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8月, 2011の投稿を表示しています

コンピュータを前にした身体の障害と思考の自由

実は,われわれは仮想空間において知覚的な障害をもっているのである.データで形成されている仮想世界に触れるには,ツールを介す必要があり,そのツールの限界がすなわち,われわれの限界となるのだ.それらのツールとは,例えばモニターやスピーカーやプリンタにあたるのだが,これらの機器は,誰もが均等に経験できる技術をめざす工学分野が発明したものなわけだから,それを介して仮想世界に触れるとしても,誰もが似たような体験しかできないことになる.(p.23) ゴッホってなんだろう?毛利悠子 in 情報生態論|いきるためのメディア この毛利さんのテキストがとても気になっている.「知覚的な障害」という言葉.誰もが似たような体験しかできない.逆に言えば,誰もが似たような体験をできてしまう.障害を持つことで,誰もが似たような体験をできてしまうことの意味を考える.コンピュータの前に位置するヒトは,「知覚的な障害」をもち,誰もが似たような体験をしてしまっている.障害を持ちながらも,コンピュータを使う.テルジディスによれば,コンピュータはひとつの知的パートナーである.「障害」をもつヒトをサポートしてくれる「知的パートナー」としてのコンピュータ.障害を持つからこそ知的パートナーの役割が大きくなる.そして,今まで想像も出来なかった概念を作り出す.毛利さんは「障害」を越えてしまうような,いや「障害」を活かした,いや今の私にはよく分からない作品を作る(毛利さんも含めて,1980年前後生まれの人たちの作品を近いうちに考えたい).私は「障害」に寄り添ったかたちで考える.それはインターフェイスを軸に,コンピュータを考えてきたからだと思う.
身体の「障害」から思考の「自由」が生まれると考えるのは,身体と思考とを分けて考えているからでもあるが,ヒトとコンピュータとを複合体として考えれば,それは入力の制限と出力の自由ということになるであろうか.いや,出力においても,ヒトに合わせているのでそこにも制限があるのだろう.いや,複合体になってしまえば,そこには「制限」も「自由」もないのかもしれない.ただ入力と出力があって,出力からまた入力が行われる.この作業を延々とし続けていくだけなのかもしれない.この状況はなんとなくイヤな感じがするが,それは私たちがヒトとして考えているからで,複合体になれば,それは良い悪いではなく,ただ…

invisible loophole 展のギャラリートークの前|後

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invisible loophole 展のギャラリートークの前

カーソルという「見えない記し」.フロイトが示したような意識と無意識の2層構造.ここで,マジックメモに注目すると,3層構造がでてくる.カーソルはヒトとコンピュータとが作り出す3つめの層.カーソルの層|意識|無意識.という3層.意識の方向付けを行う「カーソル層」.意識の流れ.志向性.意識の方向.意識と無意識に影響を与える「向き」を示す層.ヒトとコンピュータとが融合することでできた新たな層.でも,それは「見えない」,見えているけど,見えない.だから,「見えない記し」.この見えない記しが見える記しを動かし続け,何かが記され続ける.

 マウスからグリッチへ.  データが直接破壊されるグリッチ.すべてが記号の中で破壊が遂行される.ヒトのみが記号の破壊を認識できるのかといえるのが,コンピュータも,アプリケーションごとにその破壊を認識している,という面白さ.記号の破壊.見える破壊と見えない破壊. 

グリッチからiPadへ.

 iPadはデータとともに粉々に砕け散る.フィジカルに散る.リモートなし.現実にべったりとマッピングされたガジェットとしてのiPad.べったりだけど,その表面は記号の世界.現実にべったりとしたフィジカルな記号の世界.それゆえに,iPad Head Girl では「顔」から「その他のもの」に変わった時に,それが「フィジカルな」記号であるがゆえに,フィジカルと記号とが引き離されるのを見ることになる.だから,とても違和感を感じる.



 invisible loophole 展のギャラリートークの後

 昨日は,invisible loophle という展覧会のギャラリートークをした.トークしている中で,カーソルというヒトとコンピュータとの複合体の最前面を介して,コンピュータがヒトをまねているし,ヒトもコンピュータをまねているのではないかという考えがでてきた.コンピュータの反復性を,ヒトが行うようになる.コンピュータの思考にまねる.コンピュータの身体性をまねる. 

