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2012年の振り返り

2012年は結構,いろいろなところにテキストを書かせてもらました.

まずは,ICCで開催された展覧会[インターネット アート これから↩───ポスト・インターネットのリアリティ]「ポスト・インターネット」の質感を書きました.このお仕事をもらってから本格的に「インターネット・リアリティ」や,現在のネットアートの一側面を考えるようになりました.自分のなかではもう2年くらい前のような感じなのですが,まだ1年経っていないというのが面白いです.

次は,学会発表.上のテキストから問題意識を引き継いで「GIFの質感───「ポスト・インターネット」から考える画像形式」を日本映像学会第38回大会で行いました.発表のあと,IDPWでの「ささやかな会 #0000001 featuring “GIF”」での,千房けん輔さん,藤岡定さん,渡邉朋也さんとのお話は刺激的でした.GIFについては来年の3月までに論文にまとめたいなと思いつつ.

学会発表終えた後は,「ヒューマンインターフェースの歴史───「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ」をテレスコープマガジンに書きました.あと,テーマグラフの監修も行いました.

そして,7月からメディア芸術カレントコンテンツで月一でメディアアート関連の事象の紹介をしてきました.以下の6つの記事を書いたのですが,GIFにはじまり,GIFに終わっているところがいかにも2012年らしい.

ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで「Born in 1987」展 開催(0713)TELESCOPE Magazineで特集「ヒューマンインターフェース」が公開 (08/10)データ流通に関する2つの事象:《Dead Drops》と「Art.sy」 (09/14)「未知の風景」を描く地図:「The Amazing iOS6 Maps」と《9-Eyes》 (10/12)スクリーンショットと「死」:Feréstecの2つのオンライン展 (11/09)オックスフォード大学のアメリカ出版局が「GIF」を2012年の言葉として選ぶ (12/07)
11月にはIDPW主催の「インターネットヤミ市」にも「論文」を売り物として参加しました.インターネットを「リアル」に感じるというか,次のようなことをブログに書いていました.
僕の場合は[インターネット アート これから]以降に…

\風景+ を見ながらのメモ

frame_camera obscura (2012)
丸い感じ.何も起こらない.ボワーとした感じ.伝送されてきたもの.

rugged timescape (2010)
イメージがデジタルを通る時?に,一度,モノになる段階がある.モノというか,なんだろう,折りたたまれる「襞」(この言葉はいやだな)みたいなもの.GIF3Dに通じるような「薄い」何か?

襞ではない.折りたたまれるわけでもない.でも,そう見えてしまうこと.閾値を超えること.

desktop(2011)
スクリーンショットが展示されていること.触れないこと.ブラウザ生写真と違うところ.でも,展示する時,プリントする時に誰がか触っている.

スクロールバーが示す外部 拡がり

map(2010)
デスクトップを含むプリント.歪み.余白.なんかおもしろい.

map(2008)
選択範囲への注意.地図の重なり.でも,「枠」はない.デスクトップがない.

アルミマウントの写真を持ってみたい.デスクトップに触れた感じがするのではないだろうか.でも,こんなことを考えるのは,僕がアルミマウントされた写真に触れたことがないからだろう.

めくる行為のない/風景.硬い感じ.写真になっている感じ.写真集の初回のフラフラ感はない.でも,写真展を最初にみたらフラフラ感があった.仮想とリアルのフレームが一度拡げられたので,それを前提にして見ている.仕方がないこと.

でも,この写真展はとても触覚がモゾモゾさせられる.触りたい,写真に触りたいのか,スクリーンショットに触りたいのか,デスクトップに触りたいのか,よくわからないけれど…

写真の影とウィンドウの影.これなんか面白い.影がなんか人工,仮想っぽい.

archive(2012)
iPadだろうか,やられた感じする.これも触りたいけど,今iPhoneで文字をタイプしているので,このガラスの感じがプリントに重なる.明らかに紙で,歪みがあるのに,ガラスを感じで,モゾモゾする.

iPadのなかにデスクトップのスクリーンショット.フラフラ感キター.iPadとデスクトップのスクリーンショットの「きわ」が気になる.というか,最初に見ていたものも,スクリーンショットだったわけだ.「きわ」が見えないと判断できない.

浪江(2011)
感情が入り込む.ここまで全く覚えなかった物語的な感情.生活があったという…

告知とメモ:「カンバーセション Semitransparent Design,水野勝仁」

21_21 DESIGN SIGHTで開催されている「田中一光とデザインの前後左右」の関連プログラム「カンバーセション Semitransparent Design,水野勝仁」が,2013年1月13日(日)に開催されます.お時間がありましたら,是非お越しください.

まだ時間があると思っていても,もう1ヶ月を切っているので,少しずつその場で話すかもしれないことを考えていかなければという感じです.
−−
ということで,以下,メモ.

展覧会のカテゴリーに「文字,タイポグラフィの追求」があって,そのなかに「活版文字と写植文字」という項目があります.そこに「ゆらぎ」や「にじみ」という言葉が書かれた部分があります.
「第八回産経観世能」のプログラムでは,小さな級数で打った写植文字を原寸大に引き伸ばし,そこで生じた微妙な紙焼きの調子をかすれやちぎれとして写しとり,フリーハンドの微かなゆらぎを愉しんでいた.こうした風合いを,活版の圧力に求めたのが,続く「第九回産経観世能」のポスターである.活版用初号活字を粗目の紙に印圧をかけて印字し,拡大して現れるインクのにじみをもとに,その線の太さやとぎれに着目して,毛筆の文字のイメージに仕上げた.(p.12)[強調引用者] ,田中一光とデザインの前後左右 田中一光は,活版文字と写植文字を極端な方法で用いることで生まれる「ゆらぎ」や 「にじみ」に着目して,デザインを仕上げています.このことから連想したのが,写真家のトーマス・ルフの「jpegs」という写真集です.この写真シリーズは,ネットからルフが取得したJPEG画像を再び極度に圧縮した際に生じる「アーティファクト」と呼ばれるノイズにデジタル独自の「美」を見出したものです.田中とルフともに「極端」な行為を行うことで生じる「ノイズ」を表現に仕上げていて,デジタルとアナログとを跨ぐ形で,このふたりのあいだには一本の線がひけるのではないかと考えるわけです.

田中一光|印刷:引き伸ばし・印圧|文字のゆらぎ・にじみトーマス・ルフ|JPEGの圧縮|画像上のノイズ[アーティファクト]
セミトランスペアレント・デザイン(以下,セミトラ)は,デジタルにおける「劣化」を作品のなかで表現しているという意味では,田中・ルフとつながる感覚がある感じがする.ただセミトラの「劣化」は時間軸のなかで起る表現で,上のふたりはポスタ…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_6

記事を書きました→オックスフォード大学のアメリカ出版局が「GIF」を2012年の言葉として選ぶ

「GIF」が2012年の言葉に選ばれました.今年のはじめにはGIFについて研究しているとは思っていなかったし,このような記事を書く仕事をして,GIFについて書いているとは思ってもいなかった.流れ流れてこの先はどこに続くのやら.この勢いで,2013年にはGIFについての論文を書きたいけれど,どうかけばよいのやら.悩んでないで,とりあえず勢いで書く.

