 矢印は位置と向きと長さの3つの情報を同時に表すことができる記号だ。だから力や運動の位置、向き、大きさを過不足なく表すことができる。ふむ、そう考えるとサインに使われている矢印はたいてい情報が余ってるな。  https://twitter.com/yam_eye/status/27793247926 その際に大きな指針を与えてくれそうなのが,インダストリアルデザイナーの山中俊治さんのこのツイート…

「Timeline Dream」であまり注目されないカーソル

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au のウェブアトラクション「Timeline Dream」.「このサイトには一部幻想的な演出が含まれていますが、バグではありません。」と注意書きが書かれています.詳しくは,体験してみてください.エキソニモの千房さんが関わっているらしく,カーソルの動きまでも「幻想的な演出」がなされています.最初は,バグというか,「あれっ目の錯覚かな」って感じです.面白いです.普段,意のままに操っているカーソルに演出が及ぶと,「バグかな」とコンピュータのせいにするよりも,「目の錯覚かな」と自分の方に原因があると思ってしまう自分の反応が面白かった.また,「Timeline Dream」の紹介のブログをいくつか読んでみたけれど,カーソルについて書かれているのがないことも面白かった.あまり注目されないカーソル.もしくは,これを体験しているときに,多くの人はカーソルを動かさないのであろうか.「Timeline Dream」を体験する際には,カーソルにも注目してみてください.

「Google で、もっと。Fashion Show with 画像検索」からカーソルを考える

このグーグルのCMをテレビで最初に見たとき,ただ単純にとても面白いと思った.プロジェクターの使い方がいい.センサーとか使ってインタラクティヴな仕掛けをするのではなく,プロジェクターとスクリーンのあいだに,人が立つだけ.単純なんだけれど,プロジェクターとスクリーンのあいだには何も置かないこととというこれまで暗黙の了解みたいなものが,あっけらかんと破られている.

あとはやはりカーソル.グーグルのトップページで検索するときに,スクリーンの前に立つ女の人が,カーソルの移動を追う.このときだけ,カーソルはスクリーンの前に立つ女の人に意識される.あとはまったくカーソルは意識されていない.検索ボタンを押すときだけ,カーソルが意識されるのはグーグルの広告だということもあるけれど,検索窓から検索ボタンに移動するあいだ,カーソルは何もしていない.ただ場所を移動しているだけである.しかし,そんなときに限って,カーソルに注意を向けてしまう.

ファッションショーをしているときは,カーソルは服などが映しているウィンドウを移動させるという役割を追っている.きっちりと役割を果たしているのに,スクリーン前の女の人にはまったく注目されない.MacBookを操作して,カーソルを動かしている女の人は少しは意識しているだろうけれど,他の人はまったく意識されていないかもしれない.それは,服そのもののところではなくて,ウィンドウの端にカーソルがあることと関係していると考えられる.

カーソルがしっかり仕事をしているときには,それに意識がいかなくて,ただ単に移動しているときに限って,カーソルに注意が向けられるということは,この「↑」のイメージの性質:「あいだを移行する」ということを示しているのではないだろうか.カーソルは何かと何かのあいだにあって,役割を担わずに,ただ場所を移動し,役割を移行しつつあるときにだけ,私たちの注意を向けられるイメージなのではないだろうか.

修士論文

マルチ・イメージを用いた映像インスタレーション作品にみられる電子社会の時間意識(pdf)」修士論文(提出:名古屋大学大学院人間情報学研究科)2004年3月 本論文は,電子社会における時間意識を,1990年代に多く発表されたマルチ・イメージを用いた映像インスタレーション作品から読み解くものである.そのために,エイヤ=リーサ・アハティラの《ウィンド》,ヘールト・ムルの《Transfer Points》を考察した.これらの作品の分析から,電子社会においては,「空間的な編集可能性をもった時間」という意識が広く浸透しているという結論を導いた.

Expanded Smooth

SMART THINGS: Ubiquitous Computing User Experience Design, MIke KUniavsky を読んで,印象に残ったテキスト.デジタル情報は,手に触れることができる固有な性質を持っていないということ,デバイス間の情報のシームレスのやりとりに「なめらかさ」という言葉が与えられていること. Traditional material (steel, plastic, or cotton) have properties such as elasticity, strength, resistance to corrosion, etc., but digital information has none of these inherently. (p.48) 伝統的な素材(鉄,プラスチックや綿)は,伸縮性や強度,腐蝕耐性などの性質を持っているが,デジタル情報はこれらの固有な性質を持っていない. These technique approach ubicomp UX design involving multiple devices by smoothing over task disconnects through consistency. No technique has emerged as dominant and it may be that technological immaturity will continue to frustrate designers' attempts at anything but highly limited continuity. This may actually be for the best. Critiques of attempts to create "seamless" interaction often conclude that clear but inconsistent interactions may create more continuity than consistent but confusing ones. (p.281) ユビキタスコンピューティングのユーザエクスペリエンス・デザインに対するこれらのテクニックは,一貫…

メモ:「行為なき身体」=カーソル(?)

この前ふと,マウスとカーソルのつながりの不自由さこそが,「コンピュータの身体性」なのではないかと思った.
マウスとカーソルとのつながりは,常に画面上の一点を指さなければならないという不自由さをヒトに与える.私たちはそれを不自由だと思ってきたのだけれど,コンピュータにしてみれば逆に,それが一番よい行為と出来事との組み合わせではなかったのではないだろうか.ジェスチャーを行っているときの所在なさげなカーソルは何も機能を果たしていないにも拘わらず,画面上に留まる.この所在なさげなカーソルは,ヒトがコンピュータに対して,ジェスチャーという新しい行為をすることで生まれている.ジェスチャーは,コンピュータに対するヒトの行為を,マウスとカーソルとのつながりから解放した.けれど,コンピュータにとっては,意味も無く画面を漂う時間をもつカーソルを生み出してしまった. (このことは以前,「機能不全」を体現するカーソルで書いた)
ある一点に注意を向けるさせることが,「コンピュータの身体性」を形成していると考えてみる.常にある一点に意識を集中させることで,周縁がなくなりすべてが中心になる.同時に,常にある一点に意識を集中させていることで,その瞬間瞬間に周縁が生まれている.コンピュータが自ら行為することができず,ヒトの行為を誘い出して新たな出来事を生じさせていると考えるならば,「次,次,次,次...」と行為を要求してくるカーソルは,「コンピュータが「行為なき身体」という言葉で示すことができる性質を持つことを体現しているのだろうか.
しかし,エキソニモの《断末魔ウス》では,カーソルそれ自体がハックされる.このときのカーソルは私たちに次の行為を要求しない.ただ,過去の出来事の記録して画面上に映し出されている.また,エキソニモが東京藝術大学で行った講義の際のパフォーマンスの記録映像を見ると,カーソルはリアルタイムに制御されている.このときは,カーソル自体が行為を行っていると考えることもできる.ということは,カーソルはここでは「行為なき身体」を体現していない.もともと「コンピュータの身体性」とは,「行為なき身体」という言葉では表すことができないということなのか.ヒトと接しているときに,ヒトにとって有効に機能しているときには,「行為なき身体」という言葉をカーソルやコンピュータに割り当てることはできるかもしれない…

