投稿

6月, 2012の投稿を表示しています

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_01」に対して,自分でツッコミをいれる→こちら

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_02」に対して,自分でツッコミをいれる→こちら

自分が書いたものにツッコミを入れつつ,行きつ戻りつしながら[インターネット アート これから]を考え中.

ツッコミでも「単体」と「群体」とのことを考えていて,そのリンクを張って,ブログをアップしてしまおうと思ったところで,ふと思い浮かんだのが,国立国際美術館での「世界制作の方法」展でのエキソニモの作品《ゴット・イズ・テッド》.これはポスターという「紙」を素材にした作品.暗闇のなかに一枚のポスターがスポットライトで照らされていて,それは映画のポスターのようにデザインされていて,公開日を示すような「日付」が書いてある.そして,私はこの展覧会を2回見に行ったのだが,「日付」は2回とも異なっていた.ポスターのデザインは変わらないけれど,そこに書かれている「日付」は一日ごとに変わっていたと思われる.

となると,鑑賞者が見るポスター一枚一枚は「単体」であるが,作品としてポスターはもともと「群体」となるように設計されていたことになる.私は以前,この作品を「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」というタイトルで考察していた.そこにこんなことを書いていた(そして,そのことをすっかり忘れていた).

エキソニモの《ゴット・イズ・デット》には「インターネット」という「もうひとつのリアル」がそこにある存在として示されていたような気がする.「ネットは広大だわ」という草薙素子のつぶやきがしめすような茫漠とした拡がりと,そこを占めることになった猥雑で雑然とした感覚.どこまでも広がる茫漠した論理空間.それは今まではとてもクールで無機質なものとして現れていたけれど,それは今では雑然としたリアルの延長となっている.広大な論理空間と雑然とした生活空間という矛盾するふたつの空間の同居という要素が,《ゴット・イズ・デット》という作品の中にはあると思う. なんとなくではあるが,ここに「単体」と「群体」ということで「インターネット アート これから」及び,ポスト・インターネット界隈の作品を考えていくことの「きっかけ」があるような気がする.

連想の流れのままに…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_02

前のメモで,「群体」という言葉を書いたけれど,ウェブは「もっと,もっと,もっと」とデータを求めているような気がする.『閉じこもるインターネット』には,グーグルに関する以下のような指摘がされている.
グーグル神話において,世界の頂点に上りつめた要因はページランクだとされている.これは,そういうことにしたいとグーグルが考えた結果ではないだろうか.創業者の一方が実現した天才的なひらめきが検索大手の成功をもたらしたとしたほうがシンプルでわかりやすいからだ.しかし当初より,ページランクはグーグルのプロジェクトのごく一部を占めていたにすぎない.ブリンとページがみつけたことの肝は違う───関連性で鍵を握るもの,ウェブにある大量のデータを整理するソリューションとは……もっと多くのデータであるという認識だ.(p.46) 「もっと多くのデータ」 を,ウェブは求め,グーグルも同じように求める.そしてデータとデータとの関連性を見つけ出して,繋いでいく.単体としてのデータがあつまり,ひとつのクラスターとなって,あたらしい意味を持つようになる.今流行の「ビッグデータ」というものになるのでしょうか.


『閉じこもるインターネット』では,データがまとまっていく側面をウェブを使うユーザの立場から考察して,個人に関するデータが集まると,ウェブのパーソナライゼーションがおこると指摘される.その結果,ウェブは匿名の空間ではなくなり,いつでも「あなた」と名指されるような空間になるとされる.


と,『閉じこもるインターネット』のことが書きたいのではなくて,データが「もっと,もっと,もっと」と増殖していくなかで,GIFアニメも「もっと,もっと,もっと」と増殖していく.グーグルが増え続けるデータの流れを整えたように,GIFアニメの流れをタンブラーが整えたとは考えられないだろうか.いや,タンブラーという流れができたから,増殖していたGIFアニメに流れが生じたというべきだろうか.流れにのったGIFアニメは,流れのなかで次々に増殖していく.


GIFアニメとタンブラーのことは書きたかったけれど,「データの増殖から群体へ」ということでメモしておきたかったのは,[インターネット アート これから]でのエキソニモの《祈》の増殖だった.この作品は最初「ゴットは存在する。」という連作のひとつとして展示されていた.そのときは,単体だった.そ…

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_01

しばらくのあいだ,【[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ】を行きつ戻りつしながら書いていきたいな,と思っています.
そう思ったのは, 展示自体への批判・意見がネット上にあまりないので,自己批判しながら展示を改めて考えてみたくなったから. そして,これから公開されていく「座談会」のテキストが,とても刺激的だから. あと,継続的に考えていくことが大切だと思ったから.以上です. −− 「ホワイトキューブ」ではないリアリティーとして[インターネット アート これから]を考えてみる.
「ホワイトキューブ」での作品が,主に「単体」として鑑賞されるのに対して,作品ではなく「作品群」をひとつの「群体・クラスター」として鑑賞するような仕組みを仕掛けるのが「インターネット・リアリティ」のもとでの展示のあり方かもしれない.例えば,new jpegs.「作品群」と書いたけれど,これは複数の作品でも,ひとつの作品における展開(リアルな展示,ネットへの記録写真,ネットでの画像流通など)でもよい.
単体でもなく 媒体でもなく 群体で考えること (ここは言葉だけが浮かだ状態.何も確証はないけど,「なんかいいかな」と思っています)
自己批判として, [インターネット アート これから]は単体的な作品で勝負してしていた? それゆえに「インターネット・リアリティ」が前面にでなかったのか?
そうかもしれないと思いつつ,以下のように考えてみたい. 「インターネット・リアリティ」の前に「デスクトップ・リアリティ」があると考えてみる.デスクトップからインターネットへとリアリティが移行する.
[インターネットアートこれから]が示していたのは,「デスクトップ→インターネット」へとリアリティが移行する,その「→」の部分だったのではないか?
この「→」を生じさせるためには,「デスクトップ・リアリティ」でヒトとコンピュータのあいだの「情報の流れ」を,ある程度確立させることが重要だったと考える.(この情報の流れと関係するのが秋庭美学のなかのハーネスの思想ではないか→以前考えたこと
[インターネットアートこれから]の作品は,ヒトとコンピュータのあいだの「情報の流れ」を撹乱する,もしくは,より鮮明に見せることで「作品」となっている.しかも,そこでの「情報の流れ」は,これまでのメディアアート…

