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エキソニモの《スーパーナチュラル》で感じた不穏さについてのとりあえずのメモ

エキソニモ《SUPERNATURAL》を,「ニュー・ドキュメンタリー」の中で展示されたホンマタカシ《re-construction》と比較する.双方,世界をカット&ペーストしていることでは,変わりがない.作品の中に複数の層が存在する複雑さも同じであろう(平倉圭さんの「ニュー・ドキュメンタリー」展のレヴューから考えた「5層のレイヤー」.ここではエキソニモ《断末魔ウス》だが,《SUPERNATRUAL》も同じように分析ができると思う).しかし,写真で世界を切り取るか,ユーストリームというアプリで世界を切り取るかという,メディアのちがいがある.それは,ヒトが作品の中に取り込まれるかいなかの違い.作品に取り込まれるような想像力云々ではなく,文字通りに作品の中に取り込まれることのちがい.それは前提としている世界の違いかもしれない.

プログラムが世界をカット&ペーストしていることを,当たり前に受け止めて,そこに可能性を見出すこと.

エキソニモの《SUPERNATURAL》で感じた不穏さは,世界がカット&ペーストされていることからくる(エキソニモの作品の「切り貼り」について→「ひとさじの記号論」by ジュディ・アニア)それは,世界のプログラムを改変すること.ただ重要なことは,カット&ペーストで世界のプログラムを改変することを感じられるほど,カット&ペーストが私たちに馴染んでいることである.カット&ペーストで,世界/モノゴトが変わる感覚が,コンピュータを使用するヒトの身体に蓄積している.それゆえに,世界とともにヒトもまた直接的に変化させられる.だから,強く不穏さを感じたのかもしれない.

少しづつ考えていきたい.夏休みの宿題を見つけた感じ.

ホンマタカシさんと平倉圭さんの狂気

「ホンマタカシ ニュードキュメンタリー」を見てきた.もともとホンマさんの写真が好きだったこともあるし,講義で東京に来ているので,ついでにということもあったけれど,一番は,平倉圭さんのこの展覧会のレヴューを読んでとても刺激を受けたからです.

見た感想.ここには「ホンマタカシB」もいなければ,「5層のレイヤー」も見つけられなかった.それは僕の頭の中でということですが.それらを見つけて,テキストに書く平倉さんの力はすごいなと改めて思った,それらの語句だけが頭の中で繰り返さえられるだけで,それを実感として感じ取れなかった自分の不甲斐なさに絶望した.

「5層のレイヤー」は理解はできるし,分析もできるのだけれど,それが「目眩い」とともに出てくるような感覚はなかった.あるいはこのレイヤーで「等質化」された目眩いであるから,それでいいのかもしれないが,「等質化」という言葉が示していることも体験できずにいたと思う.しかし,平倉さんの言葉が的を得ているという考えはゆるがなかった.この理解と感覚のズレはどこからくるのか.

なんか,写真というメディアがもつ「すべて」という感覚,この考え自体間違っているのだが,写真は「すべて」を写しとるということが自分の頭の中にあって,この「すべて」ということが,写真を感じることを邪魔しているように思われた.「すべて」はいらない「一部」でいいというのが,今の僕の感覚なのだと改めて思った.身体全体ではなく,手の一部を,さらに「↑」にしてしまうことに,ある種のリアルさを感じている僕としては,写真はなんか「すべて」すぎたのです.

「5層のレイヤー」も「すべて」が「すべて」すぎて,べったりとひとつになっている感じ.それを引き剥がして,そこから5つの層を抽出した平倉さんはすごいなと思いつつ,ホンマタカシさんの作品に,写真がもつ「すべて」という性質ゆえに,まったく寄り添えない自分がいたことに気付かされた.ホンマさんは「すべて」を引き受けてから,それを分析して,操作する.平倉さんがその操作を見つけ出し,「すべて」から「層」をひとつひとつ引き剥がす.「すべて」を引き受けるということが狂気ならば,そこに「ホンマタカシB」はいたのかもしれない,と観終わって,文章を書き始めて,やっと思う.その「すべて」を見て,そこからリバース・エンジニアリングのように「層」を剥がして,層を剥が…

5層のレイヤー

これは,たしかに写真的な経験だ(「それは=かつて=あった」[ロラン・バルト]!).90年代に中高生だった私は目眩を覚える.その目眩は,元の写真面/その上に配される文字面/それを印刷した雑誌誌面/それを再撮影した写真面/それを印刷した《re-construction》の紙面という,5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている.(P.91)
ホンマタカシB,平倉圭 平倉圭さんのホンマタカシさんの展覧会「ニュー・ドキュメンタリー」のレビューはとても刺激的だった.その中で気になった文章が上のもの.今のニューメディアと呼ばれるものにつながる表現手段のひとつの起源と考えることができる,写真というメディアが作り出す5層ものレイヤー.ホンマタカシさんが作り出し,平倉さんが言語化した「5層のレイヤー」というのは,現在のコンピュータをひとつの軸として作られているメディアアートの作品が作品として成立する状況を示しているのではないか,と私は考える.

