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メディアアートはさらに夢を見るのか?

1945年のヴァネバー・ブッシュの「As We May Think」から始まる,膨大な情報量を処理していくためのヒトとコンピュータとのあいだのコミュニケーション/インタラクションをよりよくしていく壮大な夢.それが,ひとまず,1984年のアップルのマッキントッシュで終わると考える.
1989年のジェフリー・ショーの《レジブルシティ》からはじまる.コンピュータを使ってより自由なインタラクションを創造していくというきらびやかな夢.このラインとは別のところで,コンピュータ科学者がいろいろなインターフェイスを創造していたのだろうけれど,1989年から1998年は,アートにおけるインタラクションの追求の方が,やはりきらびやか.もしくは,新しく開発されたインターフェイスが魅力を放つところとして,アートが機能していたのかもしれない.ここにメディアへの批判的まなざしがあったのかは考えないといけないところだが.
1998年以後,つまりグーグル以後は,再びアートよりも,ユーザ・インターフェイスの研究の方が目立つ.メディアアートやネットアートが掲げ,それを捉えようとしていた大きな夢を,グーグルやフェイスブック,ツイッター,Wii,Kinect が実現していっている感じがする.
ユーザ・インターフェイスが夢を見て,それを土台にメディアアートがさらに夢を見て,それらの夢をネットやゲームが実現していっているような.この実現からさらにアートはさらに夢を見るのか,それともそれを批判していくのか.

2010年度情報技術論《断末魔ウス》感想

2010年度の講義でも,エキソニモ《断末魔ウス》を見て,感想を書いてもらった.金槌,グラインダー,そして水攻めの3つの映像.感想の中に,
マウス(カーソル)が急に生き物のように見えた。やっぱりそれだけ私の中のマウス(カーソル)の存在が曖昧だからなのかなあというのがあった.「曖昧な存在」としてのマウス|カーソル,まだまだ考えることは沢山ありそうです.

→ 2009年度のもの
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マウスは生きているわけではないのに、見ていて悲しくなりました。

ただのマウスなのにすごくかわしそうな気分になった

マウス大好きだからこわい

とくになにも感じない
個人の変わった自己満程度にしか思わない

動きがおもしろかった

すごくシュール
ぱっと見ただけだと意味がわからない

どうしてこうなった!

芸術臭がプンプンして見てて飽きなかった。

普段マウスに対して「可哀想」なんて言葉は思いもしなかったが、あの映像をみて感じた。見るのが辛い。

普段道具てして使っているマウスが、ああいうふうに撮られると生き物のように感じられた。

マウスにいったい何の怨みがあるのかと想像してしまった

痛そうで可哀相でした...

マウスからの情報が途絶える瞬間を表現しているのを感じました

マウス(カーソル)が急に生き物のように見えた。やっぱりそれだけ私の中のマウス(カーソル)の存在が曖昧だからなのかなあ

生き物ではないのに何故か可哀相に思えた…。

猟奇的で怖いと思った

まうすがなければ
パソコンが使いにくくて
しょうがない…
マウスは大事にしよう。

一人で見たら恐すぎ

ブラックユーモアでおもしろくてタイトルも良いと思いました。
切なくて、マウスに感情移入したのは初めてです。

なんか不気味。なにかが異常だなぁ。
あとマウスって結構頑丈なんだなと思った。

シュールだと思ったw
意外と耐久力があってびっくり
でも力尽きた感じが可哀想だった

どうしてマウスを壊しているのかよくわからなかったけど、水で地味に壊しているのがシュールだったw

生き物じゃないものを生きているように見せる発想がおもしろいです。
物を大切にしようという気持ちになりました。

これを作った人は何か嫌なことがあったのかな

名前が面白い。
すごく残酷で本当に断末魔の叫びが聞こえてきそうだった。
ストレス発散になるかも?
でもマウスがかわいそう…

切るのは、マウスがかわ…

伊藤計劃『ハーモニー』の中に出て来た「カーソル」

拡現[オーグ]のコンタクトが常時モニタリングしている注視点.徳目イチロゥが一体視界内の何を観たか.そのカーソルがちょこまかちょこまかと動き回って彼が見つめたものを抽出していく.そのリストと,注視点の挙動自体を許に心理傾向解析モデルががんがん数式を回転させて徳目氏の自殺十分前まらの心理状態を解析するが,「極端な鬱傾向」「自殺傾向」といったまったく驚きのない予想内の解答を面の皮厚く表示する.(p.123) [強調は引用者による]ハーモニー,伊藤計劃注視点を示すカーソル.意識の先を示すカーソル.その人が何を見ていたのかを,他者に示すカーソル.カーソルを追うことで,その映像を見る人はその人の意識状態もある程度わかるし,その映像を作り出しているシステムはひとつの解答をだす.カーソルから導き出される解答.