「CursorCamouflage」と「自己喪失」

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インタラクション研究の渡邉恵太さんの新作「CursorCamouflage: Multiple Dummy Cursors as A Defense against Shoulder Surfing」.体験してみたいですね.カーソルを操作している本人は,ダミーカーソルがいくらあっても,自分が動かしているカーソルがわかるが,他の人はよくわからないということ.渡邉さんの言葉だと,カーソルがユーザに「帰属」しているということを利用していることになるのかな.
つまり、カーソルが面白く特別なのは、動きが連動することによる自己帰属感の発生であると考えられる。もしカーソルが手元のマウスの「動かし」と無関係であれば、自己へは帰属されず、それはカーソルではない。さらに、重要なことは自分の動かしと連動するということは、透明性を得るということである。           iPhoneはなぜ気持ちがいいのか?
カーソルの動きを盗み見しようとする人は,矢印の動きと無関係だから帰属感がないことになる.けれど,動画のコメントに書かれているように注意深く,カーソルと使用者の手とマウスの動きを追っていくと,どのカーソルが本物か当てることができる.このとき,カーソルは観察者にも帰属しているのであろうか.画面上のカーソルとマウスの動きを見て,結びきを推測しているだけなので「帰属」とは違うだろう.「帰属」はもっと直接的なものなんだとと思う.

この動画を見ながら,渡邉恵太さんがだいぶ前に作っていた「自己喪失」を思い出した.カーソルが消える作品を「自己喪失」と名付けていることから,渡邉さんはこのころからカーソルを自分に「帰属」する存在だと考えたかなと思ってしまう.私もカーソルについて結構長い期間考えていると思うのだけれど,渡邉さんはそれ以上にずーっとカーソルのことを考えているのだな.

「自己喪失」と「CursorCamouflage」とを組み合わせたたらどうなるだろうか.これは役にたつとかではなくて,「帰属」の問題を考えるためにやってもらいたいな.「CursorCamouflage」を操作しているときに,突然ダミーのカーソルが消えた時の反応と,自分ものが消えたときとで感じ方にちがいがあるのかどうか.おそらくダミーのカーソルは消えたことにも気づかないということが起るのではないだろうか.自分のカーソルが消えた…

GIFについてのちょっとしたメモ

ちかごろGIFについてのテキストを立て続けに2本書いていて気づいたことというか,改めて考えたことのメモ.

まずは,GIFといっても静止画と動画では扱いが違う「差別」が起こっていること.これはCBCNETのラジオを聞いていて思ったことですが,まずはここから出発.静止画でも「スペーサーGIF」とかとても興味深い事例がある.GIF画像とGIFアニメとを分けて考える必要がある.では,分けることで生まれてくるGIF全体の見え方の変化はあるのか.

GIF画像だとJPEG画像との対比が出てくると思うですが,このふたつの画像を「語る位置」があるかなと.JPEGは画像単体で語られて,GIFだと画像が実際的に機能していることや,アニメとして流通している様子といったように画像単体ではあまり語られていないような気がする.

GIFアニメはGIFアニメだけを見ていてもだめかもしれないということ.Tumblrに流れているのだけがGIFアニメではないにしても,TumblrとセットでGIFアニメを考えることで,その質感を味わえるのではないか.「よく見る」とかいらなくて,ただリブログしていればいいよ.ただリブログボタンを押すか押さないか.その刹那的な感じ,一期一会の感じがGIFアニメなのかなと.

ジャーナリストの人たちもGIFアニメを使い始めてきており,それとポストインターネットのアーティストたちとの意識のちがいがあるのかないのか.そして,もしあるとしたらどのように異なっているのかということも考えてみたい.

なんかスカスカした気分です

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版: Q」を見たけれど,なにをここから考えればいいのかと思いつつ,鮮やかな同心円の煌めきだけにここに何かありそうだと思いつつ,それはGIFアニメに近いなと思いつつ,GIFがアメリカで「2012年の言葉」に選ばれて盛り上がりそうで,それはそれでよさそうなのだけれど,CBCNETのラジオから聞こえてきた「動画」と「画像」とのあいだの「GIF差別」って言葉もいいなと思いつつ,どれかを考えたいなと思って,何か書いてみてもなんかスカスカしていような感じがあって,手応えがないというか,多分インプットが足りないまま,アウトプットし続けていることが原因だと思われるのですが,それでも書いて,絞りきってみると,何か見えてくるかもしれないなと思いつつ.

2つのメモ:「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか

少し前に「田中一光→セミトランスペアレント・デザイン」を書きました,今回はその続きを考えるためのメモ.
上のテキストを書いた後に,展覧会「田中一光とデザインの前後左右」のカタログを読みました.そこに中沢新一さんの「田中一光の妖怪」というエッセイが載っていました.その中の一文. 妖怪的構造をした美の現象は,永住をめざさない.妖怪は神ではないから,「無」と「有」のあいだを往復しながら,つかの間の生命を享受することを好む.(p.67)  もうひとつ. 私たちは琳派の描く自然の中に,具体と抽象の間を行くような,形態となる以前の自然という理念的なものの表現を見出すことになる.(p.67) 中沢さんのこのようなテキストの直後に「継ぐものたち」のセクションが置かれ,三宅一生+Reality Lab. とセミトラが紹介されています.ここに編集の意図を感じてしまいました.とても簡単につなげてしまうと,三宅一生+Reality Lab.は「2次元と3次元とのあいだ」を,セミトラは「ネットと現実とのあいだ」を行き来しているということになるのでしょうか.
セミトラの作品における「妖怪的構造をした美の現象」や「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を考えてみることはとてもおもしろいかもしれないです.
あともうひとつメモ.
「セミトランスペアレント=半透明」ということで,以前読んだ岡田温司さんの『半透明の美学』を再読.岡田さんは「半透明の美学」は「プロセス/移行の美学」と書いています.岡田さんは,アリストテレスの「ディアファネース」という概念を「透明性のさまざまな度合い」と捉えてあれこれ考察して,「視覚のうちに「分解」や「変化」をもたらすことこそが「ディアファネース」の積極的な働きなのである」(p.63)と書きます.
田中一光さんがつくり出した「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を,「半透明」の意味を示すセミトラがデジタルを介して「分解」し「変化」させていくこと.「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか.

インターネットヤミ市で手に入れたもの!

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インターネットヤミ市からはや2週間.僕は「論文」を売っていたのですが,結構売れてよかったです.その場で「論文」が売れていくのも面白かったし,「論文」をつくるこことも楽しかったです.中綴じ印刷どうやるんだからはじまって,中綴じのために「ナカトジール」を買って,表紙のイラストをもらって,印刷して,まとめて,ナカトジールで綴じて,データをモノ化していくプロセスが新鮮だったです.
そして,ヤミ市で買ったのも,まさに「データ→モノ」という流れにあるものたちでした! まずは,山口崇洋さんの「myGSaV.zine(vol 1): 」.ストリートビューにあるグラフィティーを集めたZine.クリップ留めのため,自分でページの入れ替えや追加が自由にできるのです.紙なので見ていくと,折れやヤレがでてきていい感じになっていくでしょう.少し前にちょうどストリートビューや地図について考えていたので,それが「紙」になっているのがうれしくて,即買いでした.


「論文」を売っていた僕の右隣には,山口の岩石を売る渡邉朋也さん(開始すぐに岩石がは完売!)がいて,左隣は長らく空いていたのですが,途中から吉田裕紀さんが来て,売るものの準備していて,売りだされたのが下の「インターネット生写真」.スクリーンショットを撮って,そのデータをコンビニで写真プリントしたもの.これがなんとも言えない質感.なんか,ブラウザをスクリーンショットで撮るという時点で,機能を失った画像をつくり出し(しかも,このことについて考えていた),それをさらに紙にプリントしてしまい機能を失った画像に物質性を付加するということで,自分のなかでは二重に捻れた「ブラウザ」として即買いでした.

そして,データの物質化はまだまだ続き,左がエキソニモさんの「Web Designing次号の連載原稿」で,左がcooked.jpさんの「男性向けブラウザ」.「連載原稿」は文字通り「原稿データ」が入っていました.USBメモリだとMacに差し込んで開くまでドキドキしますね.「男性向けブラウザ」は,SDカードにデータが入っていて,こちらもワクワク&お世話になっております.


