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3月, 2013の投稿を表示しています

座談会[インターネット アート これから つづき]に関するメモみたいなもの

座談会[インターネット アート これから つづき]を終えて,気がついたら3月も終わろうとしているので,ここで書かないとこの先の引っ掛かりが個人的に掴めくなりそうなので「メモみたいなものを書いてみたい」という気持ちで書いてみたいです.

「身体」という言葉に対して,座談会の冒頭で僕はマウスやキーボードから,タッチのスマートフォンに変わってきたことで,「インターフェイス」の意識がなくなってきているのではないか,それとともに「身体」も意識からなくなってきているのではないかと言いました.そのことから考えると,[インターネット アート これから]で,渡邉さんが言っていた「インターネットと身体」という関係は,「インターフェイス」とともに「身体」がコンピュータやインターネットに向かう人の意識からなくなってきた反動からでてきたのではないかと考えたわけです.そこから,「インターネットの内側でドライブする」という渡邉さんの言葉がでてきました.

「インターネットの内/外」と考えてみると,身体を強く意識することでインターネットとの関係を変えることが「内」からのアプローチだとすると,「外」は千房さんがブログで提起した「プッシュ通知」かなと,僕は思ったわけです.ただ,これは「プッシュ通知」を使って,僕たちがインターネットとの関係を変えるのではなくて,「プッシュ通知」が僕たちとインターフェイスとの関係を変えるということです.「プッシュ通知」というOSレベルの仕組みが,僕たちをインターネットの「外」に出さないように囲い込みを行なっているような感じです.「内」からのアプローチに比べると,ちょっと後ろ向きな感じというか,アプローチといったこちらどうにかするものではなく,僕たちが置かれた状況の認識でしかないものです.

「プッシュ通知」による囲い込みが成立していて,それが「通知」という「オン/オフ」という「超低解像度の情報」でしかないというところが,僕たちの無意識にスルスルと入ってきてしまう感じなのかな.萩原さんがその情報に「歓声」などの「ストーリー」を載せるNike+の例を出していたように,単に「オン/オフ」でしかないから,文脈に応じていかようにも変わってしまうの「プッシュ通知」の興味深いところかもしれません.それは,単なる位置情報でしかない「カーソル」と僕たちとの関係にも似ているのかな.OSという拒否…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_11

記事を書きました→《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》が示す地球の上の「データの場所」

Silvio Lorussoによる《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》は,データが「ある」場所を示す作品です.私はこの作品を体験ときに「地球」を強く意識しました.しかし,そのときの「地球」はひとつではなくふたつです.ひとつは,スチュワート・ブランドの『ホールアースカタログ』でも表紙を飾った宇宙から撮影された「地球」.もうひとつは,Google Earthが示すような「青くて丸い地球」ではあるけれど,ズームインすることで,地図のように平面になってしまう「データによる地球」です.「データによる地球」は「earth.gif」とも関連をみつけられそうです.

また,最初は「データがある」ということを示すシンプルな作品だと考えていたのですが,テキストを書いていくと,とても複雑なものに思えてきました.例えば,「データがある」ということはどうゆうことなのか.そういったことを考えてみたのですが,結局はうまくまとまりませんでした.以下,ボツテキスト.

「インターネット」というもうひとつの世界を成立させているのが「データ」であることは確かだが,それが地球上のどこかにある「建物」にあることを意識させると同時にそれが衛星写真という俯瞰の映像で捉えられていることがとても興味深い.ストリートビューのような地上レベルの画像であっても,私たちはそこにデータの存在を認めるのであろうか.俯瞰であるからこそ,そこに「データがある」ことを認めるのだろうか.  しかし,その「ある」をどのレベルに求めるのかを考え始めると混乱しはじめる.データセンターなのか,サーバーラックなのか,それともメモリーなのか.このように考えると,「データ」は今までのモノが「ある」という感覚と同じレベルでは存在しないのではないか.それでも,データをモノのように感じたいと,私たちは願うのではないだろうか.それが《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》によって行われているデータにデータセンターという建物を与えることことだと考えられる.「データの物質化」をもたらすものが,…

座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」が公開されました

2012年3月4日にICCで行われた座談会「『ポスト・インターネット』を考える(β)」が公開されました.前半は私のレクチャーで,後半はインターネット・リアリティ研究会による座談会になっています.長いものですが,「GIF」を中心にとても興味深いものになっています.

「ポスト・インターネット」を考える(β)[前半:レクチャー]
「ポスト・インターネット」を考える(β)[後半:座談会]

このときにほぼはじめて「インターネット・リアリティ研究会」のみなさんに「リアル」にあったのでした.なので,とても緊張感がある感じの話し方になっています.

