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2月, 2011の投稿を表示しています

メモ:ネットアート,動物化するポストモダン,グーグルの奇妙さ

ネットアートについてのスライドを作った.ネットアートを考えるときに,東浩紀さんの『 動物化するポストモダン 』を参照してみた.その理由は以下のことから. その分かりやすい例がインターネットである.そこには中心がない.つまり,すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない.しかしそれはまた,リゾーム・モデルのように表層的記号の組合せだけで成立した世界でもない.インターネットにはむしろ,一方には符号化された情報の集積があり,他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある,という別種の 二層構造 がある.この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは,そこで,表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が,深層ではなく表層に,つまり,隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である.近代のツリー型世界では表層は深層により決定されていたが,ポストモダンのデータベース・モデル型世界では,表層は深層だけでは決定されず,その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す.(pp.52-53) ところがウェブの世界はそのように作られていない.そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない.繰り返すが,ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり,ユーザーに見える画面は,それぞれのOSやブラウザ,さらにやモニタやビデオチップまで含めた環境による「解釈」にすぎない.しかもウェブページはブラウザを通して見なくてもよい.実際にそのソースコード(HTML)は,〈h1〉などのタグが入ったテクストとして,エディタで簡単に開くことができる.そしてそれもまた,テクストとして表示されているかぎりは,やはり「見えるもの」である.このような意味で,ひとつのウェブページには,見えるものがつねに複数あると言うことができる.(p.148) 動物化するポストモダン:オタクから見た日本社会,東浩紀 この考えから, http://wwwwwwwww.jodi.org/ などを見てみると面白いではないかと思った.このような「見える/見えない」の関係と,ネットアートの関係.そして,ネットアートにも影響を及ぼしたと考えられるグーグルと「データベース」,「見える/見えない」との関係.これらについてはまだまだ考え中. グーグ

IAMASの卒展に行ってみた

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IAMASの卒展を見ていて,自分が求めているのが,「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」なのではないかと思った.一目見て,ちょっと触っただけて有無を言わさずわかってしまうようなもの.例えば,須木康之さんの〈エスパードミノ〉は「徹底的にわかりやすい」と思う.けど,「ユビキタス」などの言葉で作者自身がしっかりと説明できるように,「わからない」部分がないような気がする.「わからなさ」なんてものは必要ないのかもしれないが,私が求めていたのは,わかって気持ちいいのだけれど,後から考えてみると,わからないところがある.でも,体験しているときは,そんなの関係なく,わかってしまうというなモノなんだと思う. エスパードミノ 「わからなさ」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」.それは,ただそこにあるものなんだと思う.それが何かを考えることもない.ただそこにあるもの.メディアとは何かと問いを立てるのではなく,ただそこにあるものとして接してしまうような態度.ヒトが作ったものだけれど,自然なものになっているもの. 卒展の帰り,何となく「↑」の写真を撮っていた.とても久しぶりのことだった.卒展では味わえなかった「わからないこと」を含んだ「徹底的なわかりやすさ」がそこに示されているような感じがしたからだと思う.

メモ:メディアアートにおける情報と自然との関係のスライド作り終えた後のつぶやきのまとめ+α

メディアアートにおける情報と自然に関するスライドを作っていたけれど,あともう少し何かが必要な気がする. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/37538285035196416 けど,身体の外側の情報にはグーグルがでてきて,そのすべてを体系化してしまおうというミッションを掲げた1998年.身体の内側では遺伝子が解読され,身体そのものが情報になってしまった2003年. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/37538588962852864 グーグルとヒトゲノム解読によって,情報が仮想の中に留まるのではなく,私たちの身体を含めた自然という外に流失するような流れが生じた.四方幸子さんが2005年にキュレーションした「情報としての自然」,2009年の「ミッションG」は,この流れの中で捉えることができるのではないか. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/37539396127428608 四方さんがキュレーションした展覧会の作品では,だんだん作品の中から直接的なインタラクションがなくなっていっている.これは四方さん自身も書いていることだけれど,その流れの中でヒトと作品との関係を考えると,即時的なインタラクションの作品では,ヒトはある種の神だったと思う. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/37541008409370624 下の引用は作品の体験者ではなく,作者の言葉だけれど,まさしく「神」になっている. 原理的には,形を定義したら,それをランダムに突然変異させて九つの子供を自動的につくり出します.子供はそれぞれ異なっていますが,隣合ったものどうしの違いはほんのわずかでしかありません.次にアーティストの手で「自然淘汰」をします.「よくない形」を摘み取り,「視覚的に美しい形」を残して,それをさらに繁殖させるのです.(pp.121-123) コンピュータ彫刻の進化,ウィリアム・レイサム コンピュータ・グラフィックスの軌跡,藤幡正樹 ヒトがいなければ,作品が成立しないというか,動かないという意味で.それが,特に「ミッションG」の作品では,世界そのものがインタラクティヴで,世界の微細な変化からのデータで作品が成立して,ヒト