最後に,谷口暁彦さんから購入した「GIFアニメ(額付き)」.GIFに触れることができます,そして自分の手で動かせます! うん,よい手触りです.

最後に,インターネットヤミ市を主催したIDPWのエ…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5

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記事を書きました→スクリーンショットと「死」:Feréstecの2つのオンライン展

1980年にバロセロナに生まれ、現在はマドリッドを拠点とするフェラン・プラ(Ferran Pla)さんによるひとりアートユニットFeréstecの2つのオンライン展についてです.プラさんも「ポスト・インターネット」の範疇に入るだろうかと思いつつ,新津保建秀さんの『\風景』以来気になっている「スクリーンショット」についての考察をしてみました.
FeréstecのTumblrを見ていると,プラさん,今,日本に来ているみたいです.
新津保さんの写真集や,ラファエル・ローゼンダールさんのブラウザを用いた「動的なコンポジション」とも絡めてテキストを書きたかったのですが,文字数と私の思考がたりませんでした.改めて考えたい.
以下,ボツテキストから. ここで考えたいのは「スクリーンショット」という機能である.Feréstecは画面のスクリーンショットをとることで作品をつくる.それは完成した絵画などを記録したものなのだろうか.それとも,スクリーンショットで「撮る」という行為自体が作品なのだろうか.ネットアートが作品を記録するために用いていたスクリーンショットというフレームを,Feréstecは自らの作品を成立させるフレームとして用いている.ラファエロ・ローゼンダールはウィンドウを用いたコンポジションは,常に動き続けるものだと指摘した.スクリーンショットはデスクトップ上のウィンドウを「静物画」にする.ウィンドウというフレームでありながら可変的であった枠をスクリーンショットは不動のものに変える.つまり,スクリーンショットはウィンドに「死」を与える.しかし,スクリーンショットで撮られて画像は,再び動的なウィンドウに表示され「生」のなかに放り込まれ,動的な構成の要素となる.しかし,それは再びスクリーンショットで撮影される.どこまでも続く繰り返しを終えるのもスクリーンショットであれば,それはあらたな繰り返しのはじまりでもある.  写真家の新津保建秀も「スクリーンショット」で撮影した画像を写真集『\風景』に組み込んだ.タイトルにある「\(バックスラッシュ)」とは「意味を無効化する」という働きをもつので,「\風景」といは「風景を無効化する」ということになる.撮影した画像をデスクトップ上で開き,そのウィンドウを…

田中一光→セミトランスペアレント・デザイン

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先日,「インターネットヤミ市」に参加しました.そこでの戦利品の紹介などは後日書くことにして,今回は21_21 DESIGN SIGHTで開催されている「田中一光とデザインの前後左右」で展示されているセミトランスペアレント・デザイン(以下,セミトラ)の作品について考えてみたいと思います.
田中一光という日本を代表するデザイナーについての展示については「すごい」というしかないという感じします.そんなグラフィックデザイナーの回顧展のなかにウェブ中心に活動しているセミトラが参加しているのが興味深いのですが,田中さんはデジタル表現についてとても興味を持っていたとセミトラの作品キャプションに書いてありました.
セミトラの作品は「三宅一生+Reality Lab.」とともに「継ぐものたち」と名づけられたコーナーにありました.その作品は,まず田中一光のポスターが展示してあります.

ポスターの横にディスプレイが2台あって,ひとつはピクセル状の映像が表示されていて,さらにその横に上の画像に「グリッチ」をかけたような映像が映されています.ポスターの前に立つと,横のピクセル状の映像が乱れますと同時に,グリッチ状の画像も乱れます.この3つの画像が連動していることに気づきます.
ポスターとディスプレイとは逆の壁面を見ると2台のカメラが設置されています.キャプションを見ると,1台のカメラがポスターを撮影して,その画像をコンピュータで非可逆圧縮するそうです.それがピクセル状の画像で,この画像をもうひとつのカメラで撮影して,復元したものがグリッチがかかったような画像となっているということです.だから,ポスターとカメラのあいだに人がたつと,「田中一光のポスター+鑑賞者」が映像として捉えられ,圧縮変換され表示されて,さらに復元されて表示されるので,映像に変化が生じるわけです.
ここで興味深いのは,体験者がポスターの前にたった時と,ピクセルの映像の前にたったときで,最後の映像の表示具合が異なることです.ピクセルの前に立ったほうが最後の映像の変化が大きかったと思います.「ポスター→ピクセル→復元映像」という流れで,鑑賞者が圧縮過程に干渉するか,それとも復元過程に干渉するかで異なる映像は何を示しているのでしょうか.
そんなことを考えていると,この作品で画像を変換していくプロセス自体が,現在のイメージをめぐ…

大会報告:GIFの質感

6月に九州大学で行われた日本映像学会で発表した「GIFの質感:「ポスト・インターネット」から考える画像形式」の大会報告のPDFが公開されました.YCAMのアーティスック・ディレクターである阿部一直さんの基調講演のまとめなども載っている,とても充実した会報です.
大会報告を書いたのは9月の頭で発表からかなり時間が経っていたために,改めて「GIF」について考え直す機会になりました.GIFの部分だけ抜粋.報告にはあと「JPEG」についてと,ちょっとしたまとめが書いてあります. 圧縮ゆえの「軽さ」によってウェブに隈なく流通しているという点で,GIFはJPEGと似ている.しかし,1670万色を表示できるJPEGはウェブ上の「写真」として機能しており,圧縮による劣化が見えにくいのに対して,256色という使用出来る色数の制限によるエッジが際立った「硬さ」を示すGIFは,劣化が剥き出しの状態でウェブに存在している.また,GIFはアニメーションの表示ができるが,1秒間のコマ数が少なくカクカクした動きになっている.データ流通のために「軽い=劣化」を良しとするインターネットのなかで,その特徴を際立たせ「硬さ」というひとつの質感にしているのがGIFなのである.さらに,GIFアニメは「動画」なのだが「再生ボタン」がなく勝手に再生され,しかもループ再生になっている.この特徴と「硬さ」が合わさり,GIFアニメは「画像」でありながらもひとつの「オブジェクト」ような存在感を持つ.それゆえに改変されることが少なく,ひとつの作品としてネットを流通していくのである. ここでGIFについて書いて,メールを送信した日の夜に『Designing Tumblr』が届いて,そこに谷口暁彦さんの「GIFアニメの質感」が載っていました.そして,GIFアニメについて「そこにありつづけるという質感」という指摘があって,なんとなく重なり合っているなと思った次第です.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_4

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記事を書きました→「未知の風景」を描く地図:「The Amazing iOS6 Maps」と《9-Eyes》 ネットの世界というか,デジタルの世界の流れははやく,もうアップルのiOS6の地図は「過去」の話のようになっていますが,アップルの地図をいち早く「探検」した「The Amazing iOS6 Maps」と2009年からグーグルストリートビューを「探検」しているジョン・ラフマン《9-Eyes》について書きました.
アップルとグーグルには,もちろんこの2つの企業に限る必要はないのですが,これからも「未知の風景」を描き続けてもらたいものです.

GIFアニメーションに関するメモ

「GIFアニメーション」と呼ばれるが,その「アニメーション」の部分はクールジャパンで言われているアニメーションではなく,「動き」そのものを現している.だから,アニメーションとしてこれまであまり考えられてこなかった.しかも「動き」と書いたが,それはとても短い時間でループし続けるものでしかないので,あまり動かないと言えば動かない.だから,GIFアニメは「アニメーション」として見なされずに,「Web上でカクカク動くモノ」という存在であった.