で,この上の平倉さんのテキストをエキソニモさんの《断末魔ウス》で受けた私の衝撃をもとに書き換えたのが下のものになります.
これは,たしかに情報美学的な経験だ(「永遠に死なない存在」[エキソニモ]!).90年代からコンピュータに触れ始めた私は目眩を覚える.その目眩は,元の世界/その上に配される情報/それを構成する数学的世界/それを再びメタファーで覆った世界/それを再びリアルに感じる世界という,5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている.世界がまずあって,そこに情報というレイヤーができある.それはコンピュータのGUIのディスプレイだと座標データに基づいた数学的世界というか数の世界.それがデスクトップ・メタファーというイメージの世界で覆われていて,それをリアルに感じる.特にカーソルというメタファーではない文字通り(リテラルに)「カーソル」でしかないものにまでリアルを感じるという衝撃.そこには何かに触れているようで,実は何にも触れ得ないような感覚があって.それが「5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている」ということなのではないか.

でも,触れている.カーソルと繋がっているという感覚がある.それは,カーソルという存在が「5層のレイヤーによって非接触的に距離化され,等質化されている」平面|表面をひょいひょい…

選択範囲によって生じる「いまここ」の複数性.pdf

名古屋大学教養教育院プロジェクトギャラリー「clas」アニュアル 2010』に,伏木啓さんのマルチイメージによる映像インスタレーション《Fragmentation》のレヴュー「選択範囲によって生じる「いまここ」の複数性」を書きました.これまた一般に出回らないものなので,ここに pdf を置いておきます.
編集の段階で付け加えた文章が無かったり,ボツになった図とか入っていたり印刷されたものとはちがうので,実際にアニュアルを手に入れた人もダウンロードしてくれるとうれしいです.

ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと

イメージ
コンピュータを介して出来上がってきているヒトの身体感覚.身体全てはいらない,一部でいい.いや,そこに想像力がはたらくから,一部の方がいいのかもしれない.
J.J.ギブソンの『視覚ワールドの知覚』に,「図式的知覚」と「真正的[literal]知覚」という言葉が出てくる. 5.視覚ワールドをどのように知覚しているかという問題は,ふたつに分けて別々に考えることができる,ひとつは,実質的あるいは空間的な世界の知覚の問題である.もうひとつは,われわれが通常,注意を向ける有用で意義のある知覚である.最初の世界は,色,きめ,面,縁,傾斜,形,隙間の世界である.第2の世界は,われわれがふだん関心をむける馴染み深い世界であり,物,場所,人々,信号,書かれたシンボルの世界である.前者では,程度の差はあれ,われわれが体験する背景は一定であり,姿勢の維持と移動のための支えがある.ところが後者では,そのとき何をしているかによって刻一刻と変わる.意義のあるものを含んだ世界は,一度にすべてに注意を向けるには複雑すぎるので,その知覚は選択的である.ある種の特徴は著しく目立ち,その他の特徴は無視される.この事実のため,われわれの知覚は歪められ,欺かれると言われることがある.この種の知覚を図式的 schematic とよぼう.これに対して,最初に挙げた種類の知覚は真正的 literal とよべるだろう. 図式的知覚を完全に理解するに先だって,真正的知覚を理解しなければならない.なぜなら真正的知覚は,すべての体験に対する基本的な印象のレパートリーを提供するからである.(p.12)  視覚ワールドの知覚,J.J.ギブソン 今までヒトは図式的にコンピュータを理解しようというか,使いこなそうとしてきたのではないだろうか.なるべく馴染み深い世界をコンピュータに持ち込むという発想,デスクトップ・メタファー.しかし,近頃はコンピュータをより真正的[リテラル]に把握しようという動きがあるように思われる.
先にヒトの身体を一部だけコンピュータに映したほうが,想像力がはたらくからいいのではないかと書いた.けれども,そこでは想像力がはたらいているのではないのかもしれない.ヒトとコンピュータとの関係の中で,上のイメージの「手」の形をしたアイコンまたはカーソルは,ヒトが行為していくために必要な基本的なレパートリーを示しているだ…

見ているモノが触れているモノか?_pdf

以前書いたものをまとめてみた.

見ているモノが触れているモノか?

まだまだ「カーソル」から離れられないでいる.
思考が凝り固まってしまったのだろうか……