コンピュータを前にした身体をめぐる想像力

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レフ・マノヴィッチは,コンピュータと向き合う身体は囚われていると考える.それは,遠近法から映画へと続く,西洋の表象システムの伝統である,マノヴィッチは指摘する.ただ今までと異なる点があり,それは身体が動かなければならないということである.コンピュータの前の身体は,囚われつつも,動かなければならないのである. さらに,マノヴィッチはコンピュータにおけるインタラクティヴィティはトートロジーであると考える.そして,ヒトとコンピュータとのあいだの字義通りのインタラクティヴィティを考察する際に,私たちはそこに物理的なやりとりを超えて,イメージを用いた精神の外面化をどうしてもみてしまう.それは西洋の表象システムの伝統でもあると,マノヴィッチは指摘する. 西洋の表象システムの伝統から,マノヴィッチは一方でコンピュータの前の位置する身体は囚われていると考え,もう一方で,コンピュータとのやりとりはヒトの精神を直接イメージとして外在化されていると示す.コンピュータの前にある身体は,一方で囚われの身であり,一方でその存在が忘却されている.ただどちらにおいても,身体は,動かなければならない. このマノヴィッチの論から,コンピュータの前に位置するヒトの身体の状況をどう考えればいいのであろうか? 私は次のように考えてみたい.コンピュータの前では,ヒトの身体はその存在が忘却され,消滅されつつある.しかし,コンピュータは自らの存在のためにヒトの身体を完全に消滅させるのではなく,「囚われの身」という多くの自由を奪うかたちで,ただ動き続ける存在として存続させ続けている. マーク・ハンセンは,マノヴィッチが「映画」のメタファーに縛られていると批判する.そこには,身体が「囚われの身」であることに対する批判もあるのではないだろうか.ハンセンはデジタル・メディアの前にある位置するのは「コードの中の身体」だと考える.コードの中での身体においては,身体スキーマと身体イメージとのあいだに乖離が生じると,ハンセンは指摘する.ハンセンが「身体スキーマ」と呼ぶものは,私たちが身体に対する観念みたいなものだと思われる.デジタル技術によって,変幻自在に変化する身体イメージは,私たちが抱く自らの身体スキーマを超えるような存在になる.このことを示すように,ハンセンは鏡や影をモチーフとして身体イメージを用いた作品を取り上げ

メモ:カーソルはメタファーではない

すべてが見えている新しい表面の中で,消えてはじめてその存在に気付くように,よく見えていないカーソル. カーソル自体がイメージでありながら,他のイメージをブリコラージュするカーソル. イメージもなく,シンボルでもない新しい記号様態をしめしているようで,身体とも強く関係を持つ点でそれとも異なるカーソル. カーソルは「身体的|視覚的|記号的」という3つの精神が統合されている存在なのではないだろうか? カーソルは映像でもあり,データでもあり,身体でもあり,モノでもあるような「よくわからない」存在なのではないか? 私たちは「よくわからない」ままカーソルを受け入れたている.つまり,カーソルは私たちの血肉となっている.だから,その存在に何も疑問を抱かない.しかし,そこにはどこか「よくわからない」部分があるはずである. カーソルとは,モノと情報とを組み合わせて,よくよく考えると今までの枠組では捉えることができない「よくわからない」経験を作り出す存在なのである. カーソルの「よくわからなさ」は,それが私たちが慣れ親しんだ世界からコンピュータの世界に持ち込んだ「メタファー」ではないからである.カーソルは,ヒトとコンピュータとのあいだのコミュニケーションで,まさにリテラル(文字通り)にただ「カーソル」として存在している. 私たちヒトが「身体的|視覚的|記号的」の3つの精神を統合して,何かのメタファーでなくただリテラルに世界に存在しているように,カーソルも3つの精神を統合したかたちで,コンピュータから何の理由もなく生じたリテラルな存在だと考えられる. 90年代のメディアアートはメタファーに満ちていたとすれば,2000年代以降のメディアアートはリテラルになっているのではないだろうか. 90年代のユーザ・インターフェイスがデスクトップ・メタファーからの脱却を試みていたように,メディアアートもリテラルになろうとしたと考えられるからである. メタファーからの脱却は,私たちがコンピュータを血肉化していったプロセスと呼応している.エキソニモの《断末魔ウス》はこの血肉化を「マウス」と「カーソル」というコンピュータにとって,リテラルなモノとイメージを使って抽出した表現なのである.