けれど良く言えば,その短さゆえに「動き」の最も面白い部分を抽出しているとも言えるので,もっとも「アニメーション」らしい表現とも言える.しかし,その動きはカクカクしている場合が多い.そのカクカクさは,YouTubeなどにアップされたアニメの動きの滑らかさとは異なる.動きの解像度の低さゆえに,「動き」という部分が強調されるということが起こっている.というよりも,GIFアニメは「動き」しか楽しめるところがないとも言える.
カクカクした動きはGIFが圧縮画像であることが生じている.データを圧縮して「軽く」する.その際に,画像は劣化する.それでもインターネットはより多くのデータをより早く届けることを良しとするがゆえに,「劣化」を受け入れる.だから,GIFアニメは「劣化」した「動き」を示しているとも言える.しかし,それが新鮮に受け取られている.「動く」というアニメーションの基本の部分に,デジタル特有の「圧縮」が入り込み,それが好意的に受け入れられている表現としてGIFアニメを捉えることで,アニメーション概念の拡張が図れるのではないかと考えてみる.

パーカー・イトーのインタビューを読む

DIS Magazine に載っているパーカー・イトーのインタビューが興味深い.
パーカーはインタビューの中で「仮想」と「現実」とが統合されていっているのかと聞かれて,「それは既に起こっている」と返答している.そして,その例として出すのが,OSX10.7でスクロールの向きが逆になることと,インスタグラムのフィルターである.
OSX Lion でトラックパットを用いてのスクロールの向きがSnow Leopardまでとは逆になって,指を動かす方向にコンテンツが移動するようになっている.それは,iOSデバイスでのスクロールと一致させたわけなのだが,パーカーはこのことを「自然」といっている.つまり,iPhoneなどのデバイスでより多くの人が「指を動かす方向にコンテンツが移動する」方法でスクロールしているのが,このことが「自然」となったということである.デジタルの環境に「自然」ということ言葉を使うところが興味深い.
OSX Lionが参照したのは現実の環境ではなく,デジタル環境である.デジタルがデジタルを参照するようになっている.そこには独自の「自然」があって,その意味で,もはや「仮想」は「現実」を参照することなく,「仮想」が「仮想」を参照するという閉じた環境から「自然」を生み出しているといえる.これを「仮想」と「現実」との統合と捉えるかは考える余地があるが,「現実」を参照する「仮想」と言うものはここにはない.「仮想のなかに現実」があり,「現実の中に仮想」があり,そのそれぞれに位置する「仮想」が互いを参照することで「自然」を作り出すようになっている.
インスタグラムのフィルターにしても,「映画のような」などではなく「インスタグラムのような」フォルターという,インスタグラムがインスタグラムを参照するということが起こっている.
パーカー・イトーは徹底的に仮想やデジタルのなかで閉じた思考を行なっているのが,とても興味深い.デジタルはデジタルを参照するし,仮想は仮想を参照する.そして,それが成り立つことをパーカーは感じているし,それを作品にしている.デジタルはデジタルの円環のなかに,それを成立させるためにヒトが取り込まれていく.
パーカーはインタビューの最後に,現在の作品の行き着くところはどこかと聞かれ,それはわからない,なぜならリブログされ続けるからと答えている.終わりなんてない…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_07

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06で「ハッカー/デフォルティスト」という区分けのことを書いていて,この区分けについて考えたメモ

「ハッカー/デフォルティスト」という区分けを成立させているのは,デジタルを「自然」と感じるのかということなのかもしれない.デジタルを操作可能な空間として捉えるとハッカー的になるし,もうそれは「自然」としてあって,そこの法則に従うとなると「デフォルティスト」となるかもしれない.しかし,これもまた「ハッカー|デフォルティスト」の区分けを解釈しているにすぎない.あたらしい区分けは出てきていない.「区分け」する必要もなくて,「自然」でハッカーとデフォルティストをまとめて,つなげてしまうというのもいいかもしれない.「自然」でまとめてどうするのかということもあるので,さて,どうするか.「自然」とかではなく,もっと違う言葉が必要なんだろうな.もっと違う言葉で,今までの流れを滑らかにつなぐことができれば,いいな.その点,さやわかさんの『僕たちのゲーム史』はとても鮮やかでした.
テレビゲーム ・変わらない部分・・・・・ボタンを押すと反応すること
・変化する部分・・・・・・物語をどのように扱うか という2つ原理で,テレビゲームの歴史をなめらかにつないでました. じゃ, [インターネット アート]の[これまで]と[これから]をつなぐ原理って,もしあるとすれば,何なんだろう? 今は,考えつかないので,また今度.

GIFアニメとTumblrが出会った!

Designing Tumblr』のなかにアーティストの谷口暁彦さんが書いた「GIFアニメの質感」というテキストがあって,そこには次のように書かれています.
一方,GIFアニメには再生ボタンが無く,読み込みと同時に再生され,読み込みと同時に再生され,ほとんどどれも数秒程度の短さでループをひたすら延々と繰り返す.その再生時間の短さ故に,リロードしても,最初から再生し直しているようには見えない.むしろそのページにアクセスする以前から,ずっとGIFアニメは動き続けていたようにさえ感じられる.このようなGIFアニメの在り方は,停止するとイメージが失われてしまう映像よりも,むしろ実際に質感を持った物質のような存在に近いのではないないか.「私がそれを見ていないくてもそこに在りつづけるだろう」というリアリティだ. ここでGIFアニメに関して指摘されている再生ボタンやループの問題は以前から私も考えてきたのだが,その先に書かれている「私がそれを見ていなくてもそこに在り続けるだろう」がとてもいいと思う.実際にTumblrのダッシュボードで流れてきたGIFアニメは,私の眼の前のディスプレイに現われた瞬間には再生されているし,画面から消えていくときにもあいも変わらず再生しているから,いつまでも,そしてどこでも再生しているのだろうなという感じを受ける.まさに,「そこにあり続けるという質感」です.

Tumblr関係でもうひとつ面白い指摘があって,それはGoogle Earthの地図のバグを扱ったテキスト「The Universal Texture」のなかに不意に現れた一文です.Google Earthを論じたテキストにいきなりTumblrが出てきて驚いたのですが,それは「デジタルメディアの世界で,この流れるような連続性はTumblrの無限スクロールに似ている」というものです.Google Earthが航空写真のコラージュでありながら,「Universal Texture」というアルゴリズムでそれらを滑らかにつないでいく,その滑らかさがTumblrでの延々と続いてくスクロールに似ていると,Clement Vallaは指摘するのです.Vallaのテキスト自体は,Universal Textureによって論理的に正しく画像が滑らかにつながれていくなかで,道路が歪み,建物が波打つという,アップル独…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_3

記事を書きました→データ流通に関する2つの事象:《Dead Drops》と「Art.sy」

このブログでも一度取り上げたことがあるアラム・バートルのオフライン・ファイル共有のプロジェクト《Dead Drops》と,アート紹介サイトの「Art.sy」についてです.