メモ:ヒトの行為は平面に対してのみ行われている

5個の点が,5本の指を表している.この点を操作する指の動きは,iPadのディスプレイのガラスの上で,粘土をこねるような力を加えているようにみえる.ここには,平面と立体とのあいだで生じる移行に関する不思議さがあるように思える.
ヒトはディスプレイの中には入り込めない.どうしても,ディスプレイの表面の二次元に留まらざるを得ない.その際に,ヒトは自らの身体の一部を,ディスプレイ上のイメージに置き換える.今回の映像では,5本の指を5つの点に置き換えている.正確には,5つの指の「先」を5つの点に置き換えている.指の「先」だけで「粘土」みたいなイメージを「こねる」.その際に,iPadという平面的なものを傾けたりすることで,ディスプレイ上の立体物のイメージを動かす.平面的なものに触れたり,動かしたりすることで,立体的なイメージを操作する.それが最終的には,3Dプリンターで立体的なものになる.
ヒトの指はもともと立体なものだが,それが平面上の点になり,そこでの行為が立体を生み出す.この時,行為の「結果」は平面と立体とのあいだを移行しているが,ヒトの行為は平面に対してのみ行われている.ここに不思議な感覚を覚えるのである.

iPhoneのアニメーションを意識して電車の中で、iPhoneを使ってメモを書く

エキソニモのカーソルを用いた作品を考察した際に,カーソルは「あいだを移行する存在」だと指摘した.そうだとするならば,アニメーションもまた「あいだを移行する存在」だと言えるのか? 私たちのの注意を移行させているカーソルとアニメーション.

次に移行させる!カーソルの矢印の先に意識を移行させる.アニメーションはどう意識を移行させるのか? 行為の「次」を示すようなアニメーション.次から次へと現れては消えて行くことで,次々に意識を移行させていくアニメーション.仮想と現実とのあいだではなく,ただ単に「次から次へと」移行を発生させる.ひとつの世界の中で,「次から次へと」ということ.カーソルでの移行は空間が問題であったが,アニメーションでは空間ではなく,時間が問題になっている.

カーソルは「↑」という基本形態をもつが,iPhoneのアニメーションはそれをもたない.ヒトに次の行為を促すためだけに,様々な形態を示す.画面上に常にあるわけでもない.ヒトに次の行為を促すときにだけ,パッと現れては,シュッと消える.

iPhoneのアニメーションは,押した時に現れて,離す時に消える.アニメーションは,押した指をいつ離すかを示している.押した後に必ず起こる「離す」という行為のタイミングを示すアニメーション.

アニメーションとカーソルを考えるためのメモ

「押す」行為に対して変化しないカーソルについて書いて(→カーソルが示すひとつの切断),そのあとこう考えた.
カーソルが画面上の「ボタン」を押したときに、何も変化するを示さないように、タッチパネルで「ボタン」を「押した」ときの指も変化をしめさない(実際には、押していないから、触れているだけだから).画面上でアニメーションがあるところと、ないところと、ヒトの身体との関係.アニメーションのある/なしと「コンピュータの身体性」との関係.http://mmmemo.posterous.com/32483046これを書いたのは,Twitterで次のようなツイートが流れてきたことが影響している.最初のは,デザイナーの原研哉さん,ふたつ目は,坂本大介さんと渡邊恵太さんが行っている「インタラクションデザイン研究会」の第三回目で,渡邊さんが言ったことをLunarModule7さんが書き取ってくれたもの.
タッチパネルの感触はガラスの感触ではない.インタラクションの様相がそこに全く新しい「触覚」を育むだろう.ボタンに触って「にゃ〜」とゆっくり反応するのと、「ピッ」と電子音で鋭く反応するのでは、脳が感じる触覚が異なる.http://twitter.com/haraken_tokyo/status/29654770743渡辺:iPhoneと身体性の例.iPhoneのアニメーションは身体性と大きく関連している.滑らかに動くことがカーソルの役割をしている.こうした滑らかなアニメーションがどうして重要なのか? そうした製品が見られるようになってきたが,エフェクトでは駄目. #sigixdhttps://twitter.com/lunarmodule7/status/29546365253「滑らかに動くことがカーソルの役割をしている」という渡邊さんの言葉は,今後カーソルを考えていく上で,とても重要なヒントだと思う.まだ,うまく言葉にすることはできないけれど…….

カーソルがヒトの行為を示すものではなく,ただ単に注意を引きつけるものだと考えるとすれば,滑らかなアニメーションがカーソルになると考えることができるのではないか.しかし,カーソルの示す先というある一点に注意を集中することと,滑らかなアニメーションが示すような注意の先が一点に収斂するのではなく,漠然とひろがっているような状態とでは,やはり感覚が異…

カーソルが示すひとつの切断

カーソルは画面上の「ボタン」を押す.そのとき,押された「ボタン」は,押されたことを示すアニメーションが付与される.それに対して,カーソルは何も変わらない.マウスのクリック音や,「ボタン」のアニメーションで「押す」という感覚をユーザに与えようとしているにもかかわらず,「ボタン」を押しているカーソルは何も変化を示さない.

指でボタンを押すときは,ボタンも押される,押している指にも変化がある.カーソルが手の延長として画面上にあるとすれば,イメージとして表示されている「ボタン」を押したときに,カーソルにも変化があるべきなのに,「↑」のイメージには何の変化:アニメーションも与えられない.それでも,私たちは「ボタン」の変化だけで「押した」ことを認識する.カーソルは指の延長ではあるが,現実の指と同じ変化は示さない.なぜなのであろうか.カーソルに押したことを示すアニメーションをつけることは難しいことなのだろうか.難しくないとすれば,なぜつけないのか? 「ボタン」の変化とともにカーソルにもアニメーションをつければ,より「押した」感じがでるのではないだろうか? だが,今までのところ,カーソルにはアニメーションが与えられていない.それは必要ないと,どこかで判断されているのであろう.