私自身はこのあとも「GIF」について考え続けて,学会発表論文(査読中)を書きました.GIFを切り口にしてネットを見ていくと,そこにはこれまで目指されてきた「高解像度」の認識ではなく,「低解像度」の認識という方向もでてきているのかなという感じです.

「低解像度」と言えば,この前の座談会「インターネット アート これから つづき」で話題になった「プッシュ通知」.単に「通知」という「オン/オフ」の超低解像度の情報に翻弄される私たちがいたり,Nike+のようにその情報に「ストーリー」をのせることでヒトの気分をコントールできてしまうというのが興味深い.「オン/オフ」の超低解像度ゆえに身の回りに入りこんでくるのを受け入れてしまうし,それゆえに意識にするすると入ってきてしまう.情報技術が進展したのちに,電話のような「プッシュ通知」がでてきたことは考えるべきことだと思います.

このことは改めて考えるとして,「GIF」もまたこの「低解像度」の情報の流れにあるのでは,という話です.それを考える「きっかけ」が「ポスト・インターネット」を考える(β)にはつまっているので,お時間があるときに読んでもらえると,うれしいです.

ユラユラフラフラしているモノ

この週末はICCのトーク[インターネット アート これから つづき]があり,ゲンロンカフェでのエキソニモのトーク「芸術係数「夜の世界のネット・アート」エキソニモ×辻憲行 」があり,谷口暁彦さんの個展「思い過ごすものたち」と盛りだくさんの内容でした.どれから考えるべきなのか,頭がいっぱいいっぱいな状態です.2012年度を締めるためにも,ちょっとずつ書いていきたいな思っています.
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谷口暁彦さんの個展については,いろいろなところで書かれてると思うのですが(写真がたくさんあります→谷口暁彦 個展「思い過ごすものたち」フォトレポート),僕的にはタッチデバイスしか使っていないというところが面白いなと思ったわけです.「思い過ごすものたち」というタイトルの掴めなさ.ここにはメタファーがありそうでなくて,物語が紡がれそうで紡がれることもなく,「思い過ごしたものたち」でもなくて,「思い過ごすものたち」ということで,時制が行ったり来ている感じがして,どことどことが触れ合っているのかもわからない感じがする.

なんかこの言葉の届かなさ.「でも」というか「さらに」というか,谷口さんは自分でテキストを用意していたりする.なにかこの「ものたち」と「言葉」のあいだにあるものを考える必要がある感じする.いや,言葉は必要ないのかもしれない.吊られているものたちとテキスト.水で書かれるテキスト.iPadからつられる鉛筆.鉛筆が書くテキストと水が書くテキスト.そして,揺れるiOSデバイスというものたち.

谷口さんがiOSデバイスを使っていて,そのなかでも「吊るされている」ものたちがとても気になる.天井から吊られてゆらゆらしているものたち.ディスプレイと一体となっているものたちがゆらゆらとしている.その掴みどろころのなさというのか,なんだろう.そこには吊られているものたちがゆらゆらしているものがあって,それは平面的なデバイスを際立たせている感じがした.それは「ものたち」なんだけど,ディスプレイという平面に映っているイメージでもある.それはイメージのようでありモノではない感じ.でも,それは「ものたち」.イメージが映された平面はたしかにモノたちということが重要な気がする.

例えば,天井から吊られたiPadにCGで描かれた箱に入ったティッシュペーパーが映されていて,ゆらゆらとしている.「ゆらゆらしている」の…

インターネット インターフェイス あれから つづき

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そもそもインターネット体験ってなんなのだろう?  インターフェイスの問題なのかなと思う.インターネットの向こうで,犬がコンピュータに向かっていても気づかないということがあったけれど,犬の前足ではキーボードは押せないのではと思うわけです.ヒトの身体にあわせたマウスとキーボードというインターフェイスと,向かい合うディスプレイの大きさが「インターネット」という体験を決めていた.


今は,スマホによるインターフェイスの変化があるから,インターネットも変化していく.OFFLINE ART: new2 Parisで印象的だったのは,みんながスマホ片手に作品の鑑賞しているところ.これが今のネット体験のひとつってことなんですよね.机の上においたパソコンでも,膝の上においたノートブックでもなく,片手に持ったスマホからのインターネット体験.もちろん,パソコン,ノートパソコンでもインターネット体験できるけど,ここ5年くらいの変化.小さな画面を見つめながら,ネットを体験する.「体験」という言葉もしっくりこない.ただディスプレイを見ている.テレビのように見ている感じになっているけど,そのとき顔は下を向いている.このちょっとした違い.