バートルを取り上げたエントリー:[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06

「Retinaディスプレイに触れる」というのは…

「Retinaディスプレイに触れる」というのは「網膜に触れる」ということであって,面白なと思っています.コンピュータのディスプレイにおいて「見る」と「触れる」の問題があるのと考えているのですが,それらが文字面において直結してしまった感じ.で,「Retinaディスプレイに触れる」という時,「実際には何に触れているのか」ということを考えてみたいのです.そんなことを書くとすぐに「ガラス」に触れているとツッコまれますが,それはもちろんそうだけれども,もう少し考えてみようということです.まずはアップルのサイトからiPhone4SとあたらしいiPadにおけるRetinaディスプレイの説明のテキストを引用します. Retinaディスプレイなら,iPhone 4Sで見るもの,体験するもの,すべてが驚くほど美しくなります.Retinaディスプレイはピクセル密度がとても高いので,人間の目ではひとつひとつを識別できないほど.ゲームも,ビデオも,写真も,画面から飛び出しそうなほど生き生きと映し出されます.本,ウェブページ,Eメールのテキストは,どんなサイズでもくっきりと鮮やか.見るものすべてが,いっそうシャープになります. 新しいiPadを手に取った瞬間,すぐに気づくでしょう.あなたの指は本当に写真に触れ,本当に本のページをめくり,本当にピアノを弾いているのだと.あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません.実際に体験することをさらに魅力的なものにするために,ディスプレイ,カメラ,ワイヤレス接続機能といったiPadの基本になる重要な要素が一段と進化しました.そして生まれたのが,あなたの想像をはるかに超えたことまでできる,新しい第3世代のiPadです. 「ピクセルが識別できない」というのが「Retinaディスプレイ」と言われる所以であるとすれば,「Retinaディスプレイに触れる」というときに,ユーザはヒトの眼の限界を超えたものに触れているものになるわけです.ピクセル単位で操作を行うことはほとんどないにしても,識別できないものを操作している,しかも実際に触れながら操作しているというのは興味深い.
iPadのテキストでは,「ピクセルが識別できない=本当に〇〇に触れる=あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません」となっています.となると,「ピクセルが識別…

巨大化したアイコンをスクリーンショットで撮る

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Domain GalleryEmilio Gomarizの個展External/Internalが開催されています.
Emilio はMacOSXのデフォルトの機能を使って作品を作っていて,今回はアイコンを巨大化して配置した作品を展示しています.

E/I S02 Screenshot. PNG. Original size: 1920x1200 px. 2012.
「Finder」で「⌘J」を押すとアイコンサイズを変えれて,最大サイズにするとEmilioが展示しているようなアイコンになる.アイコン下に通常表示されている「名前」はどうやって消すのかわからないのですが,アイコンだけは誰でも巨大化できます.それだけでも新鮮です.
アイコンが巨大化することで,単なるイメージでありながら若干のモノ感が出てくるところが面白い.Domain Galleryの説明文にも「彫刻的[sculptoric]」という言葉があります.
内蔵ハードディスクや外部接続のUSBメモリなどを示す「アイコン」を巨大化して,彫刻を作るみたいに積み上げて,そのスクリーンショットを撮る.アイコンは「イメージ」で,それを「モノ」のように扱って,最終的にスクリーンショットを撮って「イメージ」にする.あいだにある「モノ」も実際は「イメージ」であるわけだから,始終一貫して「イメージ」なのですが,どこかしら「モノ」感が作品から漂うところが面白い.
ギャラリーの説明文に「物理的なハードウェアの存在とそれを示すデジタルな視覚的な表象」という言葉があって,「確かにそうだよね」ととても納得しました.この作品はOSXの機能を使っているわけだから,スクリーンショットで撮られているデスクトップ上にあるアイコンは,実際にパソコンに内蔵されているハードディスクと紐づけられたものだし,USBポートにフラッシュメモリが接続されている状態を示しているわけです.こう考えると,内と外とが突然繋がる感じがありました.そして一度このように考えはじめると,内蔵ハードディスクの方はパーティションを分けているのかなくらいですが,外部の方はどうなっているのだろうと思うわけです.もしかしたら,外部のメモリやハードディスクは実際に積み重ねられているのかもしれないわけです.
Emilioの作品は一見,とても単純というか「面白い」のひと言で通りすぎて行きそうな感…

[GIF]ボタンに納得がいかない

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iPhoneのtumblr公式アプリには[GIF]ボタンがある.こんな感じのやつ.これがとても気になる.
この[GIF]ボタンを押さないと,アニメーションが再生されない.GIFアニメーションが勝手に再生されないから,ちょっと調子が狂う.ひと目で「GIF」だということはわかるけれども,勝手に「再生」されないというか動いていないので,[GIF]ボタンをタッチしてようやくアニメーションを楽しむことができる.
GIFアニメーション以外の動画には[▷]ボタンがついている. GIFアニメーションは他の動画とは「違う」ことになるが,ボタンを押さないと「動画」を楽しめないという点では同じになっている.GIFアニメーションは[GIF]ボタンを押すとその場で「再生」されるのに対して,他の動画はページが遷移する.
その場で動くから[GIF]ボタンにしたのかもしれないし,ボタンを押した後は短い映像が延々とループするから,YouTubeに上がっている映像などとは区別したかったのかもしれないけれど,GIFアニメーションを見るためにいちいちボタンを押すのは,なんか納得がいかない.GIFアニメは画面に現れた時点で,有無をいわさず動いていて,それも延々とループしていてなんとなくウザイ感じがいいのに,再生のためにユーザにお伺いを立てるGIFアニメーションなんて,GIFじゃない.

しかし,tumblrはなぜに[GIF]ボタンを設置したのか? 素人考えでは,iPhoneの限られた処理能力をやりくりするためだとは思うけれど,もっと深遠な理由があるのかもしれない.なんといってもtumblrである.画像流通に関して大きな変革を遂行しているともいえるtumblrが,なぜにGIFボタンを設置したのか.あまりにもGIFアニメがウザイとクレームが来たのか.それとも「動画」としてカテゴライズさせたかったのか,そうだとするとなぜ[▷]ボタンにしないかったのか.[▷]を押して,GIFアニメーションだったときのガッカリ感を軽減するためのなのか.

tumblrのダッシュボードを流れてくるGIFアニメーション.パソコンで見るときには,流れてきて画面内に入ってきた時には,既に再生・ループしている.ちょっとそこに意識がいく.意識が滞留する感じ.しかし,iPhoneだと[GIF]ボタンがあるので「押そうかな」と一瞬思って,押さないこと…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_06

近頃,「世代」ということが気になっています.と言ってもただ,次のふたりの誕生年が一緒だったというだけなのですが,エキソニモの千房さんと作品集『The Speed Book』が面白かった アラム・バートル(Aram Bartholl)がともに1972年生まれなのです.アラムの『The Speed Book』に関してはCBCNETさんに「オンライン/オフラインを交差するリアリティ – アラム・バートルによる数々の実験的なプロジェクトを収録した作品集がリリース」という記事があります(作品写真もとてもきれいに載っているので是非読んでみてください)そのなかで,アラムの作品を含んだ状況の説明がされています.
彼の作品の多くが,インターネットが日常化した(もしくは陳腐化した)現代において,人々が感じるリアリティの変化やその質に注目したものだ.これは今年はじめにICCにて開催された[インターネット アート これから] 展でもテーマとしたポイントであったが,世界中でそういったテーマ性を持った作家や作品が登場している.これは一種のネット・アートの流れとして語られることが多いが,90年代のそれとは多様な変化(インターネット自体も含めて)を見せている.アラムの作品は,あるオブジェクト単体で完結するものではなく,そのシステムやキュレーション,場合によっては状況そのもの,など広範囲となっており,実空間に落とし込んでいる点が特徴的だ.本の中で,アーティストのEvan Rothは彼の作品はニューメディアアートより街で見かけるグラフィティのほうに共通項が多いとし,既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す,という意味で「ハッカー」であるとしている. エキソニモも「ハッカー」的ということがよく言われます.じゃ,アラムとエキソニモを「ハッカー」というひとつの言葉で括って,同じように扱えるかというと少し違う感じがしています.ともに「既存のシステムに入り込み,新たな価値を示す」ことはしているけれど,以下のちがいがあるのではないだろうかと思っています. アラムはデジタルの出来事や存在を文字どおりそのままリアルに移植・もってくることで出てくる「ちがい」があたらしい価値を生み出す.  エキソニモはデジタルの出来事や存在から生じている私たちの感覚を抽出して,それをリアルで「リアル」に体験できる仕組みをつくること…

