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4月, 2012の投稿を表示しています

『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ

新津保建秀さんの写真集『\風景』を眺めた.ざわついた感じがした.そのざわつきをいつかまとめるためのメモ.

\風景とは,風景の持つ本来の意味を無効化する.無効化すると言うことに「強い」感じがしている.この強い感じが,new jpegsと違うのかもしれない.new jpegsは,もっと投げている感じがある.どこかへ投げてしまうようなこと.

でも, \風景もどこにいるのかわからなくなるような感覚がある.デスクトップで「風景」を見ること.これが風景の無効化につながる? 

デスクトップの風景には,今までの風景とは異なる情報が多くある.ウィンドウの情報 ファイル名 拡張子jpeg ping raw デスクトップの青さ もう一つの風景.写真家が見ている風景. スクリーンショット.スクリーンショット /デスクトップの重なりによる風景の多重化.けれど,ウィンドウの枠を隠してしまえば,ただの風景に見える.そして,写真をめくっていくと,いくつかのページは「ウィンドウ」を隠して構成されているのではないかと,勝手に思ってしまう.

風景の多重化.これも一つのきっかけかもしれない.風景のバージョン化.ウィンドウの枠や,その他デスクトップから読み取れる情報.写真をめぐるメタデータがそこに記されている.そこに意識が強く向かう人と,そうではない人がいるだろう.しかし,メタデータがあることで,意識するにしてもしないにしても,何かしらブレが生じる.

写真集を見ている時の感覚のブレ.風景を見ているのかテスクトップを見ているのか.ここにデスクトップと言う選択肢が出てくることによって新しいブレが生じているのではないだろうか.それはおそらく藤幡さんが言っていた3つの空間ということとも関係しているのであろう.

コンピュータ・ディスプレイ上の写真イメージは,画面内の特定の場所にしか表示されないわけではなく,画面内の自由な位置に置くことができる.イメージとディスプレイのピクセルは一対一対応する必要がない.見ている対象であるディスプレイ・メディアと,その内部に表示されているイメージは,写真の印画紙のように,一対一対応している必要がない.コンピュータの内部に仮想の空間があることを理解しなくてはならない.つまり,現在のわれわれは,現実空間,仮想空間,イメージの空間という三重の空間を,無意識のうちに行き来しているのである.(…

「The EyeWalkerの制作にあたって」を読む

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http://www.yomiuri.co.jp/stream/onstream/exonemo.htm
先日,エキソニモの千房けん輔さんが恵比寿映像祭のページに「The EyeWalkerの制作にあたって」というテキストを書いていた.上の画像は,そこでリンクが貼られているYomiuri Onlineでのエキソニモへのインタビュー映像からです.映像とともに作品の解説がされていて,また「ポスト・インターネット」とも言える,私たちへのネットの影響も語られています.
テキストを読んで,映像を見ながら,山口でも一度体験したことがある《The EyeWalker》をもう一度考えてみようと思いました.エキソニモの言葉から改めてこの作品を考えてみるといったことです.
山口で一度作品を体験した私はこの作品について,「ちょっと手前」ということを考えたらしい(→視線|フォーカス|意識:エキソニモ《The EyeWalker》から考えたこと).画面を見ているのだけど,うまく操作できないという感じで,「ちょっと手前」ということを書いていた.私が「ちょっと手前」と考えていた感覚を,千房さんは次のようにクリアに書いてくれています. このEyeWalkerシステムでは,画面の風景の中に,四角いポインターが表示され,そのポインターを視線で操作するのですが,ポインターが画面に乗っていると,背景の映像が「見れなく」なってしまうのです.実際に見えなくなるのではなくて,意識が見なくなってしまう.ポインターがあるだけで,それは映像ではなくて“インターフェイス”になってしまうのです.「見る」ことが「操作すること」に無意識の内にすり替わってしまい,ちゃんと画面の向こう側を感じなくなってしまうのです. 画面の中に「ポインター」や「カーソル」といった,これは恐らく自分の動き・意志と連動する(と認識することができた)画像が表示されていると,そこではもう「見る」ことの他に「操作する」という意識が入り込んでくる. それは強制的に入り込んできます.この文章を読んで,作品を体験している時,確かに「ポインター」が出た後は,それを動かすことだけに意識を集中していたことを思い出したし,インタビュー映像の中でも意識することなく,四角い「カーソル」を眼が追っていることに気づかされます.

