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3月, 2011の投稿を表示しています

メモ:映像で理解する

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今日は,佐藤雅彦さんとユーフラテスが制作した映像についてのスライドを作っていた.その中で,「日常にひそむ数理曲線」の中に,YCAM でやったワークショップの写真が載っていた.
この写真についての説明を佐藤さんは次のように書いている.
その中のひとつのチームは,庭に出て,重心をマークしてあるトンカチを高校生に投げさせ,その映像を撮影した.その映像を,一コマ一コマ再生し,高校生にその重心の位置をテレビの画面に直接,丸いシールを貼らせることで記録していった.一番簡単なワークショップであった.そして,知識としては当然,放物線の軌跡が現れると知っていた.自分たちにとっては確認的な作業であった.しかし,3〜4枚貼られても,まだ意味を発言させなかった小さなシールは,12〜3枚をすぎる頃から,まるで見えない力を発するかのように,その姿を現し,我々の目を釘付けにさせた.(pp.60-61)
その時,「理」が姿を現した,佐藤雅彦 日常にひそむ数理曲線,佐藤雅彦+ユーフラテス この文章の中で,「一コマ一コマ再生」というところと「テレビの画面に直接,丸いシールを貼らせる」というところがとても気になった.「一コマ一コマ再生」 は,今では誰もが映像を一コマ一コマのレベル,あるいはもっと細かいレベルで簡単に操作できるようになったことと,マイブリッジやマレーの連続写真を思い起こさせてくれた.そして,「テレビの画面に直接,丸いシールを貼らせる」というのは,とっても身近なインタラクティブな作業だと思った.さらに,点の連続でトンカチの重心の軌跡を抽出していくことは,マレーのある意味不気味な連続写真にもつながる要素を持っているのではないだろうか.それはマイブリッジの馬の連続写真のように事象の「表面」を切り取るのではなく,その「深層」を表現している.

マーシャル・マクルーハンが「テレビ映像は参加,対話,深層を強調することによって,アメリカの教育に緊急計画の新しい必要性をもたらした (p.346)」と『メディア論』で書いているが,佐藤さんやユーフラテスが行っていることは,まさにこのことなのではないか.アラン・ケイがマクルーハンからの影響で,コンピュータをパーソナル・ダイナミック・メディアとした捉え直してから,「参加・対話・深層」はコンピュータの十八番になってきたが,コンピュータが前面に出てこない映像においても,この3つ…

メモ:仮想世界を示す映像_仮想世界への慣れ?

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マトリックス3部作とサマーウォーズ,電脳コイルから,仮想世界を考えてみる.
複数の映像→緑の映像=コンピュータの論理・バイナリ→ 白/黒の世界→ ゼロベースの発想=0から1,もしくは,0か1→ 現実と仮想とが重ね合わされた映像=インターフェイスとしての「使う」映像→ 仮想世界に触れる→ 仮想世界での私たち
仮想世界の前提として,至る所に映像があることが考えられるのではないだろうか? 映画からテレビ,そして,ケータイ,コンピュータのディスプレイなど.しかも,その中で映されている映像の役割が異なっている.

まず映像の役割が「見る」だけでなく「使う」ようにもなったように複数化し,ディスプレイのサイズが多様化する.そして,さらに映像の用途が多様化していく.そのプロセスの中で仮想世界がメタファーからリテラルなものになっていく.

仮想世界を示すために,まず複数・大量の映像が前提となる.そこにソリッドもしくは数字で示された映像が現れる=論理・バイナリの可視化.それが何もない世界,白もしくは黒の映像をつくる=仮想世界.そこにまたソリッドな映像を作り上げるか,それともゴチャゴチャした生活の「場」のような映像を作り上げるか=仮想世界を覆うイメージの世界.

ここまでが「見る」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと.
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ここからが「使う」ことから,仮想世界を示す映像を考えてみたこと.

一見すると,これらの映像を見ても何も違和感を持たない人が多いのではないだろうか.それは,私たちがふつうにコンピュータを使っているからであろう.しかし,なんとなく受け入れているこれらの映像を「触る」という点に関して改めて見てみたらどうだろうか?

私たちは仮想世界に慣れることができるのかどうかを考えることが大切である.そこは触れることができない,身体は自由に変えことができるという,私たちにとって何もかもが未体験の場所である.私たちは,まさに「今」,その未体験の場所をゼロベースから創り上げていっている.現在,映像作品として提示されている多くの映像を,仮想世界の設計のための青写真として捉えてみると,今までとは異なる映像の見方ができるのではないでしょうか.

メモ:仮想世界空間とみえないちから

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現実世界と仮想世界を重ね合わせたものの総体をひとつの可能世界として見る発想が生まれる(図1).そして,可能世界は「これがすべてではない」というアイデアに支えられており,そこから「みえないちから」=「もうひとつの世界」を信じるという経路ができあがる.「可能世界」という考え方の中で,現実世界はリテラルに「もうひとつの世界」との関係を持つことではじめて成立するようになっている.その上に,これらの状況を粗視化・抽象化するための「中間層」としてメディアアートが作られている,と考えてみる.

「可能世界空間論」と「みえないちから」のふたつの展覧会に出品しているエキソニモの作品は,「可能世界」を支持する量子力学的世界観そのものをを示していると考えられる.それは,「ひとつの事象に対するふたつの表現(図2)」を作品の中で示すということである.「カーソル」「スプーン」という身近な素材を「可能世界」というひとつの事象を示す印として用いて,鑑賞者がその印を見ることで,「現実世界|仮想世界」」「現実世界|みえないちから」というふたつの表現=世界を意識させる.