「\風景=風景」あるいは「システム=風景」

「風景」をめぐる2つの作品,新津保建秀『\風景』ペトラ・コートライトSystem Landscape》を考えているけれど,考えれば考えるほど,広がりをもつトピックだなと感じています.
『\風景』では,ページをめくるごとに,意識がネットに行ったり,写真で撮られている「現実」にいったり,デスクトップ上のウィンドウに行ったりする.意識がフラフラする.この意識のフラフラが,最後にある「バックスラッシュ」の説明ですっきりする.「すっきりする」と言っても,写真を見ているときの意識がネットに行ったり,「現実」に行ったりする感じのすべてを理解できたわけではいのだけれど,「あぁ,そういうことか」と思う.池上高志さんが美術手帖に書いている「安定した解の存在しない関係式『\a = a』」によって,意識が落ち着く感じがある.今まで見ていたものが風景なのなか,デスクトップも風景なのか,そうしたことが「\風景」として無効化されて,その上でそれが「\風景=風景」となるという感じ.
ペトラのときに書いたことでいうと,写真集の写真の隣接性によって意味がわからないけれど,とても強烈な結びつきを感じていたものが,最後の一文によってまとめ上げられて,意味を持つ感じ.これは言いすぎかもしれない,池上さんの「\a = a」という式によってこそ,まとめ上げられるというべきかもしれない.まとめ上げられるといっても,隠喩的なものではなくて,「\風景=風景」という直結回路ができた感じ.メタファーを経由しないから,デスクトップ・メタファーで特権的に位置にある「カーソル」が写真に写っていなくてもいいのかなと思えるようになった.以前は,「カーソル」が写っていないことに違和感を感じたのだけれど,今の解釈だと感じない.
新津保さんはインタビュー(アサヒカメラ2012年5月:あたらしい「風景」をとらえるために,インタビュー 島貫泰介)で「ネットワーク内の膨大な情報は、第二の自然環境といえるのではないでしょうか。写真は見えるものしか撮ることができないけど、写真が持つ『フレーム』の意味を拡張することで現れる風景があるんです」と言っています.コンピュータのディスプレイに映っているもののスクリーン・ショットを撮ることで,「第二の自然環境」を撮影しているとすれば,ペトラの《System Landscape》で表示されている「風景」…

お仕事:ヒューマンインターフェースの歴史 :「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ

TELESCOPE Magazineで「ヒューマンインターフェースの歴史 :「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ」という記事を書きました.
タイトルのようにヒューマンインタフェースの歴史に関するテキストです.テキストのリード文です.
人間とコンピューターとが触れ合う場,それがヒューマンインターフェースである.マウスを使うとか、ディスプレイに触れるとかの行為だけにとどまるのではなく,これらの行為を通じて人間がより賢く,豊かになっていくひとつの環境なのだ.それゆえにヒューマンインターフェースは、これからの人間のあり方を決める大きな要素とも言える.このテキストでは人間とコンピューターとの関係を決定してきた「ヒューマンインターフェースの歴史」を概観する. 博士課程時代に「インターフェイス」について研究していました.そこではこんな博論を書きました.上のテキストで「インターフェイス」に興味を持たれた方に読んでもらえたらうれしいです. 博士学位申請論文「GUI の確立にみる『ディスプレイ行為』の形成過程」,名古屋大学大学院情報科学研究科,2009年1月  コンピュータがアナログからデジタルへとイメージの性質を変化させるだけではなく,道具の変化を促し,ヒトの身体的行為を変化させていることを考察した. GUI というディスプレイ上のイメージの変化ともに,ヒト行為とイメージとが結びつき「ディスプレイ行為」という新たな行為を形成したことを提示した. GUIというものを工学的的視点ではないところから考えてみたかったし,今も考えています.近頃,「インターフェイス美学」というものが海外でちょっと盛り上がっているみたいです.私の論文もこういったところにカテゴライズされると面白いなと思っています.そして,Rhizome の記事「Interface Aesthetics: An Introduction」が「インターフェイス美学」についてコンパクトにまとめています. この記事を書いたJASON HUFFという人は,「Beyond the Surface: 15 Years of Desktop Aesthetics」という記事も書いています.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_2

記事,書きました→TELESCOPE Magazineで特集「ヒューマンインターフェース」が公開

テーマグラフや特集内の記事「ヒューマンインターフェースの歴史:「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ」で関わったTELESCOPE Magazineの紹介.

メディアアートとヒューマンインターフェイスとを「身体」をキーワードにして,複合的に考察していくことが求められているということを最後に書いています.


「隠喩から換喩へ」という流れから,ペトラ・コートライトの《System Landscape》を考えみたけれど…

前回ペトラ・コートライトの《System Landscape》を考えた結果,「ウィンドウ」,俯瞰の風景写真,植物のようなGIFアニメ,ウェブカムからの静止画が「たまたまそこにある」といことに至ったわけです.そこに積極的な意味を見出すことは勝手だが,ペトラには「そこには意味なんてないんだよ」と言われている感じ.そして,最後にこの状況を考えるために,市川真人さんが思想地図βの第3号に書いていた「文学2.0:余が言文一致の未来」が有効なのではないかと書きました.
市川さんの論考はTwitterなどの言表をめぐるテクノロジーによる環境の変化によって,「今日の世界像は全体を局所に投影する隠喩的なそれを離れ,無数のリンク=隣接が連鎖するものへと移行しつつある」というものです.「隠喩から換喩へ」という流れが,ペトラの作品の位置づけ(これは極私的に私にとっての位置づけかもしれませんが…)に役立つのではないかと思ったわけです.
市川さんの論考は「文学」を対象にしているけれど,そこで換喩的な作品として扱われているのはマンガ『ONE PIECE』だったりと,画像の分野と密接に関わっていると思われます.Twitterをtumblrに適宜読み替えたりすると,市川さんの言説は「ポスト・インターネット」界隈の画像の理解を促してくれるのではないか,と私は考えています.と,説明し続けるよりも,とりあえず「文学2.0」と「ポスト・インターネット」をただ隣に並べてしまうことからはじめてしまおうという感じです.
ペトラの作品に戻ります.そして,その横にエキソニモ[インターネット アート これから]に大量に設置してた《祈》を置いてみます.《祈》については以前一度考察したことがありますのでそちらを参照していただけるとうれしいですが(→イメージを介して,モノが「祈る」),とても簡単に説明すると光学式マウスを2つ重ね合わせると,光が干渉しあって画面上のカーソルが動くというものです.で,どうして《System Landscape》の隣に《祈》を置いたのかというと,前者が「換喩的」な作品で,後者が「隠喩的」な作品なのではないかということです.
エキソニモの《祈》は,マウスとカーソルという「デスクトップ・メタファー」とともに私たちの生活のなかに入り込んできたインターフェイスをメインの要素として使っています.マウス…

ペトラ・コートライト《System Landspace》を考えみたけど…

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ペトラ・コートライトSystem Landspace》2007.この作品は「ANIM8D GIF PIECES」のカテゴリーに置かれている.

作品を見に行くと,まずは波が寄せては返す風景が3重にくらいに重ねられたGIFアニメが出迎えてくれる.その下に「System Landscap」2007 と書かれている.このGIFアニメを見ると,低解像度の風景GIFアニメを次にも期待する.
クリックするとこんな感じになる.