ヒトが「触れる」対象についてはアニメーションが与えられるが,ヒトの手の延長として機能するカーソルにはアニメーションが与えられない.これは「コンピュータの身体性」に関係することかもしれない.ヒトはカーソルを手の延長として考えているが,コンピュータはその関係をボタンを押すという行為の最終段階で切断しているのではないだろうか.もちろん手そのものがディスプレイに入り込むことはないのだけれど,カーソルに「押す」ことのアニメーションを与えないことで,コンピュータは手がディスプレイに入り込むことを阻止しているのではないだろうか.コンピュータはカーソルにアニメーションを与えないことで,それがヒトの手の延長ではなく,あくまでも「コンピュータの身体」であることを示しているのではないだろうか.

しかし,カーソルにアニメーションを与えないことを判断しているのは,コンピュータではなく,ヒトである.ヒトはカーソルを手の延長として作りながら,最後の最後で自らの身体とカーソルを切断していると考えることもできるかもしれない.

コントローラの問題 for touch-touch-touch

「コントローラに関するメモ」を書くきっかけになった講義のためのスライドのブログヴァージョン.コントローラの問題 for touch-touch-touch
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ゲームのコントローラに関するメモ

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薄型のゲーム&ウオッチにジョイスティックを納めて,なおかつ確実に押している方向がわかるということから考案したんです. 橫井軍平ゲーム館:ゲームボーイを生んだ発想力,橫井軍平・牧野武文講義の準備をするために読んだ本からの引用.近頃考えている「薄い」という言葉がでてきている.考えてみれば,ファミコンのコンピュータは薄かった.それに十字ボタンが貢献していることを知る.ファミコンの二次元の世界には,「十字ボタン」というジョイスティックを平面化したデバイスが 有効であった.ディスプレイ上の世界が二次元なら,それを操作するコントローラも平面的な「薄い」ものであった.二次元と平面/薄さの対応関係.

家庭用ゲームに「奥行き」が出現し始めたとき,その空間を操作するインターフェイスも「3D化」が迫られた.ニンテンドウ64の3Dスティックは形としてはジョイスティックを小さくしたものだが,それをコントローラの中央に大きく据えたことで,左右どちらかの「親指で操作」することを可能にしたのだ.「テレビゲームのインターフェイス」,桝山寛 in BIT GENERATION 2000ゲームの世界が立体化していくと,コントローラも厚みを帯びて立体化していく.このコントローラは,ファミコンのように「平面的/薄い」ものではなく,立体的なオブジェである.握りやすさを考慮したひとつのオブジェ.オブジェは言い過ぎかもしれないが,少なくても平面的なものではなくなっている.

NINTENDO64の1年半前に発売された,3Dグラフィックスの描画を特長としたプレイステーションのコントローラには「3Dスティック」はついていないが,これももはや「平面的」ではない.

スーパーファミコンのコントローラは,真上からみれば「平面的」であるが,上面にLRボタンがついたために『立体化』の兆しが見える.

コントローラを「平面/立体」で考えてみると何か見えてくるだろうか.アタリ 2600 のジョイスティックも考えると,ファミコンのコントローラが示す「平面性」は家庭用ゲームのコントローラでは異質なものかもしれない.

「接触|感知|表示」という3層構造

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iPhone4などに使われているこの3層構造で何か考えることができないかと思っている.3層構造がマルチタッチを実現していることには,何かしらの意味があるのではないか.フロイトのマジックメモも3層構造なので,何か考えるヒントがここにはあるような気がしている. iPhoneは大きなマルチタッチディスプレイと革新的なソフトウェアを搭載しているので,指先だけですべてをコントロールできます.その仕組みをちょっとだけご紹介しましょう.まず,ガラスに貼付けられたパネルが,電界を利用して指先の接触を感知します.さらに複数の指による接触を識別し,ピンチして拡大,2本指でタップなどの高度なジェスチャーも読みとります.このパネルで収集した情報が,その下にあるRetinaディスプレイに伝達され,思いのままの操作をできるようにするのです.http://www.apple.com/jp/iphone/design/保護層としての「ガラス」,接触層としての「電解を利用して指先の接触を感知する」パネル,その下にある表示層としての「Retinaディスプレイ」. パネルを「接触層」としてみたけれど,実際に指と接触しているのは「ガラス」である.しかし,指の接触を感知する層として機能している.接触層としての「ガラス」,感知層としての「パネル」となるのだろうか.「接触|感知|表示」という3層構造が,マルチタッチを可能にしている.これが,ディスプレイ上のイメージに「直接」触れているという感覚をつくり出している.

仕組みを説明する図では,感知層が盛り上がったりように表示されていることから,「層」というよりももっと柔軟な感じがする「膜」といったほうがいいのかもしれない.そして,図では3つがそれぞれ離れているが,実際は密着している.3つの層が密着して一枚の薄い膜として機能することで「直接」という感覚をつくり出しているのであろうか? 

何がマジックで,何がマジックではないのか?

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アップルTVが出る前に妄想されたアップルTVのリモコン(この記事を翻訳された藤シローさんのページ→MACLALALA2).

このリモコンに対してのコメントで興味深いのが以下のもの. たしかにおもしろいアイデアだ.でもどうかな.iPhone/iPad のユーザーインターフェイスのマジックは,平らな表面に指をのせて,タップ・スライド・ドラッグすることではない.直接に操作すること,スクリーン上の目に見える対象物に実際に触れるという点がマジックなのだ.抽象的なレイヤーは剥がれ落ちてないのだ.だからこそマックで使う Magic Trackpad は iOS デバイスのような感じがしないのだ.こんなリモコンがあったら… 私たちがiPhone/iPodで行っているのは,指をスクリーンの上で滑らせることで,見えているイメージを「直接」触れることであるという指摘.確かに,Magic Trackpadを使っているときの感覚とiPhoneを使っているときの感覚はかなり違う.行っている手の行為はほぼ一緒なのにもかかわらず,視覚との関係で与えられる感覚が異なったものになるのは面白い.

イメージと手とが一緒に見えているiPhoneは,イメージに「直接触れている」として,マジックと言わる.対して,イメージと手とが離れているために,手を見ることなくイメージを操作するMagic Trackpadは,イメージに「直接触れている」感覚を与えないためにマジックとは呼ばれない.Magicという言葉を使うならば,バラバラの場所のものが対応して動くMagic Trackpadの方が,マジックのような気がするが,ここで「直接触れている」という,ヒトが古来から行ってきたことのほうがマジックと呼ばれている.だが,ここで商品名に注目するならば,「マジック」・トラックパッドである.