メモ:愛しいながらも邪魔な瞬くカーソル

ナラティヴの機能性が変化するとき,テクストによってたらしい種類の読み手が生産される.明滅する意味作用の物質的効果は外へ向かって波を打つ.なぜなら,読み手はここで別ン機能性を通して読むことを訓練させられているのだから,そして,この別の機能性は,すべてのテクスト───コンピュータが発明される前に書かれたテクストも含めて───の解釈される仕方に影響を及ぼす.例えば,一部の読み手が印刷テクストに対して今日感じるじれったさは疑いなく生理的および心理的根拠を持っている.彼らは,キーを押すことが,彼に向かって瞬きしてくれるカーソルを見ることが,恋しいのだ.逆に,他の読み手(おそらく同じ読み手であっても違ったモードであれば)は,その耐久性,頑丈さ,使いやすさをあらためて評価して印刷テクストに戻る.コンピュータを経験してはじめて,私は印刷物のある性質をすばらしいと思うようになった.本を開くとほとんどいつもうまくいくし,この時代遅れの親和性は今後何百年にもわたって変わらないだろう.私はまた,折に触れて───例えば書き物を修正するとき───,そこにはあたかも反応を求めるかのように私に向って瞬きするカーソルがいないことをありがたいと思っている.印刷物とはそうしたいだけ一緒にいることができる,というのも,それは消えたり閉じたりしないのだから.(p.105) [強調は水野による] ヴァーチャルな身体と明滅するシニフィアン,N・キャサリン・ヘイズル
滝浪佑紀訳,表象02 カーソルに関しての記述を見つけた.瞬くカーソル.私たちの反応を求めるかのように瞬いているカーソル.その存在を恋しいと思うとともに,その存在がないことがありがたいと思われるカーソル.
情報ナラティヴにおいてはしばしば,コードそのものおよびコードを生産しコードによって生産される情報工学を参照することなしには,文字通りのレベルでさえ理解できないのだから.明滅する意味作用を介して,コードの生産的な力はテクストを超えて,技術がテクストを生産する意味作用のプロセスおよび,人間を統合された回路へと巻き込むインターフェイスにまでその影響力を及ばせる.技術,テクスト,人間をつなげる回路がますます広がり,その度がますます強くなるにつれ,量的増加が質的変形へと変わる点が近づく.(p.103) [強調は水野による] ヴァーチャルな身体と明滅するシニフィ…

メモ:「見る」映像と「使う」映像

「見る」映像と「使う」映像/伝える映像/至る所にある映像/思考する映像/操作せれる映像/応答する映像/指示代名詞として使われる映像/「見る」ことができなくなってもよくなった映像/運動効果エネルギーを持つ映像.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/47602408074919936

映像は「見る」だけのものから,情報技術と結びつきながら「使う」ものになってきている.「見る」と「使う」のあいだで,映像は多様化している.あらゆるところから映像が生まれ,あらゆるところへ,あらゆる経路で流れていく
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/47602540048695296

映像の経路を多様化したことはいいことだが,それにも関わらず,画一的な映像を流し続けるテレビ.今まで得ることができなかった情報を「映像」「テキスト」としてディスプレイに映し続けるインターネット.あらゆるところから,あらゆるところへ,明滅する映像が届けられ続けられている.情報技術と結びくことで映像は多様化したが,その多様化した映像を使って,私たちは何ができるのかということは,まだよくわかっていない.そもそも映像そのものも,映画の誕生をひとつの分水嶺として,この110年あまりのあいだ,それがどういったものかは,まだよく知らないまま,私たちは映像を見続けてきたのだと思う.情報と映像が結びつくことで,より混沌としたものとなった映像をどのように考えていけばいいのか,それをまず探っていきたいと思っている.

リアルタイムと3Dにかんするメモ

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リアルタイムに関するつぶやき
身体に関わる「今」,現実の高解像度化,コンピュータの計算,速度ーリアルタイムーコントロール,身体・情動への作用.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121427368947712

空間を消滅させるリアルタイム:ヴィリリオ,身体・情動をコントロールする微少化しながらも,情報によって拡大される「今」:ハンセン,コンピュータ時間がヒト時間を浸食してきている→「今」の不確定化:複数化
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121639109857280

不確定化・複数化した「今」を安定させる「再帰」という行為・アーキテクチャ,「再帰する今」の中で,ヒトとコンピュータとは同じ時間軸に存在するようになる,コンピュータと同じ時間にあること=ただひとつの時間の形成→リアルタイム
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121762955214848

マーク・ハンセンの情動と「今」との関わりのなかでは,ヒトの身体はデジタルイメージと協働する「プロセッサ」という今までとは異なる役割をになうことになる.それは,新しい身体をつくり出すこと.不確定化・複数化した「今」とともに,身体も不確定化・複数化する.複数化した「今」と「身体」とのなかで,それぞれのひとつひとつが結びついて,ただひとつの「タイムライン」を形成するのかもしれない.

ヒトとコンピュータとで共有される「タイムライン」の中でのリアルタイム.リアルタイムが空間を排除するとヴィリリオが指摘したが,今度は空間を排除した時間の空間化が起こっている.オブジェクト指向における情報隠蔽のように,時間を空間が隠蔽する.そして,「新たな平面:タイムラインを表示するディスプレイ」が生じている.というか,コンピュータには「空間」というものがないかもしれないので,ヒトとコンピュータとの「あいだ」という関係における時間という属性をサンプリングして,空間化しているのかもしれない.

3Dに関するつぶやき
立体像がほぼ完全に「現実」を「映像」としてコピーできるようになり,現実と立体像とが融合する.そして,その立体像に立体視がつけ加わることにより,私たちは「現実」が「3D」つまり,奥行きをもった世界であることを再認…

「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センターが発行する『JunCture』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました.
この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再び平面へと至る藤幡の作品形態のプロセス。「平面的な物はイメージと実体…