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[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_05

講義やらなんやらで忙しくしていたら,頭の中から「インターネット・リアリティ」がどこかに飛んでしまっていた.頭の中からインターネット・リアリティが抜け出ていた.いや,そんなときにでもインターネットを使っているわけだから,リアリティのなかにいたわけだけれど,今改めて,そのリアリティの手触りみたいなことを考えようとすると,考えが進まない.

インターネット・リアリティのなかにいながら,そのリアリティのことを特に考えることをしなかったときのインターネットのことを今改めて考えてみたいのであるが,それが難しい.どこか言葉がインターネットを追い切れない.もともと追い切れていたわけではないけれど,今は全くと言ってほどインターネットのリアリティが遠い.

リハビリのためにインターネット・リアリティへの自分の感覚をだらだらと書いているけれど,自分のなかで意識が変わっていくということが,今のところない.なので,他の人の力を借りてみる.

情報美学概論が終わった後にふたりの学生さんと話していたときに印象に残った言葉をあとでメモったもの:

JEPGは敵,群体は危険.コンピュータのなかに身体を見てしまう.Googleグラフィティのなかのヒトの精神状態は,コンピュータのなかに入ってしまっている.ネットアートはあそび,ニコニコ動画のMADやニコ生に比べると豊か,余裕がある.客観視する余裕ということ.彼と彼女の言葉を頷きながら聞いていた.と書いても,このあとに何かを書くことができないでいる.一度離れた「インターネット・リアリティ」をまた手元に引き寄せるのは難しい.常にそのリアリティのなかにいるからこそ難しい. 

他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと

美術手帖の8月号の特集は「写真2.0:パラダイムシフトを遂げる写真環境」.特集内でトーマス・ルフや新津保建秀『\風景』が取り上げられていたので,久しぶりに美術手帖を買って読んでみた.写真自体には興味がないのだが,「ポスト・インターネット」という私の今の関心のなかで一度自分なりに考えたことがある,JPEGの圧縮ノイズ:アーティファクトがひとつの特徴である写真集『jpegs』を出したトーマス・ルフと,新津保建秀のデスクトップのスクリーンショットを巧みに入れ込んだ写真『\風景』が取り上げられており,この特集のなかでこれらがどんな風に扱われているのかなという興味があった.
jpegs→GIFの質感:ポスト・インターネットから考える画像形式_発表ノート(Google documentへ) \風景→『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ
トーマス・ルフの方は,インタビューのなかで「jpegs」シリーズに少し触れられている程度で,あたらしく得たことはなかった.
新津保さんの方は作品が再構成されて掲載されており,再構成版の最後には複雑系研究者の池上高志さんのテキスト「\写真=写真」と美学研究者の星野太さんの「情報/欲望のアレンジメント」が載っており,とても勉強になった.
上記2つのテキスト読んで,自分が書いたテキストにツッコミを入れたもの →https://docs.google.com/document/d/1GXQgGs2ei0GznVwPry8Useo6RJjWFJmo05qXZL6pL8E/edit
星野さんの写真に写っているものへの詳細な読みに対して,私は写っているものの細部はほとんどどうてもいいといような態度であったことに気付かされた.「\風景」の最初の写真はGoogle マップのものだが,私はその写真が「Google マップのスクリーンショット」であるというだけで,意識が「ネット」と「デスクトップ」と「写真」とのあいだを行き来するようになって,この写真集は「おもしろい」と思っていた.星野さんのテキストを読むまでは,そのマップが「不審者情報マップ」であることを知らなかった.星野さんは「不審者情報マップ」という言葉から,このスクリーンショットに折り重ねられた複数の視線を読み解いていくのであるが,私にとってそれは「Google マップのスクリーンショット」…

講義ノート:「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」

今年度も東京藝術大学の芸術情報センター(AMC)で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています.

講義ノート:「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」

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講義後に思ったこと
DJプリプリ=金太郎が[インターネット アート これから]展のなかで,もっともポスト・インターネット的な作品ではないのか?アーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトでの「オブジェクト」は,最小限の意味しかもたないように作られた存在なのではないのか?Google,Facebook,Twitterを考えてから,Tumblrを改めて考察すると何が見えてくるのか?

アーティ・ヴィアーカント,デジタルネイティブ・アーティスト?

自分のことは「ネットアーティスト」ではないと言い,自らの作品を語るときに「ニューメディア」という言葉を使わないアーティ・ヴィアーカント.そんな彼は「デジタルアーティスト」「デジタルネイティブ・アーティスト」と雑誌やウェブで紹介され,作品は「ソフトウェアによるアート」と呼ばれたりする.