ヒトとコンピュータとのあいだでおこるインタラクションでは「何がマジックで,何がマッジクではないのか?」.もちろん本当に意味では,すべてがマジックではない.個人の感覚によるところが大きい問題ではあるが,ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「マジック」とは何かは考えてみると面白かも知れない.

限りなく薄く柔らかい膜

清水穣氏がリヒターの「ゼロ面」と呼ぶものと,フレキシブル有機ELによって「柔らかさ」を与えられたディスプレイは何となく似たものがあるようなと考えている.

映像の物質化と物質の映像化のあいだに生じる「ゼロ面」.「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,文字通りに映像の物質化を可能にする支持体かもしれない.と同時に,物質の表面を映像がぴったり覆うことで物質が映像化する.「あいだ」なのだが,ゼロ面はどちらでもないことから生じるのに対して,「柔らかさ」を与えられたディスプレイは,どちらでもあることを生じさせる.ゼロ面はもともと存在を認めることができないで,どちらでもないことから,あとからその存在が認められる.対して,ディスプレイはもともとその存在が認められる.そこから,「柔らかさ」が認められて,映像の物質化と物質の映像化のどちらもが生じることになる.

あと気になるのは,ゼロ面が「限りなく薄い膜」のようなものであること.ここには「柔らかい」という形容詞はない.もしかしたら,「膜」という語が「柔らかさ」をほのめかしているのかもしれないが,「柔らかさ」と明示して考える事で,新しい何かが見えてくるかもしれない.「限りなく薄く柔らかい膜」と,それを現実にモノにするフレキシブル有機ELディスプレイとのあいだを考えてみること.

モノの「柔らかさ」に貼りついた映像

ディスプレイに関して,「薄さ」「軽さ」はよく聞くけれど,「柔らかさ」はあたらしい感覚だと考えられる.未来のコンピュータを考えるときによく出てくる「丸められる紙のような」ディスプレイを実現するには,「柔らかさ」が必要である.しかし,私たちはまだ「柔らかい」ディスプレイというものに慣れていないのではないか.たとえば,プロジェクターから映像が投影されるスクリーン.これは柔らかいので,丸めることができる.しかし,丸めると,当たり前だが,映像はスクリーンの表面からなくなってしまう.フレキシブル有機ELでは,丸めても映像はしっかりと映っているはずである.見えなくなっても,ディスプレイの表面にしっかりと存在し続ける映像.ディスプレイがどのような形になろうとも,それに適応してディスプレイに留まり続ける映像.

プロジェクターからスクリーンの投影された映像は,自らの存在のためにスクリーンの表面を一時のあいだだけ借りているだけである.映像がスクリーンの表面を借りているのだが,映像が映っているあいだ,スクリーンは柔らかさを失い,硬直する.プロジェクションではない映像に関しては,ディスプレイの硬さが映像を成立させてきた.いや,映像は自らが成立するために,モノが持つ「硬さ」を利用して,「垂直」「水平」「直線」を生み出し,そこに貼りついてきたともいえる.

しかし,フレキシブル有機ELは「柔軟」である.映像がモノの表面にまさに貼りついている.ここでは,ディスプレイというモノと映像とが一体化している.モノの「柔らかさ」に貼りついた映像と言えるかもしれない.今まで映像に硬直させられてきたモノが自らの存在を「柔らかさ」でアピールしている.「薄さ」「軽さ」とモノは存在を消去する方向で映像を支えてきたのだが,フレキシブル有機ELは「柔らかさ」を示すことで,モノは映像の支持体でありながら,その存在を前面に押し出すことが可能になったといえる.
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(メモ)
私たちは,まだモノとしての映像にはまだ慣れていない.写真がそれに近いかもしれない.親しい人の写真をくしゃとしたり,破いたりしたときに,私たちは単にモノのしての紙を破いているにも関わらず,奇妙な感覚を覚える.写真は静止画である,それが動画だったらどうだろう.くしゃくしゃにされたり,破かれたフレキシブル有機ELのディスプレイで,延々と人が微笑み続けたりする…

「影|映像|薄さ」に関する朧げなメモ

ブログを,10月になって全く書けていないことに気がついた,というか確認した.ということ,歩きながら思った.

そのとき,フト,「影」について考えみようと思った.「影」と「薄さ」について,二次元と三次元との変換装置としての「影」というか,この場合,変換装置は「光」になるのかな.「影|光|薄さ」,三つの項目が揃ったのかもしれないが,これで何か考えられるのかというと,難しいかもしれない.「影|光/映像|薄さ」として考えて見たらどうであろうか.「影|映像|薄さ」で考えられること.

行為についても考えたいというか,「行為を二通りの仕方で記述すること」を考えたい.これを「影|映像|薄さ」との関連で考えてみること.映像という次元変換装置と,それによって捨象される「影」,及び,それによって付与される「薄さ」.そこで起こる「行為」,及び,行為の記述の二重化.

「次元間移行」に関するメモ

今行っている論文修正で出てきた言葉「次元間移行」.平面と立体とのあいだの「次元間移行」ということとから,出来事の「次元間移行」を考えるべきかもしれない.ディスプレイ行為は,出来事の「次元間移行」と関係しているのではないだろうか.出来事がディスプレイ上のイメージの次元とモノの次元とのあいだで,なめらかに移行するようになったから,新しい行為が発生した.

そして,今までは「次元間移行」の「移行」をカーソルが担ってきた.iPhone ではどうか.カーソルがない.「移行」が起こらない.本当に「移行」は起こっていないのか.本当に「移行」は起こってないような気がする.そこが今までのパソコンとは,全く異なる感じを与えるところなのではないか.「次元間移行」を感じさせないということ.現実と仮想と,モノとイメージとがひと続きになっていること.