映像に関して.今まで映像は,深層と表層から成り立っていたと考えられる.そこにコンピュータが入ることによって,複合体としての最前面ができあがる.「深層ー表層ー最前面」.この「最前面」では,映像に対して,データとフィジカルという要素が入り込む.現…

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

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東京藝術大学 芸術情報センターで8月20・21日に開催された公開講座「グリッチワークショップ」を見学しました.
「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした.ucnvさん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と針谷周作さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします.
ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です.
ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました.
バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです.
コンピュータはデータは壊れていても,それを再生してしまいます.それを見て,多くのヒトがその画像を「壊れている」と思う.ノイズが入っていると思う.普段はそれは「壊れ…

ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「四人称」

コンピュータに向かって,日記のようなmemoを書く.手書きではなく,キーボードを叩きづける.キーを打つと,フォントが表示されう.変換候補がずらーと現われて,それを選択する.膨大な量の選択をし続ける.ディスプレイに表示される「外化した思考」.それは,私たちの思考の外化であることを示すべく,次々に選択しろと迫ってくる.選択を迫るコンピュータ.それを成立させるインターフェイス.ここにコンピュータの身体性があると思う.コンピュータは,私たちと全くことなる思考を行う「allo」,他者であるから,その身体も異なるはずなのである.確かに私たちにとってはもどかしいかもしれないが,キーボードやマウスは,コンピュータにとってはヒトという外部入力装置から入力を効率良く受け取るように適用した「身体」なのである.ヒトはディスプレイに上に外化した思考の流れに,身体を合わせられるようになってきている,それはコンピュータの身体を受け入れることを意味する.一度受け入れてしまえば,コンピュータを介してディスプレイ上に外化している思考の流れを,自分の身体と一致させることできる.

コンピュータは自らの思考様式に合わせた身体を,ヒトの身体に合わせるかたちで提示してくる.ヒトの手が2本あることや,その大きさなど.ヒトは自分で使いやすいように改良を加えていると思うけれど,それはもしかしたら,コンピュータの思考が大きくなったから,寛容になり,私たちのわがままを受けて入れてくれているのかもしれない.エンゲルバートが言ったように,ヒトとコンピュータとは共進化していくものである.それはひとつの複合体なのである.ヒトとコンピュータとは共進化しながら,ひとつの複合体になっていく,複合体の一部となったヒトは,行為が変わり,そして思考の流れ方が変わる.だから,ここに新しい「人称」を考えてもいいのではないかというのが,今の私の考え.
それはわれわれには,四人称の設定の自由が赦されているということだ.純粋小説はこの四人称を設定して,新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ.まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ.【純粋小説論,横光利一
小説が言語の流れで新しい世界を築くために「四人称」を産み出そうとしたとすれば,ヒトとコンピュータの複合体も, 新しい世界を示すための「四人称」を考えるべきなのである…

memo20110816からの抜粋:日常生活と複合体

さっき,突然疲れた.マーク・ハンセンのマノヴィッチ批判を読み終えたら,とても疲れた.書かれている内容が疲れに影響したとかではないけれど,疲れた.ハンセンが人間中心主義だと指摘しようと考えていたのに,ハンセンはマノヴィッチをヒューマニストだという.それはマノヴィッチが映画に基づいてニューメディアを論じるから.映画というヒトの視覚に合わせたメディアを用いているマノヴィッチは人間中心主義だということ.ハンセンは,デジタル・メディアがヒト以前のヒトというか,前−個体的な状態,それはヒトという種が感知できないような情報を与えていると考えている.感知できないけれど,感知できないではなく,意識にのぼらないという方が正しく,身体は感じるみたいな.人間を「個」という単位で考えれば,それ以前の「身体」に作用するという意味では,ハンセンは人間中心主義ではない.でも,ハンセンは「人間」にこだわっているように思える.それは「身体」というかたちにこだわっているから.コンピュータが「身体」以前に作用すると指摘していても.ハンセンが取り上げる作品の表象は常にヒトの身体を映し出している.「身体」以前はコンピュータに浸食されても,表象は身体のかたちを保つ.マノヴィッチが「映画」にこだわるように,ハンセンは「身体」にこだわる.

