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スライド:情報美学概論A 第3回|ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1945ー1984

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スライド:映像文化 第3回|映画:1つのスクリーンに映る映像をみんなで見る

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愛知淑徳大学:映像文化
第3回 映画:1つのスクリーンに映る映像をみんなで見る→スライド

参考資料
書籍
情報映像学入門 (情報メディア・スタディシリーズ)
メディア論―人間の拡張の諸相
狩猟と編み籠 対称性人類学2 (芸術人類学叢書)
映像学・序説―写真・映画・テレビ・眼に見えるもの
テクノコードの誕生―コミュニケーション学序説
映像
クレショフ効果
エイゼンシュタイン,戦艦ポチョムキン
10ミニッツ・オールダー コレクターズ・スペシャル [DVD]
ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 [DVD]
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「クレショフ効果」は,まったく実証されなかった.私たちの映像に対する感覚は変わっていくということを実感した瞬間だった.あと,「名古屋シネマテーク」はまったく知られていなかった.

スライド:映像文化 第2回|「見る」映像と「使う」映像

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スライド:情報美学概論A 第2回|情報美学とは?

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メモ:インタラクティヴィティとメタファー(2)

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前に書いたメモ

「掴む」行為と「指し示す」行為とを組み合わせた「マウス+カーソル」から生じる新たなインタラクションに基づいて,0から新しい身体感覚を作り上げた.組み合わされたふたつの行為がヒトの基本的行為であることと,0からの立ち上げゆえに,GUIはヒトとコンピュータとの共進化の実験の場であり,その成功から共進化を促進したと考えれる.

メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスはともに,メタファーを使ってヒトの身体をコンピュータの論理世界を入れ込んでいった.その際に,メディアアートは慣れ親しんだ身体をそのまま用いたインタラクションを創造したのに対して,インターフェイスはマウスという新しい道具に対応した身体を用いた,新しいインタラクションを創造した.メディアアートは目に見えている身体行為をそのままコンピュータの世界に移行するためにメタファーを物理的インターフェイスに活用している.インターフェイスにおけるメタファーは,身体感覚の深層の領域,身体スキーマと呼べるような基本的な図式を,ヒトの世界からコンピュータの世界へと移行した.

メディアアートはヒトとコンピュータとのあいだの情報のあり方を「個別化」し,インターフェイスはそれを「汎用化」した.「個別化」といっても,それは元々のヒトの行為のあり方を,できるだけ現状を保ちつつ,コンピュータに移行させたもの.対して,GUI には,一度まっさらな平面を作り、そこから新しい驚きを作ろう,という感覚があるように思われる.つまり,「汎用化」は,マウスとカーソルという限定された道具環境で,ヒトが長いの歴史の中で蓄積してきた行為や感覚のあり方を一度0にすること.0から始めた結果.ヒトの行為とディスプレイ上のイメージを組みあわせ,様々な行為に適応させることができた.

メディアアートとユーザ・インターフェイスは常に交わっているから,今では,ユーザ・インターフェイスが「汎用化」した感覚を,メディアアートが「個別化」して示すことで,私たちが築くことが難しくなっている,コンピュータと触れ合っているときの感覚を呼び起こしてくれるようになっているのではないろうか.

メモ:1998年から2010年のあいだとこれから

1998-2010年のあいだでのインターフェイス|メディアアート|インターネットを考える際に,Googleを中心に置いてみる.Googleが生み出しだ「信仰」は,膨大なデータを扱うことができる.すべてを「データ」としても扱えるということ. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69677517073686528
すべてが「データ」としても扱えると信じることで,「情報としての自然」というタイトルの展覧会が開催されたり,プログラムの変更が世界の変更でもあることをしめすようなエキソニモの《FragMental Storm》などが作られてきたのではないだろうか. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69678116519428096
そうした中で,2005年にGoogle EarthとYouTubeが出てくる.ひとつはまさに神の視点から地球を眺めるかのような体験を与え,もうひとつは多くの視点が地球をそれぞれの座標から見ているという状態をつくり出した.神の視点と間主観的視点の往来可能性. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69678914485755904
ネットアートで扱われていたプライバシーの問題が,Facebookのマーク・ザッカーバーグによって全世界的に実験され始めるようになった.アートではなく,インフラのようになっていっているシステムでのプライバシー実験.ザッカーバーグの信念に基づく実験はアートなのか? http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69679946687188993
2007年にiPhoneが発表されて「メタファー」に覆われていた仮想世界の世界が「リテラル」なものに移行していった.エキソニモの《断末魔ウス》は「メタファー」から「リテラル」への移行を示すかのように,カーソルというリテラルなインターフェイスの質感を示す. http://twitter.com/#!/mmmmm_mmmmm/status/69680982097264640
1998-2010年のあいだのメディアアートは,その前の世代の作品が身体を仮想にフィットさせようとしていたのに対して,身体的・感覚的に現実と仮想とが重ね合わせられて…

メモ:1984年から1998年のあいだ

1984年から1998年のあいだ,ヒトとコンピュータとのインターフェイスはGUIから抜けだそうと,ユビキタス・コンピューティング,タンジブル・ビットというアイデアを実現していったが,それは研究レベルにとどまるものであり,一般に浸透するまでには至っていない.その間に,GUIは,Windows95 で爆発的に世界に広まっていく.

インターフェイスがGUIから抜け出せないあいだ,メディアアートは自由にインターフェイスを次々と創り出し,新たな「インタラクション」を形にして作品化していった.それの多くは「教科書」と名付けられた書籍に載せられている.ある意味この時期のメディアアートは,ヘッドマウントディスプレイを装着して,仮想世界と現実世界とを自由に行き来するといったような,大きな夢をもってきらきらと輝いていた「黄金期」だったとも言えるかもしれない.けれど,この時期のメディアアートにおける「現実世界」と「仮想世界」は,身体が存在する「現実世界」と探求すべき「仮想世界」とに明確に分離しており,それらがひとつに融合していっている2011年からみると,ある意味面白みのない世界観に思える.

「黄金期」の作品にあるのは,「仮想世界」とのインタラクションだけであり,決して「現実世界」に存在する私たちの身体には何も影響を与えていないのではないか.この時期のメディアアートは「仮想世界」をあらゆる手段で探索していたが,その間,多くの人はGUIやテレビゲームで,マウスや十字キーのコントローラといったメディアアートから見れば不自由なインターフェイスによる貧しいインタラクションで,「仮想世界」をその存在を意識することなく日常的に探索し始めていたと考えられる.この日常的な探索が始まったからこそ,メディアアートが特別な「アトラクション」として輝いたのかもしれない.

ネットはGoogle以前であり,まだ生態系が生じる前のカオスな状態であるともいえる.だからこそ新たな表現の場としてネットアートが盛り上がっていた.今ではもう見ることができない作品があることが,ネットアートの物質性の希薄さゆえの儚さを具体的に示すとともに,場所性がないがゆえに,どこでも,そして恐らく,いつでも見られるというネットアートの理念との齟齬を示していて興味深い.