「現実世界|カーソル|仮想世界」に関するメモ

現実世界とは,物理法則に則った世界の在り方を指している.仮想世界は,コンピュータで作られた世界の在り方を指している.この二項対立的な世界の捉え方は単純すぎるかもしれない.カーソルは,このふたつの世界の在り方に対する認識のモードを切り替え,移行させる存在として,私たちの認識の最前面に位置しているのである.カーソルが世界の在り方自体を変えることはない.だが,カーソルは世界の在り方を,人間の側での認識のモードで移行可能なものにしてしまうのである.
「現実世界|カーソル|仮想世界」に関するメモを非常勤先の大学に行くときに書いていて,そのメモと似ているというか,念頭に置いていたのが,下の文章.そして,下の文章を読んで,さらに書き直したのが上の文章.
繰り返されない変化に関わるモードを物語と呼び,繰り返される変化に関わるモードのことをゲーム,とここまで呼んできた.この二つのモードは世界のありよう自体に関わるものではない.世界のありよう自体についてではなく,世界のありようについての認識のモードなのである.それゆえに,ある状況がゲームでありうるか,物語でありうるのか,ということは容易にスイッチしうるのだ.(p.263) 井上明人「ゲームと物語のスイッチ」in PLANETS VOL.07

「平面|カーソル|薄さ」に関するメモ

「薄さ」を考えると,すぐに思い浮かぶのがマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」.避けては通れないけれど,触れると火傷するような概念でもある.けれど,もしかしたら,アンフラマンスとテクノロジーという関係が成り立つのではないだろうかと思う.いや,アンフラマンスではない言葉,概念を見つけるというか,成立させることが求められている.コンピュータの世界と物理法則の世界との関係に回収されない概念を見つけること.このことを考えると,カーソルというのは,コンピュータの世界にも物理法則の世界にも回収されないひとつの概念ではないだろうか,と考えたくなる.どちらの世界にも属し,どちらの世界にも属さないあいまいな存在・概念としてのカーソル.カーソルが作り出しているディスプレイ上の薄い平面.カーソル自体が活動するために必要な「薄さ」.横から眺めることができない「薄さ」.横からも,斜めからも眺めることができないできない平面.それゆえに,そこの「薄さ」は確かめることができない.けれど,「薄さ」を感じてしまうような平面.ひとつの動く記号自体が,平面であること.平面の上に記号が乗っているのではなく,記号自体が平面であること.地も図もなく,それらがあいまいなっている平面.斜めからも,横からも,その存在を眺めることができないがゆえに,平面と認めざる得ない平面であり,それを構成する記号とその薄さ.ひとつの埃が動くことで,半透明な薄さを作り出すようなものであろうか.埃は積もることで,半透明な感覚を作り出す.カーソルは,それ単体で半透明な感覚を作り出す.埃という集合体のヴェールの薄さと,カーソルという単体の記号による薄さ.埃に指で触れると,埃がなくなる.埃がなくなった指のあとは,なんとなく落ち着かない.せっかくの埃のヴェールを壊してしまったという後ろめたい感覚.薄さを突き破ってしまったという感覚.カーソルは,薄さを作っているという感覚.カーソルを動かすことで,ひとつの薄さが生じる.薄い平面が,ひとつの平面の上に重ねられる.カーソルが動いた箇所に,埃の上で動かした指の跡のような居心地の悪さはない.いや,カーソルが風車になっているときの,何もできなさ感じの居心地の悪さはある.下の平面上にある記号にアクセスできなくなる,これもまた記号であり,平面を作り出すカーソル.自らが作った平面の薄さを突き破ることができなく…

慣れた世界に関するメモ

コンピュータという論理機械を通して,物質を再構成して行く.もちろん,その物質は物理法則の中に置かれる.私たちは物理法則には慣れているが,コンピュータの論理世界には慣れていない.しかし,人間は何にでも直ぐに慣れる.私たちは,コンピュータが作り出した論理世界とその物理世界への介入に慣れてきている.慣れの具合に個人差があったとしても,あとは程度の問題である.

慣れた世界は,コンピュータの論理世界でも,物理法則に単に則った世界でもない.そこは,人間の世界である.人間の認識によって,モノの輪郭が与えられる世界.いくら天板が薄くても,テーブルはテーブルなのだ.プロジェクションされているとはいえ,トランプはトランプはなのだ.そして,テーブルはテーブルのモノとしての輪郭があり,トランプにはトランプの輪郭がある.それは論理で決まっているわけでもなく,物理法則で決まっているわけでもない.ただ,人間の認識において現れるのだ.この慣れ親しんだ世界に,コンピュータは介入する.モノを支配している物理法則を,コンピュータは巧みに操作することで,今までにはなかったようなモノの輪郭を作り出す.私たちは,この新たな輪郭と今まで慣れ親しんだ世界の輪郭との対比させて,新たな輪郭に新しい認識を与える.

キーボードにおける「薄さ/平面」という切断

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2007年に発表されたアップルのキーボードを見ていると,平面の上に平面を重ねている感じがしてくる.重ねられた平面がキー/ボタンなわけでだが,キー/ボタンという言葉から感じられるモノとして質感が,このキーボードから感じられない.平面の重なりという印象が強い.キー/ボタンがモノから平面になっている.そして,上の平面が引き剥がされてひとつの平面としてトラックパッドがでてきているような.この見方は,1984年からのキーボードを順々に見てきても思い浮かばない.2010年のトラックパッドから,2007年のキーボードを見たときに思い浮かんだ.2007年のキーボードと,それまでのキーボードのかたちとのあいだにには,「薄さ/平面」という切断がある気がする.

「薄さ/平面」以前のキーボードは,どこまでもキーボードであり続ける.「薄さ/平面」以後のキーボードは,平面の重なりを変えればキーボードにもなるし,トラックパッドになるというように,何にでもなることができると考えることはできないだろうか.

カフェで平面についていろいろと考えたメモ

カーソルがあるGUIとカーソルがないタッチにおける平面の差.これは単にインターフェイスの問題だけなのだろうか.

カーソルを動かし,スクロールバーを上下させて,平面を上下させる.スクロールバーを手で動かしている感じ.対象を掴むという感覚.対象は,平面から独立している.

タッチの場合は,対象が載っている平面自体を動かすという感覚.平面が動くから,その上に載っている対象も動くという感じ.平面の上に載っている対象は,対象として独立していない.載っている平面に結びつけられている.

平面に対する感覚の違いは,インターフェイスの問題だけにとどまるものであろうか.ここからアートやアニメの問題に広げて行けば,ひとつの平面論が構成できるのではないだろうか.

石上純也のとても薄い天板を持つ《テーブル》における,極限にまで薄い平面とそれを支える構造との関係.
藤幡正樹のインタラクティブではない作品《未成熟なシンボル》におけるプロジェクションが作り出す極限にまでに薄い映像世界とモノの厚さとの関係.
藤木淳の《無限回廊》における二次元と三次元とのあいだの関係.
パターンがはめ込まれたアニメにおける平面.(このパターンが二次元と三次元とのあいだにある次元を作り出していると指摘する論考があるらしいので読んでみる.)

これらは二次元と三次元とのあいだに漂う新しい平面の問題を提起しているような気がする.