こういったところに,インターネットが当たり前になった世代と,インターネットを特別だと思う世代のちがいを見ることができるかな.そんなアーティの紹介をしようと思ったのだけれど,イマイチ上手く書けそうもないので,講義で使ったノートから転載.
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イメージ・オブジェクト
アーティストのアーティ・ヴィアーカント(1986-)が提唱The Image Object Post-Internet (11ページのテキスト)ポスト・インターネット文化におけるイメージとオブジェクトの現代的関係に対してのアートからの提案と批評ポスト・インターネットとは,遍在する作家性,評価経済の発展,ネットワーク文化の物理空間の崩壊,デジタルマテリアルによる無限の再生産と可変性によって定義される.
「イメージ・オブジェクト」は実際に展示会場の壁面に設置されたレリーフ状の彫刻と,それを撮影し,画像編集ソフトで編集/改変したいくつかの画像のバリエーションから構成される作品だ.(from ポスト・インターネット会議) Artie Vierkant の展示に対するBrian Droitcour のテキスト:Photo Op (artforum_march2012) 言説・思想ではなくソフトウェアによるアート「デスクトップ」「ウィンドウ」というメタファーを超えて,インターフェイスの裏側のテクノロジーのロジックへ. L Magagine:知っておくべき5人のアーティストに選ばれるデジタル・アーティストオンライン・オフラインで作品が見られることを意識インターネットで誰でも作品を見ることができて,保存することもできて,どこにでも再投稿できることに興味があるプレ・プロダクション,プロダクション,ポスト・プロダクションの区別はない自分は「ネット・アーティスト」ではない IMAGE OBJECT at Foxy Productionデジタル時代におけるイメージとオブジェクトとの関係を考えるFile as Form: Artie Vierkant&…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_1

記事を書きました→ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで「Born in 1987」展開催
メディア芸術カレントコンテンツ」というところで,記事を書かさせてもらえることになりました.ポスト・インターネットやインターフェイス関連の面白い記事を書いていけたらいいなと思っています.
1発目は,GIFアニメのプロジェクトについての記事を書きました.プロジェクトのために書かれた2つの記事の紹介がメインです.とくに写真研究科のダニエル・ルビンスタインさんのテキストは,GIFと写真を絡めたもので,おもしろいです.
また,「Born in 1987」に関しては,CBCNETのブログ記事:フォトショップファイルのオンライン展「THE .PSD SHOW」や GIFアニメーションの「BORN IN 1987」でも紹介されています.


お仕事:Theme Graphics「ヒューマンインターフェースの進化」の監修をしました

TELESCOPE Magazine の特集「ヒューマンインターフェース」のイントロダクションにある Theme Graphics「ヒューマンインターフェースの進化」の監修をしました.

ヒューマン・インターフェイスのプロダクトの流れだけでなく,そこでのヴィジョンの流れや影響関係を記したものになっています.この年表でヒューマン・インターフェイスの大まかな流れは掴めるものになっていると思います.

今回の特集は,暦本純一さんと真鍋大度さんというナイスな組み合わせの対談やテリー・ウィノグラード氏のインタビュー(8月公開予定),そして,とても刺激的なアイデアをもっているインタラクション研究者の渡邊恵太さんのテキスト「iPhoneはなぜ気持ちがよいのか:身体性とインタラクションデザインの世界」などなど,とても盛り沢山のものなっています.

また,渡邊さんのテキストは「カーソル」をめぐる考察でもあるので,私にとってはとても興味深いものでした.

私のテキスト「ヒューマンインターフェースの歴史」も8月公開予定です.

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_04

「[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03」に対して,自分でツッコミを入れる→こちら
「《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」」に対して,自分でツッコミを入れる→こちら
ツッコミを入れつつ,インターネットを「理念」ではなく「生活」レベルで改めて考えることが「ポスト・インターネット」なのではないかということを考えた.そして,今回の展示は「生活」レベルのなかでの「理念」の部分を扱っていたのかということも考えた.これは,トークのなかでドミニク・チェンさんが「モバゲーは扱わないのか」という問いで示していたこととも通じると思う(いや,「理念」というものではなく,扱う対象の違いというだけのような気もする).
ICCを作り上げてきた人たちは,インターネットを「理念」として考えてきた.けれど,それが当たり前になったときに,改めてネットを考えると「理念」とはズレた存在になっている.だから,「いや,違ったよねー」という感じで,頭を掻きながら,改めて考えてみようという感じで,インターネットを再び考えるという姿勢をもつこと.それはICCが行なってきたこれまでの展示,特に「電話網のなかの見えないミュージアム」と「アート.ビットコレクション」との対比が必要と感じた.と同時に,ICCで展示を行なっていること自体が再び「理念」になって,生活のなかのネット(モバゲーなど [ここで「など」と書いている時点でズレている])とはズレているということも,頭を掻きながら,「いやー,ズレているかもしれないねー」という感じで考えないといけない.
さらに,《ゴット・イズ・デット》の方で「ヒトにとってネットは本質的に何が起こるかわからない「不穏」な存在なのではないだろうか」というところに とりあえず「今のところは」というべきか.いずれは,ある程度は予測できるという「現実」に近いものになる. いや,ネットのほうがすべて「作り物」なのだから,より予測できるはずというか,今でもそうなのか,ということになるけれども,アトムにはアトムの,ビットにはビットの法則があるとすると,アトムに属しているヒトには,ビットの法則はわからないまま,少しづつ,それに従っていくしかないということかもしれない. というコメントを書いているときに思い出して,脳内で参照していたのが,「ビット知らずと世間知…