紀要論文 身体|複合体|四人称:ヒトとコンピュータとの関係に関する試論

非常勤でお世話になっている名古屋芸術大学の研究紀要に「身体|複合体|四人称:ヒトとコンピュータとの関係に関する試論」という論文を書きました.
はじめに
 現在,コンピュータは至る所に存在し,多様な使われ方をしている.もう誰もヒトとコンピュータとの関係など考えることがないくらいに,コンピュータは当たり前の存在になっている.そのような状況の中で,コンピュータと向かい合うヒトはヒトであり続けることができるのであろうか.ヒトは自らが作り出した人工物であるコンピュータとの融合を通して,今までとは異なる存在になりつつあるのではないか.以上のことを身体,複合体,人称という3つの項目から考えていきたい.
紀要で手に入りづらいので,PDF です.もし興味があって,時間もたっぷりあるという人がいたら,ご利用ください.


講義ノート:「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」

今年度も東京藝術大学の芸術情報センター(AMC)で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています.

講義ノート:「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」

−− 講義後に考えたことのメモ
マウスとカーソルという組み合わせは,ヒトがコンピュータと触れ合うための「最小限の干渉」なのではないかということ.画面上のある「1点」を指し示すために,手の自由度を制限するのがマウスという道具.
そして,「最小限の干渉」というところが,秋庭史典さんの『あたらしい美学をつくる』にでてくる「ハーネスの思想」と通じるところがあるなと思っています. 一般に,ハーネスということばは,馬の遮眼帯などのように,自然の力をうまく利用して(当の自然に苦痛を与えることなく),人間に有用な流れに自然を導く,という意味があります.(羊の群れを追い込む羊飼いになぞらえて「シェパーディング」,あるいは流れを導くという意味で「ガイダンス」という言葉を使うこともあります.)それは,最小限の人為(人工物,たとえば遮眼帯)の投入により,自然のシステムを動かし,動き始めた自然のシステムが今度は人工物を含めた自然の全体を動かしていくことを目指したものなのです.(p.155) マウスとカーソルも最小限の人為によって,ヒトとコンピュータとのあいだの情報の流れを整える.マウスを開発したエンゲルバートは,この干渉をまさに「最小限」のものだと考えていて,更に「干渉」する道具を開発することで,よりヒトとコンピュータとの関係が進化すると考えたけれど,結局,マウスとカーソルの干渉が「最小限」であるがゆえに,エンゲルバートの思惑を超えてしまった.

このときにヒトがマウス・カーソルを開発したと言えると同時に,コンピュータがヒトの介入を最小限するにするためにこのモノとイメージとの組み合わせを利用したと考えることができるのではないか.

また,「情報の流れ」「最小限の干渉」ということを考えていると,JPEGやGIFなどが作っていた情報の流れに,最小限の干渉として「リブログ」を備えたtumblrが出てきたのではないかとも考えた.これは残りの講義で考えていきたいところ.

また,講義をしながら[インターネ…

映像学会+IDPW

先週の日曜日,6月3日に日本映像学会第38回大会で「GIFの質感:「ポスト・インターネット」から考える画像形式」という発表をしてきました.発表前にbufferを使って,自分で自分の発表をtsudaる仕込みをするということなどもしました.
発表資料:GIFの質感:ポスト・インターネットから考える画像形式_発表ノート toggetter:水野勝仁さんの発表「GIFの質感:「ポスト・インターネット」から考える画像形式」(「edtion1」さんのまとめ,ありがとうございます)
反省:タイトル通り「GIF」に限定するべきでした.JPEGも扱ったために盛り沢山すぎました.
収穫:大学院時代の先生から,トーマス・ルフの《jpegs》までは正統的な感じで理解できるのだけれど,「nes jpegs」になるとよく分からないと言われたこと.GIF全般のムーブメントも含めて,以前の画像の歴史とは「断絶」があると思っていたので,先生からこう言われて「断絶」は確かにあると思えました.
もうひとつの学会での収穫は,基調講演での阿部一直さん(山口情報芸術センター:学芸課長、チーフキュレーター、アーティスティックディレクター)の以下の言葉.

「インタラクティヴィティとは何に対するインタラクションか」 知覚されるオブジェクト? 空間? プログラム? コード? メディアプラットフォーム? アーキテクチャ? 疎外化される身体の回復?記憶? 他者との共有性への想像? メンタルエナジー?メディア的無意識? それ以外のまったく予期しないもの? インタラクションをメタレベルでデザインすることは可能か
GIFについて考えているときに,GIF自体とインタラクションしているのか,それともGIFを流通させるtumblrなどのアーキテクチャとインタラクションしているのか等など,「インタラクション」について考えていたので,この言葉にははっとさせられました.
映像学会での発表のあとは,IDPWささやかな会 #0000001 featuring "GIF" 6/3(sun)にゲストとして参加して,千房けん輔さん @1000b + 藤岡定さん @sadamb + 渡邉朋也さん @nabetanne とGIFについてお話しました.GIFやその周りのインターネット・リアリティについて考えてきたことを,実際にWeb制作や作品などでインターネットに…