センボーさんのブログ記事「インターネットと無意識」はとても刺激的だった.ここから考えることはたくさんありそうだけど,まずは「プッシュ通知」とスマートフォンの関係がとても興味深いです.上にインターネット体験を「インターフェイス」の問題として改めて考えてみる必要があるかなと書いているけれど,ここに「プッシュ通知」というのが入ってくるとどうなのか? 常に持ち歩くことができるからこそ「プッシュ通知」で,それゆえに無意識に入り込んでくるような感じ.そして,「プッシュ通知」によって「選択的認識」が促されるような感じ.いろいろな通知がきて,それに対応するように世界を認識していく.一度為された「選択的認識」が「プッシュ通知」で連鎖していくような感じ.他のヒトの認識と記憶が自分からとりにいくことなく自分の元に入り込んでくるというのは面白い.電話もそうだけど,受け取った時の選択が多いというのが違うところだろうか?

これを書いている時に「連鎖」という言葉が気になってきて,そのときたまたま読んだのがウェブデザイナーの萩原俊矢さんが谷口暁彦さんの個展「思い過ごすものたち」について書かれ…

GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感

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谷口暁彦さんの「GIF 3D Gallery」.気になっていたけれど,取っ掛かりがなくてそのまま.そのあいだに海外のサイトにも紹介されていて,それでもなかなか考えられずにいて,多分今もそうなんだと思う.

「GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感」というメモ書きが,僕のMacのディスプレイにあります.GIF BOOKで「The Gif Connoisseur」を考察したときに,「最前面−前面−背面−最背面」という重なり=距離の問題を指摘しました.GIFをみている「おじさん」は「最前面」でGIFを見ているということを考えました.そのあと,GIF論文を書きながら,GIFを見ている「おじさん」は,GIFを見ているのではなくGIFと衝突しているのではないかと考えました.でも,よくよく考えてみると「衝突」はしていない,だけど「遭遇」はしていると考えるようになりました.「見る」というよりも,もう少しなんか「モノ」というか,そこに存在するものに出くわすという感じ.そして,ディスプレイにGIFを見ている「おじさん=私」も,GIFと遭遇しているのではと考えたわけです.

おじさんが最前面にいるように,ディスプレイを見ている「私」も「最前面」にいるという感じ.「レイヤー=層」というような別々の平面にいるのではなく,同一平面にありながら,重なり順が異なるという感じ.Illustratorを習得するときに,オブジェクトの重なり順というのがイマイチ体感できかなった.「レイヤー」はすんなり理解できたけど,オブジェクトの重なり順は違和感があった.でも,考えてみれば,描いた順に重なるというのは,リアルの世界で出来事に近いというか,そのものなんですね.でも,それに対して違和感を懐いた.「レイヤー」という程には明示されない感じに違和感を感じたのだと思う.Illustratorのレイヤーのウィンドウを開いて,さらにひとつのレイヤーを見れば,オブジェクトの重なり順を確認することができるから,レイヤーと同じと言えば同じなんだけれど… レイヤーのなかにレイヤーがあるような入れ子になっている部分に違和感を感じているのかもしれないと,書きながら思った.で,言葉もちがう.「レイヤー」と「オブジェクトの重なり」.言葉がちがうのであればその存在のニュアンスもやはりちがう.

それはそれとして,谷口…

新津保建秀さんの写真集『\風景』のレビューを書きました

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センターが発行している「JunCture 超域的日本文化研究」の第4号「特集:インタラクトする風景」に,新津保建秀さんの写真集『\風景』についてのレビュー「『\風景』で体験する居場所がはっきりしないフラフラした感覚」を書きました.

新津保建秀さんの写真集『\風景』をはじめに見たときの衝撃をどうにか言葉にしたくて,このレビューを書いていました.「\風景=風景」を眺める|「\風景」をスクリーンショットで撮る|写真集『\風景』をめくる,という小見出しでレビューを書きました.以前ブログに書いていたものをまとめればどうにかなるだろうと思っていたのですが,ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して,全く異なるものになりました.その結果,レビュー自体も最後は「写真集」というモノとそこにある「\風景」との関係を探るものになりました.(これは逆ですね.レビューをそのように考えて書いたら,いまここに「ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して」と書いているのでしょう,本当のところは.じゃ,そうやって書きなさいという感じですが,なんかこの書き方の順序が面白かったので,このままカッコ書きをいれてみます)

そして,「\風景」についてはいろいろと書いてきました.いろいろと書いてるうちに,「\風景」は写真集だけではなく,展示というかたちになり,電子書籍になりました.そして,それらについても考えました.まだまだ「\風景」の体験を言葉に移すことはできていないですが,リアルとネットというか,データというか,そんな感じのものを含んだ「あたらしい風景」を捉えるための言葉を考えていきたいなと思っています.