 マノヴィッチは,ヒトとコンピュータとをひとつの複合体として考えているように思える.目に見えるところはヒトに合わせて,でも,そのなかの論理はコンピュータで,しかもヒトに合わせて作られているイメージがコンピュータにとってもそのイメージを構成するために適した構造になっているという感じ.ヒトとコンピュータとがもちつもたれつとといった感じ.ハンセンがデジタル・イメージを論じるときに取り上げるダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》やビル・ヴィオラの超スローモーションのシリーズは確かに,「映画」では入り込むができない個としての身体以前の領域:感情の部分にアプローチしていると思う.けれど,私たちは普段,1秒間で2フレームで映画を見ることはないのだし,超スローモーションの高解像度の映像データは重すぎる.確かにこれらの作品が示すことも,デジタル・イメージがもつポテンシャルの一端なのかもしれない,だからこそ作品になって,ハンセンが取り上げているのだけれど,もう少しヒトの日常生活の感覚に基づいたとこ…

memo20110814からの抜粋+:ヒトとコンピュータとの複合「体」

囚われの身の身体は,囚われているからこそ,その囚われの空間で自由に動くことができる.けど,そのあと囚われていた身体は消えていった.ヒトとコンピュータの複合体における「身体図式/イメージ」を記していることが問題にされていることはないのではないか.だから,カーソルに注目がいかなかったのではないか.行為も思考もヒトとコンピュータとの複合体/回路の流れとして考えてみることが面白いのではないだろうか.フルッサーが言っているようなヒトと装置の複合体みたいなものに与える「人称」は何なのだろうかと思いつつ,そこにある「身体」はどのようなものなのだろうかを考えつつ,自らの身を省みる.動物との対比ではなく,コンピュータとの対比でもなく,ヒトとコンピュータとの複合体との対比から,ヒトの身体を考えてみること. + 「複合体」には「体」という文字が使われていることも考える必要がある.モノがあると,それがヒトと結びつくことになるとそれが「体」となる.ヒトの身体の延長になるのか.しかし,「延長」という考えだけでは,もはや考えることはできない.マクルーハンではないけれど「外破」と「内破」という感じで,内側への意識も必要.イヤ,「外」と「内」という考えではなく,自分的に今とても気になっている「流れ」として考える必要があるのかもしれない,これはとても自分的なことです.「回路」という「流れ」を作り出すものを考えつつ,そこを何かが流れていく「流れ」自体を考えてみること.何も具体的には思い浮かばないけれど,今はこんな感じだけが,自分の周りに流れているような感じ.

memo20110813から抜粋:記号を記し続ける

文字を書き続ける,記号を記し続ける.GUIにおける記号の位置とかを考える必要があるのかもしれないけれど,そんなことを考える間もなく,僕達がそれを受け入れているということ.身体行為を変更していることについてを考えたけれど,今度は,身体ともに動く記号について考える必要があると思い,カーソルを考えているのだが,それでもカーソルだけではだめで,カーソルとともに動く他の記号との関係を記さないといけないと思うのですが,そこが難しいというか,まったくできていない.カーソルをひとつの中心にして動き続ける記号の群れを,その関係性を記すことで考察していくこと.
GUIでは「記号はしるしつづけられる」.しかもその「しるされ方」は記録されることもある.そこから,新しい関係が生じることがある.ヒトだけでは考えることができないきっかけを与えてくれるように「しるし」を活用することができる.ここに「ヒトの身体性」を考える上に,新しい視点を与えてくれる可能性があると思うし,「コンピュータの身体性」を出てくるところだと思う.「記号」が次々と記し続ける,そして記され続けることによって,そこに記号の流れが生まれ,それが人称を生み出していく.とにかく先に流れが生じる,そこから,人称が生じて,記号の流れに澱みが生じる.

「耳を澄ます」

「耳を澄ます」ことは,聴くことを可能にする範囲を拡げるための領域を増やす行為といえるが,まずは自分の態度を受動的にすること.音を受け入れることを可能にする受け身の態度を作り上げたのち,そこに音が飛び込んでくる.そのときには,そのとき人は音を聴くのであるが,それは音に呑み込まれることであるかもしれない.