もし,その人が見ているときに,リアルタイムに拡現[オーグ]のコンタクトにカーソルが映っているとすると,カーソルは自分の意識がどこに向かっているかを教えてくれる.意識を何かに向けているのだが,それを明確に示すのは自分の意識ではなく,拡現[オーグ]に表示さているカーソルということになる.システムと結びついた意識の最前面に貼りついているカーソル.

今は何に注視しているかを,自分で判断できる.当たり前のことだが,いずれ,自分が何に注意を向けているのかを,カーソルによって示されなければ,明確にすることができないようになっていくだろうか.

情報美学概論メモ:「もうひとつの」と「ただひとつの」のあいだ

メディアアートをもうひとつの自然と考えることは、キュレーターの四方幸子さんが行っている。データとして計測可能になった自然の在り方が拡張している。サイバネティク・アースを提唱する暦本純一さんの考えも、データがもうひとつの自然となっていくことを示していると考えられる。

「もうひとつの自然」ではなく、「もうひとつの世界」の生成を考えると、可能世界論になっていく。メディアアートでは、古くから「仮想世界」という名前がつけられてその可能性を探求されてきた。

メディアアートには、「もうひとつの」という言葉が常に寄り添っている。「もうひとつの」と呼ばれてきたもののいくつかは、知らない間に「ただひとつの」とも意識されない、ただそこにあるものになっている。私たちは、「もうひとつの」世界なり、自然なりをいつかの時点で受け入れているが、それかいつだったのかを明確に示すことができない。「もうひとつの」と「ただひとつの」のあいだを分けているのは何なのだろうか? そこには何があるのだろうか?

そこには「美学」が入り込んでいるのかもしれない。「もうひとつの」が「ただひとつの」へと移行していくときを考えるには、「美学」が必要なのかもしれない。

情報美学概論メモ:メディアアートにおけるメタファー

伊藤俊治『電子美術論』を読んでいて考えたことは、1980〜90年代のメディアアートには、メタファーが溢れていること。それは、1984年に発売されGUIを一般化したMacintoshが採用していたデスクトップ・メタファーとも関係しているのかもしれない。

対して、2000年代のメディアアートは、リテラルな感じがしている。「文字通り」にコンピュータとそのシステムを捉えている。メタファーが消えているような感じがする。

どちらがいいとか悪いではなくて、「メタファー」という括りで一度、メディアアートを考えてみると、ユーザ・インターフェイスとの関係も含めて興味深いのではないかと思った。

1990年代までは「メタファー」でしか作れなかった/語れなかったものが、Googleなどの登場により、リテラルな存在になっていったのかもしれない。

ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだを考えるために、帰省のバスの中で書いたメモ

ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだ

ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていく。コンピュータという新しい対象とヒトとのあいだにどのようにコミュニケーションが生まれていくのか? それは、新しい関係を作っていくこと。

ユーザ・インターフェイスがヒトとコンピュータとの関係を一般化する。一般化された関係を、メディアアートが批判していく。そこから、新しいユーザ・インターフェイスが生まれていくとひとつのサイクルができるのだけれど、今までそんなことは起きていなかったのではないだろうか? では、なぜ起きなかったのだろうか?

ユーザ・インターフェイスもそれまでの技術への批判から生まれたものであるから、メディアアートからの批判を必要としていないのかもしれない。

メディアアートからの批判が、抽象的すぎるのかもしれない。メディアアートはそもそもコンピュータというメディアを批判しているのであって、ユーザ・インターフェイスを批判しているのではないかもしれない。

メディアアートからの批判が、サザーランド、エンゲルバート、ケイらコンピュータのパイオニアの思想に追いついていないのかもしれない。

ユーザ・インターフェイスとメディアアートのあいだで考えていくために、今の自分には、メディアアートの歴史が欠けている。まず、この部分を補強しなければならない。