ウィンドウが重なり,複数のウィンドウには航空写真から作られたGIFアニメがループしている.出だしから期待を裏切られる感じがする.タイトルの「System Landscape」という言葉を考えると,コンピュータの画面上にあるもの自体が「風景」と考えることもできるから,ウィンドウが重なっている画像が出てくることは納得できる.その中に俯瞰の航空写真というGoogle Earthが当たり前にしてしまった「風景」がGIFアニメで流れていることもひとつの「風景」だなと思う.
では,ウィンドウで黒くなっている部分は「風景」なのか? あるいは,あるべきものがなくなっていることも「風景」なのか? そんなことよりもGIFアニメがメインのはずなのに,その枠であるウィンドウがこれほどに重なっていることの方が問題なのではないか.「風景」よりもウィンドウが重要で,「風景」としてウィンドウのなかに映しだされているものには積極的な意味を見出させない,自分がいる.「結局,「枠」があるから風景なんだよね」とペトラに言われているような感じもするし,それは考え過ぎな感じもする.ということを考えつつ,クリックしていくと,上のウィンドウ重なりのGIFアニメが何回か,続くことになる.
クリックし続けて,このままで終われば「System Landscape」が意味するところは,割りと単純なのかもしれないな思っていると,いきなり,植物みたいなGIFアニメが現れる.
植物みたいなGIFアニメ.あくまで「みたいな」という感じ.ここではウィンドウはなくなっていて,代わりに,植物みたいなやつを囲う赤と青の枠がある.「植物みたいなGIFアニメ」とそれを囲う「青・赤の枠」,ここに意味を見いだせるのか.意味を考えてはいけないのかもしれない.ただただクリックして,画面を次へ次へと進めていくことだけが求められているのかも…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_05

講義やらなんやらで忙しくしていたら,頭の中から「インターネット・リアリティ」がどこかに飛んでしまっていた.頭の中からインターネット・リアリティが抜け出ていた.いや,そんなときにでもインターネットを使っているわけだから,リアリティのなかにいたわけだけれど,今改めて,そのリアリティの手触りみたいなことを考えようとすると,考えが進まない.

インターネット・リアリティのなかにいながら,そのリアリティのことを特に考えることをしなかったときのインターネットのことを今改めて考えてみたいのであるが,それが難しい.どこか言葉がインターネットを追い切れない.もともと追い切れていたわけではないけれど,今は全くと言ってほどインターネットのリアリティが遠い.

リハビリのためにインターネット・リアリティへの自分の感覚をだらだらと書いているけれど,自分のなかで意識が変わっていくということが,今のところない.なので,他の人の力を借りてみる.

情報美学概論が終わった後にふたりの学生さんと話していたときに印象に残った言葉をあとでメモったもの:

JEPGは敵,群体は危険.コンピュータのなかに身体を見てしまう.Googleグラフィティのなかのヒトの精神状態は,コンピュータのなかに入ってしまっている.ネットアートはあそび,ニコニコ動画のMADやニコ生に比べると豊か,余裕がある.客観視する余裕ということ.彼と彼女の言葉を頷きながら聞いていた.と書いても,このあとに何かを書くことができないでいる.一度離れた「インターネット・リアリティ」をまた手元に引き寄せるのは難しい.常にそのリアリティのなかにいるからこそ難しい. 

他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと

美術手帖の8月号の特集は「写真2.0:パラダイムシフトを遂げる写真環境」.特集内でトーマス・ルフや新津保建秀『\風景』が取り上げられていたので,久しぶりに美術手帖を買って読んでみた.写真自体には興味がないのだが,「ポスト・インターネット」という私の今の関心のなかで一度自分なりに考えたことがある,JPEGの圧縮ノイズ:アーティファクトがひとつの特徴である写真集『jpegs』を出したトーマス・ルフと,新津保建秀のデスクトップのスクリーンショットを巧みに入れ込んだ写真『\風景』が取り上げられており,この特集のなかでこれらがどんな風に扱われているのかなという興味があった.
jpegs→GIFの質感:ポスト・インターネットから考える画像形式_発表ノート(Google documentへ) \風景→『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ
トーマス・ルフの方は,インタビューのなかで「jpegs」シリーズに少し触れられている程度で,あたらしく得たことはなかった.
新津保さんの方は作品が再構成されて掲載されており,再構成版の最後には複雑系研究者の池上高志さんのテキスト「\写真=写真」と美学研究者の星野太さんの「情報/欲望のアレンジメント」が載っており,とても勉強になった.
上記2つのテキスト読んで,自分が書いたテキストにツッコミを入れたもの →https://docs.google.com/document/d/1GXQgGs2ei0GznVwPry8Useo6RJjWFJmo05qXZL6pL8E/edit
星野さんの写真に写っているものへの詳細な読みに対して,私は写っているものの細部はほとんどどうてもいいといような態度であったことに気付かされた.「\風景」の最初の写真はGoogle マップのものだが,私はその写真が「Google マップのスクリーンショット」であるというだけで,意識が「ネット」と「デスクトップ」と「写真」とのあいだを行き来するようになって,この写真集は「おもしろい」と思っていた.星野さんのテキストを読むまでは,そのマップが「不審者情報マップ」であることを知らなかった.星野さんは「不審者情報マップ」という言葉から,このスクリーンショットに折り重ねられた複数の視線を読み解いていくのであるが,私にとってそれは「Google マップのスクリーンショット」…

講義ノート:「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」

今年度も東京藝術大学の芸術情報センター(AMC)で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています.

講義ノート:「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」

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講義後に思ったこと
DJプリプリ=金太郎が[インターネット アート これから]展のなかで,もっともポスト・インターネット的な作品ではないのか?アーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトでの「オブジェクト」は,最小限の意味しかもたないように作られた存在なのではないのか?Google,Facebook,Twitterを考えてから,Tumblrを改めて考察すると何が見えてくるのか?

アーティ・ヴィアーカント,デジタルネイティブ・アーティスト?

自分のことは「ネットアーティスト」ではないと言い,自らの作品を語るときに「ニューメディア」という言葉を使わないアーティ・ヴィアーカント.そんな彼は「デジタルアーティスト」「デジタルネイティブ・アーティスト」と雑誌やウェブで紹介され,作品は「ソフトウェアによるアート」と呼ばれたりする.


こういったところに,インターネットが当たり前になった世代と,インターネットを特別だと思う世代のちがいを見ることができるかな.そんなアーティの紹介をしようと思ったのだけれど,イマイチ上手く書けそうもないので,講義で使ったノートから転載.
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イメージ・オブジェクト
アーティストのアーティ・ヴィアーカント(1986-)が提唱The Image Object Post-Internet (11ページのテキスト)ポスト・インターネット文化におけるイメージとオブジェクトの現代的関係に対してのアートからの提案と批評ポスト・インターネットとは,遍在する作家性,評価経済の発展,ネットワーク文化の物理空間の崩壊,デジタルマテリアルによる無限の再生産と可変性によって定義される.
「イメージ・オブジェクト」は実際に展示会場の壁面に設置されたレリーフ状の彫刻と,それを撮影し,画像編集ソフトで編集/改変したいくつかの画像のバリエーションから構成される作品だ.(from ポスト・インターネット会議) Artie Vierkant の展示に対するBrian Droitcour のテキスト:Photo Op (artforum_march2012) 言説・思想ではなくソフトウェアによるアート「デスクトップ」「ウィンドウ」というメタファーを超えて,インターフェイスの裏側のテクノロジーのロジックへ. L Magagine:知っておくべき5人のアーティストに選ばれるデジタル・アーティストオンライン・オフラインで作品が見られることを意識インターネットで誰でも作品を見ることができて,保存することもできて,どこにでも再投稿できることに興味があるプレ・プロダクション,プロダクション,ポスト・プロダクションの区別はない自分は「ネット・アーティスト」ではない IMAGE OBJECT at Foxy Productionデジタル時代におけるイメージとオブジェクトとの関係を考えるFile as Form: Artie Vierkant&…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_1

記事を書きました→ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで「Born in 1987」展開催
メディア芸術カレントコンテンツ」というところで,記事を書かさせてもらえることになりました.ポスト・インターネットやインターフェイス関連の面白い記事を書いていけたらいいなと思っています.
1発目は,GIFアニメのプロジェクトについての記事を書きました.プロジェクトのために書かれた2つの記事の紹介がメインです.とくに写真研究科のダニエル・ルビンスタインさんのテキストは,GIFと写真を絡めたもので,おもしろいです.
また,「Born in 1987」に関しては,CBCNETのブログ記事:フォトショップファイルのオンライン展「THE .PSD SHOW」や GIFアニメーションの「BORN IN 1987」でも紹介されています.