カーソルをもつGUIの平面は,二次元でもなく三次元でもない新たな平面を作り出したと言われるが,タッチのインターフェイスは,とても二次元的な気がする.どこまでも二次元だけで成立している平面.これはこれで今までとは異なる仕方で,平面が構成されている気がする.

GUIが一般化して,それがタッチに変わろうとするときに,建築やアート,ゲーム,アニメの領域でそれぞれ新しい平面を示すような作品が生み出されていること.ここに共通する何かを見つけ出すことはできるであろうか.コンピュータによって可能になったGUIが示してた新たな平面.そして,その新たな平面を自ら更新するコンピュータ.

二次元と三次元とのあいだに漂う新たな次元を探る一方で,二次元であり続ける平面が生み出されてきていること.

石上純也「建築の新しい大きさ」から考えた「薄さ」の構築のメモ

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できるだけ薄く,軽やかに,広く,できるだけぼやかしてゆく.すべてが,量子の揺らぎのなかに,ゆっくりとひろがってゆくように.ぼんやりした概念,ぼんやりした機能,ぼんやりした領域,ぼんやりした集まり,ぼんやりした方向.あらわれつつあるあたらしい環境のなかに建築が溶け込んでゆき,同時に,建築があたらしい環境をかたちづくるようになる.

建築の新しい大きさ,石上純也




石上さんの建築はたわんでいる.ゆらゆらしている.ちょっと間違えると倒壊してしまう.でも,危ういバランスという印象はない.鋭くない.ぼんやりしている.

石上さんの建築はとても薄い.今の自分の興味から,この薄さに惹かれている.薄いから,ゆらゆらしているが,しっかりと立っている.《雲を積層する scale=1/1000》で,眼の前のゆらゆらとしたものが自立してることに気づいたときは,ちょっとした驚きがあった.

薄くてゆらゆらしている平面を支える構造.「支える」という感じではない,平面に構造が密着している.眼の前にあるのは確かに三次元の立体なんだけれど,ぺらぺらした二次元の平面のように感じられる.三次元でもあり,二次元でもあるような不思議な次元が広がっている.

たわんで,ゆらゆらしている立体でもあり,平面でもあるようなモノ.あるいは,単に「薄さ」.「薄さ」の構築.この展覧会に展示されている作品は,どのようにすれば「薄さ」が作られるのかを実験しているかのようにもみえた.物理的に薄いというよりも,薄さを生み出す「スケール」を作ること.

愛おしい指紋/カラフルな指紋

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佐藤雅彦さんがディレクションした「これも自分と認めざるをえない」展の書籍『属性』を買って読んだ.展覧会は既に体験していて,そのときの体験も前に書いた→「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

『属性』とともに,美術手帖も佐藤さんの特集しているので,少しずつこの展覧会について考えられたらいいなと思っている.今回は《指紋の池》.と言っても,これはもう佐藤さんの文章がいいと思う.

この『指紋の池』という作品では,指紋認証のセンサーに指をつけると,自分の指紋が池に放流されて,まるで魚のように泳ぎだします.そして,一旦泳ぎだして他の人の指紋と群れ合うと,自分の指紋がどれか分からなくなります.これが普段の私たちの状態です.しかしもう一度センサーに触れると,その群れの中から一つの指紋が抜け出して,一目散に自分の方に近寄ってきます.その時,初めてあなたは自分の指紋に対してある愛おしさ,あるいは慈しみを感じるのです.自分の指紋にこのような感情を覚えるのは,これが人類において初めてのことです.この『指紋の池』は,自分が実際には同定できない自分の属性に対して,新しい慈しみを表象させる装置です.(p.10)
自分の指紋に対して「愛おしみ」「慈しみ」の感情を抱くこと.この作品を実際に体験すると,佐藤さんのこのテキストを読んでいるかどうかにかかわらず,きっとほとんどの人が,「愛おしみ」や「慈しみ」の感情を抱くと思う.テキストの作品の仕組みのところだけ読むと,センサーを使って人の行為に反応するだけの作品の思える.けれど,多くのメディアアートが示す無機質さとは異なる感情をこの作品は呼び起こす.それは,指紋が生まれ,旅立ち,再び戻ってくるときの動き,アニメーションの力によるものだと思う.

ディスプレイに映っている指紋の大きさであったり,そのちょっとした動き方が,とても細やかにデザインされている.このアニメーションの力と指紋認識センサーとが組み合わさることで,「新しい慈しみを表象させる装置」が生まれているのだと思う.アニメーションも古くからある装置であり,指紋認識センサーも最先端の技術ではない.でも,これらを組み合わせることで,「人類において初めてのこと」が起きてしまう.


「これも自分と認めざるをえない」展とは関係無いが,これもまた指紋を今までにない方向で意識させ…

二重肯定の世界のコピペ

もうひとつのブログに書いた文章.気になったのでこちらにもコピペ.
ディスプレイは見ているときには,単なる平面で,
触れてた時には,モノ,立体的になる.
でも,モノになっても,やはり平面なんだよな.
触れていても,見ているから.
触れてもいるし,見てもいる.
平面でもあり,モノである.
Aでもあり,Bでもあること.
二重記述の世界.しかも二重肯定の世界.

二重肯定の世界?
またまた無責任だけれど,自分的には面白い言葉.
どんどん世界が,二重肯定の世界になっていっている.
Aでもあり,(同時に)Bでもある.
同一性が前提とされない世界.
マルチモーダルな世界.
ちょっと違うか.
同時に複数の存在でありえる世界.
多が多であり続ける世界.
当たり前のようだけれど,なんかひっかかる. 平面が平面のまま,立体であること.または,その逆.ディスプレイの中の出来事.机の薄さ.アンフラマンス.次元のあいだの移行.半透明.あいまいさの境界.

コピペして,もう少し考えようとしたらけれど,こちらではあまり考えがまとまらない.まだ,そういう段階だということかもしれない.

再びの .review

.reviwe にアブストを書いてみた.http://dotreview.jp/abst/

iPhone と  Apple wireless keyboard の組み合わせで比較的長い文章を書いてみる実験.そこから見えてくるかもしれない,新しい平面の感覚の輪郭をなぞれればいいなという試み.