画面分割と認知に関するメモ

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画面分割についてのスライドを作っていて,アメリカのドラマ「24」が初期のころはよく画面分割を使って緊迫感をだしていたのに,その手法が徐々に使われなくなっていたことを Wikipedia で知る. なぜだろうと思いつつ,マイク・フィグスの「 時代×4 [About Time 2] 」を見る.これは4分割された画面で同時に物語が進んでいく短編映画で,「 10 Minutes Older 」というオムニバスの映画のひとつである. 画面を4分割して,物語で進んでいくと,段々のそこで起こっていること全てを認知することが難しくなり,認知限界を超えることを実感した.「24」は,リアルタイムという軸があるから,ために画面が分割されても,それは空間的に離れているところで「同時に」物事が起こっていることを示すために有効だが,そこで「リアルタイム」という軸が外れてしまうと,見ているヒトは分割された画面の関係性が分からなくなってしまうのではないだろうか.そこで,「24」で画面分割が使われなくなったことには,認知限界が関係しているのではということを考えた. 24 時代×4[About Time 2] レフ・マノヴィッチが画面分割はユーザ・インターフェイスの「GUI」からの影響であると指摘している.「ひとつのスクリーンにひとつのイメージ」というのが画面構成の論理であったが, GUI を構成する要素であるビットマップ方式のディスプレイがこの論理を破綻させたと,マノヴィッチは考えている.ビットマップ以前に,映画では電話をかける場面などで画面分割を行っていたが,大々的には行われていなかったとはいえるので,マノヴィッチの指摘には賛成である.そして,画面分割を「空間的モンタージュ」と呼び,これまでの「時間的モンタージュ」に変わるものだとし,「空間的モンタージュ」は,GUI の画面を占拠して,そこでは何も消えることがない「記憶」の場として機能していると,マノビッチは考える. my desktop マルチウィンドウシステムにもつながる,パーソナル・コンピュータの大元のアイデアであるヴァネバー・ブッシュのメメックスは2画面を備えた装置として描かれている.メメックスは増大する情報量に対処するために作られた装置であった.ブッシュは膨大な情報に対するヒトの認知限界を考え,メメックスを開発

インタラクティヴィティとメタファーに関するメモ

入力と出力の関係を論理的に記述できるこのプログラム可能性は,コンピュータというデジタルテクノロジーのもうひとつの大きな特徴である.しかしその入力とは多くの場合,マウスをはじめとするユーザの身ぶりを伴う何らかの所作であり,これがインタラクティヴィティを引き起こすのである.このようにインタラクティヴィティとは,それを生み出すプログラムは非常に論理的なものであるにもかかわらず,体験する側からみれば感覚的で身体的なものであるということができるものなのである.(p. 47) メディアアートの教科書,白井雅人・森公一・砥綿正之・泊博雅 今日はここからメディアアートにおけるインタラクティヴィティを考え始めて,下のように考えて, 論理と身体・感覚とのあいだのギャップを埋めるものとしてメタファーが機能してきた.メディアアートの中のメタファー,あるいはメタファーなきインターフェイスとしてのメディアアート.メタファーに満ちたデスクトップ環境を文字通りに受け取るようになったあとのメディアアート. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/32997203177906178 リサーチしている最中に,ボワシエにとってのカーソルの役割みたいな記述があったので,下のようにつぶやいて, マウスとカーソルとを作品に用いるが,ボワシエにとってはそれら自体が主題ではない.そこには物語がある.エキソニモの《断末魔ウス》は,マウスとカーソルとを主題にして,それらをリテラルに扱う.メディアアート/インタラクティヴィティにおけるボワシエとエキソニモとのあいだの断絶を考える. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/32998053409460225 最後にメディアアートとパラレルな関係にあると考えているコンピュータのユーザ・インターフェイスにおけるデスクトップ・メタファーを考えた. メディアアートとコンピュータのユーザ・インターフェイスはともに,メタファーを使ってヒトの身体をコンピュータの論理世界を入れ込んでいった.その際に,メディアアートは慣れ親しんだ身体をそのまま用いたのに対して,インターフェイスはマウスという新しい道具に対応した身体を用いた. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/331816620