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3月, 2012の投稿を表示しています

メモ:ピクセル ループ フラッシュ

発表タイトル GIFの質感:「ポスト・インターネット」から考えるメディアとしての画像形式  概要  インターネットが当たり前になった現在,オンライン/オフラインを特に意識することなくこの間を自由に行き来して作品を制作する作家が多く現れてきている.「ポスト・インターネット」と呼ばれるこのような状況のなかで,画像形式のひとつであるGIFが問題となっている.本発表ではGIFを巡る言説を整理し,その意味を問いたい.そして,画像形式が「メディア」となりうるのかを考えたい. と言うような発表を,今年の映像学会でしようと思っています. それで,ちょっと関連するかなというテキストを少し読んでみました.
はじめに読んだのは.Pixel, Graham Harwood in Software Studies: A Lexicon  です.これは「ピクセル」に関する解説なのですが,世界をピクセル化するときには,世界を区分けして,そこを評価して,それをソートすることが起こり,それはデータとアルゴリズムとのあいだで生じる.そして,ピクセル化の究極の目標は目の前のものを,そっくりそのまま再現することでもあるとも書いてあります.
となると,JPEGとGIFといった画像フォーマット自体がアルゴリズムであるから,ピクセルにいたるまでに,フォーマットにおける「価値」が生じている.どちらも究極的な目標である,世界の再現を目指しているとしても,そこにはアルゴリズムのちがいによって,異なる価値が生じている.ポスト・インターネットという言葉で語れる作家たちは,そのちがいを感じて,表現へと持ち込むことができるということなのかもしれない.
次に,レフ・マノヴィッチの The Language of New Media のなかのひとつの節 new temporality: the Loop as a Nrrative Engineを読んだ.これはGIFアニメーションのループを考えるめ.マノヴィッチのループは,QuickTimeのことなのですが,ヒントになるかなと思って読んだわけです.マノヴィッチは,メディアの初期の頃には必ず「ループ」という形式が出てきていることに注目しています.それらは主に記憶容量の問題で,ひとつの作品が短いので,ループにせざる得なかったということです.マノヴィッチは「ループ」を物語を語るため…

イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力_コメント

講義のために,以前書いたテキスト「イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力」を自分でコメントをつけながら読むということをした.何もないところから考えるよりも,きっかけがあるほうがやはりはかどります.ちょっと前の自分からほとんど考えが「成長」していないなということもわかってしまいますが…

これがその結果(誰でもコメント可になっています)
https://docs.google.com/document/d/1qXgtF13a2Un8udYQ173IufvdBtPGyQkMINei7c-ynz8/edit

以下はコメントの抜き出し.

僕たちはもう「100回」もの寝返りをしたのだろうか.試行錯誤の段階を超えたのだろうか.あたらしい身体になることを目指しているのだろうか.記憶の外部化だけではなく,行為の外部化も起きているのではないだろうか.行為を外部化した結果,そこにあるのはグレゴールのような「虫」の身体なのではないだろうか.「虫」は「怪物」と呼ばることになる.
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ここには「コントロールできない身体」がある.長い年月をかけて親しんできた身体を手放した結果が「コントロールできない身体」となる.ラニアーはどんなアバターでもすぐに慣れてしまうということも言っている.どちらなのだろうか.


人というのは,自分とはまったく違う,おかしな体にもすぐに慣れ,その体で仮想世界を楽しめるということがわかったのだ.では,体をどこまでおかしくしたら精神がついてゆけなくなるのだろうか.そう思ったので,手足を大きくしたり変な物を手足にしてみたり,いろいろと実験をしてみた.傑作はバーチャルロブスターだ.ロブスターは体の両脇に三本ずつ,小さな腕を持つ.人間の体にも同じような腕があれば,その動きを測定して制御すればいい.(p.325)
人間はガジェットではない:IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言,シャロン・ラニアー
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ポスト・ヒューマン的な観点だといえる.徐々に進行する行為のポスト・ヒューマン化.では,タッチはどうなのか? 以前から考えているように,タッチはヒトの手のカーソル/マウス化であって,ここでの「タッチ」はヒトに固有のものではない.
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ヒトにない器官への想像力をもつことが重要.自分では理解できない器官,運動能力など「わからない」というところからはじめること!
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「イメージ・オ…

君と僕とインターネット!

昨日,Twitterを見ていたら,バンクシーの映像が限定公開ということで見た.これはこれで面白かったけれど,見終えて,またTwitterをみたら,ちょうどバンクシーの映像を見始めたときぐらいから,インターネットのゴット,センボーさんも参加しての「君と僕とインターネット」の第2部が始まっていたらしい.諸般の事情でiPhone片手に「君と僕とインターネット」を見始めたときには,もう終盤.jepg はヒトをバカにしているとか,gifは完全に制御できるとか,拡張子差別とか,もう面白くて,興味深い言葉が連発でした.最初から見たかったと悔やみつつ,文字おこしして参照資料にしたい! この番組に集まった人たちの言葉というのはまったく資料になっていないので,このあたりの「感覚」を狩猟していくようなことをしていくことは,インターネットを考える上でとてもとても重要だと考えています. というようなことをmemoに書いた.「画像形式」ということに関する感覚を集めていくことで,「インターネット」と一言で言われる大きなメディアのなかでの大きな物語を,SNSなどの「つながり」メインではない形で示すことができるのではないかと思う.gifとかjpegがインターネットで使われている以上,その前提には「コミュニケーション」ということがあって,「つながり」という目的に奉仕していることは確かなのだけれど,それでもこれらの画像形式を考えることで,今までは異なるかたちでインターネットのあり方を提示できると思う.その意味でも,昨日も含めて継続的にこのような話をしてくれている「君と僕とインターネット」(←CBCNETくりたさん(@yskkrt)とハギワラさん(@hgw)がだらだらと、最近のトピックやゲストをお呼びしての飲み会ustラジオ)は素晴らしいと思う.

Petra Cortright わからない まあいいか!

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Petra Cortright は1986年生まれ.まったく意味がわかりません.彼女のページにいくと,延々と下にスクロールしないとならないけれど,それには何の意味もなくて,ただ「↓」に従って,下にスクロールしていくだけ.と思ったら,スクロールは勝手にしてくれていた! 

Petra はウェブカメラで自分のことを撮影して,そこにカメラ付属のデフォルトの効果を入れた映像を YouTube に投稿した作品《VVEBCAM》2007 で有名になったみたい.けれど,その作品は YouTube に削除されてしまっている.作品自体は,Rhizome で見ることができます.そこに解説があって,ウェブを見ているときの私たちの受動的な態度を...ということが書いてありますが,そんな説明をされても,やはりよくわからない.YouTube から削除されたのは,Petra がこの作品につけたタグが
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