「側面」についてカフェで書いたメモ

側面が気になる.
横の「平面」.平面を支える側面.
同じ「面」なのに,側面と平面では扱いが違う.
平面をはだいたい,というかほぼ正面からみた面.
メインの面.でも,側面は横にあって,普段は目立たない.
でも,側面がなければ平面はなりたたない.
それが水平であっても,垂直であっても.
モノとしある時点で,平面には側面がある.
でも,コンピュータのなかには,側面がないような.
デスクトップメタファーには平面しかない.
側面がないのではないか.これが面白い点.
自分で勝手に面白がっているだけなのかもしれないが.
側面が薄いと,それは側面とは呼ばれなくなる.
面という意識がなくなるから.
側面がなくなって,単なる平面になる.
実際には極薄の側面があるのだけれど,
ヒトはその極薄の側面を無視する.

側面.デスクトップではカーソルを横から眺めたらどうだろうという疑問を思い浮かべる.こんなことを思うのヒトは少ないかもしれないが,確実にいるはずです.では,iPhone とかのディスプレイの中を横から眺めるということを思い浮かべるヒトはいるだろうか.少なくとも,これを書く今のいままで,そんなことを思ったことはなかった.iPhone のディスプレイの中には側面を想像させる,側面というか,横から眺める・覗くという発想を呼び起こすモノや出来事がないのかもしれない. カーソルが作る半透明な層みたいなものがないからかもしれない.平面は重なると側面を作る.

緑の風景

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すべてがグリーンに囲まれた世界がひとつあって,そこに様々な別の世界が当てはめられていく映像のほとんどがコンピュータを用いた合成で出来てることを知ってはいても,このクロマキーについての映像を見ると,とても不思議な気分になってくる.世界そのものが平面で構成されているという感覚.レイヤーの重なりというのものとも違う.ただ平面の組み合わせで出来ている.世界が平面になっているという感覚.重なりもない.
撮影している時は,緑の壁があってその先がないのに,編集・合成時に緑の壁に道路が現れる.壁の先があるようにみえる.でも,実際には道路の先がない.この映像で東洋人の人がタイムズスクウェアの中心にいる映像があるけれども,実際は緑の壁に取り囲まれているだけ.その先には何もない.
























緑の薄い壁が組み合わされて,世界が出来上がる.「薄い」といっても実際は薄くはないけれど,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.出来上がった映像に映し出されている,しっかりと厚みをもった世界と比べると,緑の壁は「薄い」.このような緑の壁は,コンピュータの中では「レイヤー」として扱われている,まさに厚さをもたない極薄の層なのであろう.しかし,現実には確かな厚みをもつ平面的なモノである.

緑の「薄い」壁が組み合わされて世界が出来上がる.「薄い」といっても実際には薄くはない.しかし,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.その「薄い」緑の壁を撮影して作り出されるのは,しっかりと「厚み」をもった世界である.映像という「平面」的なイメージの中で緑の「薄い」平面から「厚み」をもった立体の世界が生じる.[2010.11.14 書き直し]

クロマキーに関する映像を見ていると不思議な感じが残り続けるのだけれど,それが何なのかはまだはっきりとしない.少し書いてみても,まだはっきりとしていない.
この緑の風景は,コンピュータの中で起こっていることを,現実の世界に持ち込んだような風景なのかもしれない.

ドイツには行けなかったけれど……

ドイツでの「翻訳」をテーマにしたシンポジウムに応募したアブスト.ここに上がっているということはボツ.この大元の文章をここまで修正してくれた mzkawa さんに感謝.いっしょにドイツで発表したかった…….

これを頭の中で反芻しつつ,.review のアブストも別のテーマで書いてみようと思っている今日この頃.
ーー
藤幡正樹の作品における行為と出来事(仮)

日本を代表するメディアアーティストとして知られる藤幡正樹の作品は,多くの人がインタラクティブ、即ち人とメディアとの相互作用性/対話性に特徴があると思っている.しかし,藤幡は「インタラクティブ」という概念自体に疑問を投げかけている.最近の藤幡の作品は,インタラクティブなものではなく,ループするアニメーション作品であったりする.しかし,アニメーション作品であっても,そこにはインタラクションがあると,藤幡は考えている.本発表は,藤幡作品におけるインタラクションを,行為と出来事という観点から考察するものである.ここでは、ドナルド・デイヴィドソンに代表される分析哲学の言語観に依拠し, 人間とメディアとの間で生じる一種の「コミュニケーション」の問題としてインタラクションを捉える.そして,人間とメディアという非対称な関係において生じるコミュニケーション成立の可能性の要件――言語一般で言うところの「翻訳」の問題――について考えることになるであろう.

薄さの閾値

2014年の日常を描いた動画.主役は,タッチ型インターフェイス. デバイスが薄い.もうディスプレイしかない.この薄さがとても気になる.ちょっとしたことで,壊れてしまうような薄さである.動画の最初,目覚ましがなっているところがあるのだけれど,昔ながらのベルの目覚まし時計のモノとしての存在感と,その手前に置かれた薄いデバイスとの対比が面白い.
デバイスの操作は,iPhone から変わっていないみたい.ディスプレイに手を伸ばす.歯を磨きながら,鏡に映し出された映像を操作するところは大袈裟にも見えるけれど,みんなやりだすのであろうか.鏡,机の上とありあらゆる平面に情報が映し出される.
オフィスで使われているディスプレイは半透明で,向こう側が見えるようになっている.これは,おそらくディスプレイの透明度を自由に変えられるようになっているのであろう.
この映像を見ていると,私たちがこれほどまでに「平面」を意識することがあっただろうかというくらい,薄い平面が生活に溢れている.鏡は今もある,でもそこに情報が投影されることで,透明な鏡の上に薄い膜がかかっているようで,鏡が平面であることを意識してしまう.壊れないように手でもっているデバイスは厚みを感じさせない.持つことできる薄い平面.机の上のディスプレイも平面である.しかも,半透明でその存在感は限りなく薄い.しかし,これらの平面は確かに薄いけれど,それは持つことが,あるいは操作することができる「厚み」をもっている. 
まだよくわからない.iPhone や iPad で行っていることの延長なのか.それとも,これらのデバイスが薄さの閾値を超えたときに,全く異なる体験が生まれるのか.デバイスが「薄く」なっていって,そこに映し出されているイメージ,情報があたかもそれだけで存在しているような感じなっているのか.でも,それは夜にiPhoneをいじっているときにも感じる.しかし,そこには確かにモノとしての厚みを感じてもいる.モノとしての「厚み」はどこまで感じるのであろうか.モノをモノとして感じないで,単なる平面,あるいはカードと感じてしまう閾値はどこにあるのか.カードもモノであると言えばそうであるが,モノをたんなる平面だと感じてしまう薄さの閾値はどこになるのか.
もしかしたら,これらかのインターフェイスはモノと平面(イメージ)とのあいだを自由に行き来できる「薄…