『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ

他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと

「\風景=風景」あるいは「システム=風景」

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5

「\風景」電子版:「\landscape」と「\landscape_archive_7.5」

新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催


最後に,興味がありましたら,『JunCture』は笠間書院を通して書店やネットで販売されておりますので,できれば購入して呼んで頂きたいのですが,私としてはより多くの人に読んでもらいた…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_10

記事を書きました→The World's First Tumblr Art Symposium がニューヨークで開催

2013年3月9日に開催されたThe World's First Tumblr Art Symposiumについてです.Tumblrでこれだけ盛り上がれるの,素敵です.そして,記事にも書きましたが,ネットの出来事を考えるための「言葉」をつくっていく必要があります.

記事には文字数の関係で書けなかったのですが,The World's First Tumblr Art Symposiumを紹介する紹介する記事のなかにも興味深いものがいくつかありました.Artlogは,10年前にBloggerやWordPressなどを舞台にして「テキスト」に関して起こっていたことが,Tumblr では「画像」で起きていると書いています.また,SFAQはTumblrは「具体」などのアートムーブメントと同じようなもので,ネットアートでもあり,あたらしい美学でもある.それがオンラインから生まれているのだとしています.

GIFとの遭遇:ザ・ブルー・マーブルとearth.gif

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昨日,やっとGIFについての論文を書き終えました.タイトルは「GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメ化された世界」.「GIFとの遭遇」の部分は「未知との遭遇」から.

最初はヴァルター・ベンヤミンやロザリンド・クラウスの「視覚的無意識」やロジェ・カイヨワの「擬態」という言葉を使って,「GIFになる」ということを書こうとしていたのですが,どうもちがう感じがして,最後は「選択的認識」という言葉を作って,それについて考えました.そのときに,参考にしたのは,センボーのブログの「コンピュータ 記憶 シンクロ」とHGWのBLANKの「保存について」でした.そうしたら,パーカー・イトーのテキストも参考になって,GIFの話というよりも「ポスト・インターネット」的状況におけるヒトとコンピュータとの認識についてのテキストになっていたような感じがします.「GIFとの遭遇」が認識の変化をさぐるきっかけになっているような感じ.

「選択的認識」というのは,iPhoneとかで解像度を気にすることなく次々に写真をとって,どんどんいろんなサービスにデータをアップしていくようなものと考えました.ここでは写真を撮影することも「選択」された行為だし,そのあとどのサービスにあげるかも「選択」される必要があるわけで,常に「選択」が行われていて選択されなかったものは,そこに存在しもしないような認識.

じゃ,「選択的認識」とGIFがどう関係しているかというと,それはGIFがディスプレイ平面から引き離すことができない画像というところです.「選択的認識」はディスプレイ経由で起るので,ディスプレイ・ネイティブの画像形式としてのGIFが最もその特徴を表して,ヒトとコンピュータとを同じ認識のもとに巻き込んでいるのかなと考えました.論文を出してしまった後ですが,今ここに書いていることのほうが,いい説明になっているのではないかと思います.このあたりはもっと考える必要があります.



「選択的認識」で言いたかったことは,高解像度の認識をするのではなくて,低解像度の認識をできるだけ多く行なっていくという方向性もありなのかなということだと思います.今までは「高解像度の世界=ザ・ブルー・マーブル」だったけれど,膨大な低解像度の認識がヒトとコンピュータとのあいだのズレを埋めていって,その先に「低解像度のデフォルメされた世界=ear…

memo_リアルインターネットおじさん

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リアルインターネットおじさんについて何か書きたいなと思いつつ,時間がとれなくて書けないので,ここで勢いで何かを書くかなーと思いつつ,書いてみたのだけれど,やはりリアルインターネットおじさんはネットが降りてきたなーという感じがするというか,でも,それは勝手に降りてきたわけではなくて,IDPWや渋家の人たちのコミュニケーションのなかからできているんだよなー ネットを通じての対話が「リアルインターネットおじさん」に降りてきている.なので,さっきは,「IDPWや渋家の人たち」と書いたけれど,ザッカーバーグだって,ラリー・ペイジだって,東浩紀だって,津田大介だって,いろいろな人たちがいるネットが「リアルインターネットおじさん」に降りてきているんだよなー.ネットが降りてきていると書いたけれど,見た目は白の全身タイツのおじさんなんだけど,その話のドライブ感とかが,なんかよかったんだよね.「リアルインターネットおじさん」について,みんなでワイワイ書いたら面白そうだなーと思いつつ.なんか,ひとりで考える現象・人物ではなさそうだなーという感じです.
http://touch-look-touch.tumblr.com/post/44284916600/memo062 から