「見る」と「操作する」の意識のすり替えは普段か…

メモ:《グラフィティ@グーグル》について

超群島」展に行ってきた.そこでチームラボの《グラフィティ@グーグル》を見てきた.もちろん他にも作品はあったわけですが,自分の関心から断然この作品が面白かった.グーグルの画像検索システムを「利用」して,そこに「絵」を書いてしまおうという作品です.詳しい説明は,チームラボのページに書いてあります.そのページには,「紙」から「グーグル」へのメディアの変化ということも書かれています.グーグルが「メディア」かどうかは考える必要がありますが,画像「検索」には画像が多く表示されるのだから,そこに「絵」を描いてしまおうという発想はとてもおもしろいです.「検索」で「絵を描く」という行為をつくりだしているのではないでしょうか.ということは,この作品はヒトが様々なメディア及び道具を使って行なってきた「描く」という行為に,あたらしく「検索」という行為を付け加えたと考えられます.「検索」が「メディア」なのか,「道具」なのか,果ては「行為」なのかは,まだよくわかりません.ですが,それら3つが分離していなくて,検索はメディアであり,道具であり,行為なのだと考えるのが,私には一番しっくりきます.

この作品は,上の映像にもあるようにいくつかのバリエーションがあるのですが,それらのグラフィティの表示以上に,「Art Work 6:日記,Art Work 7:グラフィティ@グーグルでわかったこと」というふたつのテキストが興味深ったです.これらは単にグーグル・ドキュメントで書かれたテキストがスクロールしているだけなのですが,「日記」には「グーグルの気持ちになる」とか,グーグルを知るためにグーグルについて書かれた本を読んだりしながら,画像検索のアルゴリズムと格闘している「中の人」の苦闘と思考が書かれています.このテキストを読んでいると「新種の感情」というか,あたらしい思考の仕方がでてきているような気がしてきてます.「思考の仕方」というよりは,あたらしい「思考の対象」と言ったほうがいいのかもしれません.私たちが普段何も考えずに使っているグーグルの画像検索のアルゴリズムを「思考の対象」とすることから生じる感情や思考の流れが「日記」に記録されている.「検索エンジン最適化」という業種の人たちはこういった頭の使い方をしているのかもしれない.こういった頭の使い方は,文章を書く,絵を描くとは異なったものだと思われるの…

ふたつのマウスとふたつのカーソル

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Googleのエイプリルフールは,Chromeのマルチタスク・モード.マルチタスクを行うために,カーソルが2個になり,4個になり,8個になり,巨大マウスカーソルまで現れます(カーソルについて考えているはずなのに,「カーソル」を「マウス」と書いてしまった.訂正します).

確かに,カーソルは画面上にひとつしかないものですが,別にひとつでなくてもいいわけです.説明の動画にもありますが,ヒトは手の50%しか使っていません.それだったら,マウスをふたつにして,カーソルをふたつにして,手をフル活用することも考えられるわけです.


マウスの開発者のダグラス・エンゲルバートは,マウスを使うとキーボードから片方の手が離れるからといって,片手で打てる五本指用のキーボードを開発したり,足でカーソルを操作できる装置も作ったりしています. 「情報哲学」のルチアーノ・フロリディは,情報技術はコペルニクス(地球が宇宙の中心ではなくなった),ダーウィン(ヒトが動物に対して特別ではなくなった),フロイト(ヒトは自分のことすらすべてをしらないことが明らかになった)に続く,「第4の革命」を引き起こしているといいます.それはヒト中心ではなく,情報との相互作用が重要になるということです.そこではヒトという存在のあり方が変わってきているとします.その後で,例として出されるのが,上にとり上げたダグラス・エンゲルバートのお話です.
情報と相互作用するために,ヒトはひとつのマウスとひとつのカーソルを使うようになった.けれど,そこでヒトとコンピュータとの相互作用は終わりでありません.フロリディがヒトとコンピュータのインタラクションは対称(symmetric)な関係だと言い,エンゲルバートがヒトとコンピュータの共進化と言っているように,ヒトがマウスを使うようになったのであれば,今度はそれにともなって,次にコンピュータも変わっていくのです.今回は,Chromeのマルチタスク・モードでふたつのマウスとふたつのカーソルというかたちになったわけです.エイプリルフールですが…