「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない

インタラクションデザインは人間と論理的世界のせめぎ合い、それが与える経験、便利とか役に立つという日常からより精神的な世界へ。論理的な健全性を持ちながら、生身の身体とインタラクションをして精神性を与える。美学と倫理と論理の世界だ。カント的宇宙を超えて、この3者の融合は可能なのか? http://twitter.com/NaohitoOkude/status/22943134116 慶應大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)の奥出直人さんのツイート.インタラクションデザインがすべてを総合する学になるという宣言.私はこのツイートを読んだとき,そう思った.
私はヒトの身体がどのようにコンピュータが作り出す論理的世界に入り込んできたのかをGUIで考えてきた.そこでは「メタファー」が大きな役割を果たしていると,自分では結論づけた(→メタファーと身体との関係).ヒトはコンピュータと共同でひとつの世界を作り出した.そのときに必要であったのは,コンピュータ科学だけではなく,ヒトがこれまで世界に対処してきた言語,身体から生まれた能力であった.
今まで,そのひとつの世界の生成は,ディスプレイの表面だけの出来事であった.ディスプレイ上だけでも「ひとつの世界」を作ることは,とても大きな意義があったけれど,それが画面を飛びだしてきた.KMDはヒトとコンピュータとが作り出す新しい「ひとつの世界」を作り出そうとしている.大きなヴィジョンである.

しかし,私は「ディスプレイ」に留まりたい.インタラクションが起こる表面に留まりたい.タッチ型インターフェイスになった「メタファー」が画面から消えたと言われる.多くのメタファーが陳腐化して,死喩となっていくように,「デスクトップ」からはじまったヒトとコンピュータとを結びつける「メタファー」はなくなっていっているのかもしれない.「メタファー」がなくなることは何を意味するのか.と同時に,コンピュータの論理的世界がディスプレイの外にも飛び出してきていること.「メタファー」がなくなっても,「ひとつの世界」がディスプレイを飛びだしても,それでもディスプレイ,インタラクションの表面は残る.「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない.インタラクションデザインは,もっと立体的な出来事なのかもしれない.

これまでも,そしてこれからもディスプレイの表面で,コンピュータ…

「『薄さ』を与えられた平面」で使われなかったテキスト

きっかけから言えば,平面性という問題なんです.トランプは平面でできています.写真などをはじめとするイメージ画像というものは,平面であることが前提になっていますので,平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが,立体的な物は扱い難いんです.その意味で,テーブルとトランプという組み合わせは,イリュージョンを作りやすいということがあったんです.(pp.120-145)
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藤幡作品を考えるためのキーワードとして「平面」,「投影」,「重なり」があると考える.「投影」は「平面」を必要するし,「投影」すれば「平面」に「重なり」が生じる.「重なり」が生じた「平面」は立体なのではないかという疑問も起こる.

《Beyond Pages》と《未成熟なシンボル》の共通点.記号.行為と出来事.シンボルとオブジェクト.意味と無意味.

本という平面の重なりでできた物体.「平面の重なり」
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言語というある意味1次元な連なりが3次元のオブジェを作るのだが,それはひとつだけではなく,多くの可能性のなかのひとつであり,その可能性すべての言葉のつながりは2次元の地図を構成する.
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平面(?)→立体
「形をめぐる探検隊の残した地図」
ところがここに提示された地図というのはそこでの出来事,プロセスが二次元的に拡げられて示されている.例えば,ヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアなヴィデオを再生するようにプロセスをトレースするリニアな「ホット・プロセス」ではなく,ノンリニアに示された「コールド・プロセス」として示されているのだ. この図版はコンピュータに対して行われたすべての行為の時間軸を忘れさせるようなかたちで,フラットにして見せてくれているのである.
密着する平面
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《Beyond Pages》は,行為と出来事の地図を立体化した作品なのだ.《禁断の果実》では作品を支えるためにあり表には出てこずに,制作者である藤幡のためにのみ存在していた地図が,3次元化することで観者が体験できる出来事として出てきたのである.ここでも,問題は「平面」と「立体」のあいだの行き来なのである.
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ヒトが言語によってコードを作り上げていて,そのコードに基づいてコミュニケーションを行っているというのが普通の理解である.しかし,ドナルド・ディヴィドソンは言語にはコードなどなく,その場その場でそ…

「あいだを移行する『↑』」で使われなかったテキスト

この連続を,私たちはよく「インタラクション」と呼んでいる.実際のところは,インタラクションとは,カーソルによって,ディスプレイ上のどこかのアイコンやメニューを「ここ」「これ」と指し示し続けることだといえる. 
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上下左右斜めを意識することもなく,ディスプレイという平面を「↑」が動くことは,カーソルを手の代理だとみなすために必要なことだといえる.
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川崎は論考の最後で「交代」でも「並置」でもない「根拠なき分身」という存在を提唱する.カーソルはカーソルでありながらマウスでもあり,マウスはマウスでありながらカーソルでもあるような状態.カーソルとマウスはヒトとコンピュータを使うヒトを二重化したものなのではないだろうか.つまり,コンピュータと接するヒトをモノとイメージへの「分岐の可能性を孕んだ存在」へと変容させる.しかも,私たちはこの存在の根拠が曖昧なカーソルを簡単に受け入れている.「カーソル」をそのまま「分身」として認識し,それを根拠を欠いたまま受け容れること.カーソルはヒトの分身でありながら,コンピュータの分身でもあり,モノでありながらイメージでもある.私たちはGUIでコンピュータを操作するときに, このような曖昧な存在をそのまま「分身」と受け容れている.
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カーソルをヒトの「分身」と考えるならば,それはヒトが属している大きな秩序のひとつである物理法則に則っていなくてはならない.
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カーソルをめぐる言説を集めてみると,それは「手の代理」であったり,「視線の代理」であったり,ただの「分身」だったりしながら,コンピュータがヒトの意識を我が物にする記号であったりする.さらに,デスクトップ・メタファーの中で,現実世界にないのに存在している記号であって,まさに「カーソルって何だ?」という状況になってくる.
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だから,私たちはカーソルというよく分からない映像を語るときに,身体やマウスといったモノとして確かにある既知のものと関係付けるのかもしれない.
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ここで「カーソルとは何か」を改めて考えるために,カーソルを動かすことを考えてみよう.哲学者のフレッド・ドレツキは次のように書く.

私のコンピュータのキーボードにあるバックスペース・キーを叩くことは,カーソルを左へと動かす.運動の原因は,バックスペース・キーへの圧力であり,この出来事およびそのコンピュータの…