「耳を澄ます」ことって,近頃少ないような気がすると思いつつ,ケータイとの関係を考えたりする.いつでも,どこでもケータイは「耳を済まし」ている,という表現はおかしいだろうか.でも,僕達のまわりにある「みえないちから」を捉えるために,ケータイはひっそりと「耳を澄ます」.でも,そのことによって,僕たちは耳を澄ますことがなくなっている.ケータイによって破られる静けさ.なにもこれは「ケータイ」だけではなくて,「ケータイ」と書いているところにいろいろなガジェットの名前を当てはめれば,それはそれで成り立つような気がする.

インターネット・リアリティということで,インターネットは「耳を澄ます」ことがあるのであろうか,なんてことも考えてみる.「コンピュータの身体性」という言葉が成立すると,そこには「耳を澄ます」こともあり得ると思う.ヒトも耳を澄まして,コンピュータも「耳を澄ます」.そこで聞こえてくるのはどのような音,そして音から広がる風景なのだろうか.

スライド|映像文化 第14回|映像で理解する

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愛知淑徳大学 映像文化
第14回|映像で理解する:佐藤雅彦とユーフラテスの「畏い」映像→スライド

参考資料
佐藤雅彦・ユーフラテス関連
ピタゴラスイッチ
0655 | 2355
EUPHRATES BOOK
A-POC INSIDE 日常にひそむ数理曲線 DVD-Book
YCAMでのワークショップ ーー トミー ビックローダー ビル工事 袋入りさくらんぼ餅の自動包装 ーー その他 メディア論―人間の拡張の諸相
小説の誕生
あたらしい美学をつくる
エドワード・マイブリッジ ,1878 エティエンヌ=ジュール・マレー,1870
終えて 今の大学生は「ピタゴラスイッチ」を子どものときに見ているんですよね.でも,「佐藤雅彦」さんのことを知っているかと尋ねても,ほとんどの人が知らないみたいで,手を上げてくれたのはひとりでした.最初は「映像で理解する」ということで,「分かりやすさ」ということをメインにすえてスライドを作っていたのですが,「日常にひそむ数理曲線」でトンカチを投げる映像をみていて,その軌跡が放物線とサイクロイドで描かれた線の上をそっくりそのままなぞっていく様を見た時に,この映像はとても「こわい」と感じたのです.映像を見ていると,映像に言葉が奪われるように感じたのです.佐藤さんも「畏怖」という言葉を使っていますが,まさに「畏い」と感じたのです.そして,「畏い」という漢字を今まで「こわい」と読むと思っていのですが,「かしこい」と読むことも知りました(恥ずかしくもありますが……).
学生に「0655|2355」を紹介したところ,数名ですがハマってくれたみたいで,それがこの講義の大きな収穫.

「情報美学概論A」を終えて

この春から東京藝術大学 情報芸術センターでやっていた「情報美学概論A」が終わった.私自身がインターフェイスからメディアアートへと研究の領域を広げようと思っていたところに,藝大のこの講義の非常勤講師の公募があったので申し込み,採用された.とてもいい時期だった.GUIというここ30年使っているインターフェイスと接する中で,ヒトの身体に蓄積されていった感覚がメディアアートに反映さているのではないかという考えから講義を組み立てていった.インターフェイス→メディアアート(もうメディアをとってアートと言ってもいいかもしれないが…)という身体感覚の流れは,学生にとっても新鮮だったようで,これだけでも示せたのは良かったかなと思っている.
しかし,である.講義の中盤でインターフェイス→メディアアートという身体感覚の流れの最後に「カーソル」を持ってきて,エキソニモの《断末魔ウス》を例に説明するというところまでは良かったのであるが,その後が問題だった.「インターフェイス|メディアアート」のあいだの身体感覚の往来という軸だけでは「情報美学概論A」という講義を成立させることはできなかった.
軸がなくなった後も講義は続く.その中で徐々に出てきたのが「思考の流れ」という言葉である.「思考の流れ」が出てくる前に,コンピュータの「他者性」を強く主張するコスタス・テルジディスの『アルゴリズミック・アーキテクチャ』に出会った.そこには,ヒトの思考の終端からコンピュータとともに思考を始める「人間の思考のサイボーグ化」やコンピュータによるヒトとは全く異なる思考を「allo」と呼ぶことなどが書かれていた.私自身もコンピュータは全くの「他者」で,その「全くの他者」とのあいだにコミュニケーションをどのように成立させてきたのかということを理解したくて,インターフェイスの研究を進めてきた.その際にマウスの発明者であるダグラス・エンゲルバートの思想:ヒトとコンピュータとの身体レベルでの交わりの変化が,徐々にヒトの思考を変えていくことが研究の大きな推進剤となっていた.エンゲルバートの思想とそこから得た自分の研究に,テルジディスの「他者性」及びその思考に対する「allo」という考え方を結びつけることで,ヒトとコンピュータとのあいだの理解が自分のなかで更に進むと思いながら講義を進めていた.そして,講義の最後にエキソニモの…