お仕事:Theme Graphics「ヒューマンインターフェースの進化」の監修をしました

TELESCOPE Magazine の特集「ヒューマンインターフェース」のイントロダクションにある Theme Graphics「ヒューマンインターフェースの進化」の監修をしました.

ヒューマン・インターフェイスのプロダクトの流れだけでなく,そこでのヴィジョンの流れや影響関係を記したものになっています.この年表でヒューマン・インターフェイスの大まかな流れは掴めるものになっていると思います.

今回の特集は,暦本純一さんと真鍋大度さんというナイスな組み合わせの対談やテリー・ウィノグラード氏のインタビュー(8月公開予定),そして,とても刺激的なアイデアをもっているインタラクション研究者の渡邊恵太さんのテキスト「iPhoneはなぜ気持ちがよいのか:身体性とインタラクションデザインの世界」などなど,とても盛り沢山のものなっています.

また,渡邊さんのテキストは「カーソル」をめぐる考察でもあるので,私にとってはとても興味深いものでした.

私のテキスト「ヒューマンインターフェースの歴史」も8月公開予定です.

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_04

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03」に対して,自分でツッコミを入れる→こちら
「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」に対して,自分でツッコミを入れる→こちら
ツッコミを入れつつ,インターネットを「理念」ではなく「生活」レベルで改めて考えることが「ポスト・インターネット」なのではないかということを考えた.そして,今回の展示は「生活」レベルのなかでの「理念」の部分を扱っていたのかということも考えた.これは,トークのなかでドミニク・チェンさんが「モバゲーは扱わないのか」という問いで示していたこととも通じると思う(いや,「理念」というものではなく,扱う対象の違いというだけのような気もする).
ICCを作り上げてきた人たちは,インターネットを「理念」として考えてきた.けれど,それが当たり前になったときに,改めてネットを考えると「理念」とはズレた存在になっている.だから,「いや,違ったよねー」という感じで,頭を掻きながら,改めて考えてみようという感じで,インターネットを再び考えるという姿勢をもつこと.それはICCが行なってきたこれまでの展示,特に「電話網のなかの見えないミュージアム」と「アート.ビットコレクション」との対比が必要と感じた.と同時に,ICCで展示を行なっていること自体が再び「理念」になって,生活のなかのネット(モバゲーなど [ここで「など」と書いている時点でズレている])とはズレているということも,頭を掻きながら,「いやー,ズレているかもしれないねー」という感じで考えないといけない.
さらに,《ゴット・イズ・デット》の方で「ヒトにとってネットは本質的に何が起こるかわからない「不穏」な存在なのではないだろうか」というところに とりあえず「今のところは」というべきか.いずれは,ある程度は予測できるという「現実」に近いものになる. いや,ネットのほうがすべて「作り物」なのだから,より予測できるはずというか,今でもそうなのか,ということになるけれども,アトムにはアトムの,ビットにはビットの法則があるとすると,アトムに属しているヒトには,ビットの法則はわからないまま,少しづつ,それに従っていくしかないということかもしれない. というコメントを書いているときに思い出して,脳内で参照していたのが,「ビット知らずと世間知…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_01」に対して,自分でツッコミをいれる→こちら

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_02」に対して,自分でツッコミをいれる→こちら

自分が書いたものにツッコミを入れつつ,行きつ戻りつしながら[インターネット アート これから]を考え中.

ツッコミでも「単体」と「群体」とのことを考えていて,そのリンクを張って,ブログをアップしてしまおうと思ったところで,ふと思い浮かんだのが,国立国際美術館での「世界制作の方法」展でのエキソニモの作品《ゴット・イズ・テッド》.これはポスターという「紙」を素材にした作品.暗闇のなかに一枚のポスターがスポットライトで照らされていて,それは映画のポスターのようにデザインされていて,公開日を示すような「日付」が書いてある.そして,私はこの展覧会を2回見に行ったのだが,「日付」は2回とも異なっていた.ポスターのデザインは変わらないけれど,そこに書かれている「日付」は一日ごとに変わっていたと思われる.

となると,鑑賞者が見るポスター一枚一枚は「単体」であるが,作品としてポスターはもともと「群体」となるように設計されていたことになる.私は以前,この作品を「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」というタイトルで考察していた.そこにこんなことを書いていた(そして,そのことをすっかり忘れていた).

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う. なんとなくではあるが,ここに「単体」と「群体」ということで「インターネット アート これから」及び,ポスト・インターネット界隈の作品を考えていくことの「きっかけ」があるような気がする.

連想の流れのままに…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_02

前のメモで,「群体」という言葉を書いたけれど,ウェブは「もっと,もっと,もっと」とデータを求めているような気がする.『閉じこもるインターネット』には,グーグルに関する以下のような指摘がされている.
グーグル神話において,世界の頂点に上りつめた要因はページランクだとされている.これは,そういうことにしたいとグーグルが考えた結果ではないだろうか.創業者の一方が実現した天才的なひらめきが検索大手の成功をもたらしたとしたほうがシンプルでわかりやすいからだ.しかし当初より,ページランクはグーグルのプロジェクトのごく一部を占めていたにすぎない.ブリンとページがみつけたことの肝は違う───関連性で鍵を握るもの,ウェブにある大量のデータを整理するソリューションとは……もっと多くのデータであるという認識だ.(p.46) 「もっと多くのデータ」 を,ウェブは求め,グーグルも同じように求める.そしてデータとデータとの関連性を見つけ出して,繋いでいく.単体としてのデータがあつまり,ひとつのクラスターとなって,あたらしい意味を持つようになる.今流行の「ビッグデータ」というものになるのでしょうか.


『閉じこもるインターネット』では,データがまとまっていく側面をウェブを使うユーザの立場から考察して,個人に関するデータが集まると,ウェブのパーソナライゼーションがおこると指摘される.その結果,ウェブは匿名の空間ではなくなり,いつでも「あなた」と名指されるような空間になるとされる.


と,『閉じこもるインターネット』のことが書きたいのではなくて,データが「もっと,もっと,もっと」と増殖していくなかで,GIFアニメも「もっと,もっと,もっと」と増殖していく.グーグルが増え続けるデータの流れを整えたように,GIFアニメの流れをタンブラーが整えたとは考えられないだろうか.いや,タンブラーという流れができたから,増殖していたGIFアニメに流れが生じたというべきだろうか.流れにのったGIFアニメは,流れのなかで次々に増殖していく.


GIFアニメとタンブラーのことは書きたかったけれど,「データの増殖から群体へ」ということでメモしておきたかったのは,[インターネット アート これから]でのエキソニモの《祈》の増殖だった.この作品は最初「ゴットは存在する。」という連作のひとつとして展示されていた.そのときは,単体だった.そ…