スライド|情報美学概論A 最終回|終端→

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東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A 最終回|「終端→」→スライド
参考資料 エキソニモ 可能世界空間論:空間の表象の探索,のいくつか ICCのエキソニモとメディアアートへの私見 ssuge さんのツイート 包まれるヒト―“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4) iPhoneアプリ〈arrow to ggg〉 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》 クワクボリョウタ インタヴュー by 原田優輝 国立国際美術館年間スケジュール「世界制作の方法」
コメントのコメント エキソニモの《↑》は「〈視覚化を拒む理解〉を視覚を通して行っている」と言えるのではないか,今日,歯医者の治療を受けながら考えた.〈視覚化を拒む理解〉というのは講義でも取り上げた保坂和志さんの言葉であるけれども,それは言葉は言葉の流れでしか理解できるものではないというもので,それを「アート」に当てはめることがいいのかどうかはわからないが,なぜかそう思った.コンピュータという「allo」を経由することによって,〈視覚化を拒む理解〉を視覚化することができているのではないだろうか.ヒトではない「視覚」を示すコンピュータ.体験者が見ているものはヒト単体では〈視覚化を拒む理解〉を示すものであるものが,コンピュータとヒトとが複合体となることで,それが「視覚化」された状況として体験することができるようになる.ここには異なる視覚と異なる身体性があるような気がしてならないけれど,それをはっきりと講義では示すことができなかったし,これからもできないかもしれない.
作品は「文脈」から逃れることができないのかもしれない.メディアアートは今まで「メディアアート」であることで「現代美術」の文脈から逃れることができていたのかもしれないが,また,逆に言えば,現代美術が文脈を逃れるために「メディアアート」に近づくこと.この方法も双方の領域が混じり合うことで出来なくなってきている.現代美術という文脈によって作品の価値が決まってしまうゲームの中にメディアアートが混じり合っていくなかで,すべてが文脈によって理解されようとしているのかもしれない.でも,ヒトの理解は文脈だけで決まるものでもないし,コンピュータという「allo」がそれを許さないであろう.コンピュータはコンピュータで勝手にヒトが予想もしなかったものを示すだろう.それをヒトは文…

スライド:映像文化 第13回|メディアアートと映像

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愛知淑徳大学 映像文化
第13回|メディアアートと映像→スライド

参考作品
ジェフリー・ショー《レジブル・シティ》1989
八谷和彦《視聴覚交換マシン》1993 藤幡正樹《Beyond Pages》1995 エキソニモ《FragMental Storm》2000 藤幡正樹《モレルのパノラマ》2003 エキソニモ《断末魔ウス》2007 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》2010 Cyclo.《id》2011 真鍋大度+石橋素《Particles》2011

メディアアートに興味を持った人に メディアアートの教科書

終えて
芸術系ではない大学でメディアアートについて話すとどのような反応があるのかと思って,やってみた.ほとんどの学生が「メディアアート」という言葉自体知らないことが判明した.今はそうなのかな.はるか10年くらい前,自分が大学生だったときに,せっせとICCに通って,「メディアアート」っていいなと思っていた頃とは時代は異なると思いつつ,講義を進めていた.講義のコメントには,「アート」と「デザイン」の区別がない,アーティストは特別な才能を持っているなどがあった.