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4月, 2013の投稿を表示しています

Daniel Temkinの《Unicode Compressure》:圧縮の先にある四角

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CLICK | GALLERYDaniel Temkinの《Unicode Compressure》 (Gallery_B) が展示されている.Daniel Temkinはニューヨーク在住の写真家,デジタルメディア・アーティストで,プログラマー.





《Unicode Compressure》を見に行くと,Unicodeから6個の文字・記号がランダムに選ばれて,それらが組み合わせられブラウザの中央に配置されている.左上に「resolution: 389 : 1200」とあり,その下に組み合わせられている6つの文字・記号.さらにその下には,中央の図形の一部を拡大したものが表示されている.






図形をしばらく見ていると,徐々にボヤけて見えていくことに気づく.同時に「resolution」の数字が減っていっている.つまり,時間とともに「解像度」が低くなっているのである.私が見ている環境だと,解像度はなぜか1200からではなく,800から始まり,最終的には0になる.解像度が50くらいまでは6つの文字・記号からなる図形のかたちを認識できるが,それ以下になると急激にかたちが崩れていき,最終的にはかたちがなくなり,画面全体を赤く覆ってしまう.







Unicodeと解像度いうコンピュータのデフォルトの要素を使っている.CLICK | GALLERYの説明には「ウェブの要素を緻密に組み合わせては破壊していく」とあるが,ここにあるのは「破壊」なのだろうか.確かに,組み合わせられた図形は崩れていく.しかし,最終的に崩れる際にみせる「大きな四角の組み合わせ」は,これはピクセルという「四角枠」を表現の最小単位として選んだコンピュータのミニマルな「かたち」なのではないだろうか.

インターネットはすべて四角でできている — sembo (@1000b) April 27, 2013
真の意味で四角い部位がひとつもない人間が作ったものなのに何故 — sembo (@1000b) April 27, 2013
ディスプレイのピクセルだって適当な形のつぶつぶが適当に並んでいるのだったよかったはずだけど、四角が整然と並んでいるのは、そのほうが情報として扱いやすいから — sembo (@1000b) April 27, 2013
Daniel Temkinの《Unicode Compressure》を見ていると…

Domenico QuarantaのIn Your Computerを読み終える

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Domenico QuarantaIn Your Computerを読み終える.2000年代のネットアートの状況が書かれていた.最初のほうに「セカンドライフ」が出てきて時代を感じつつ読み進める.後半は,ペトラ・コートライトなどもでてきて「ポストインターネット」な感じ.そして,ネットアートの初期と現在のあいだの「ちがい」というのを感じられた.この「ちがい」は,あくまで僕個人のものでしかないものだが,現在の方がネットに対してよりナチュラルになったというか,大きな問題を提起していない感じがする.また,Quarantaは「ネットアート」という言い方にこだわっていて,「ポストインターネット」は何を言っているのかよく分からないのでダメという感じ.
「オリジナルとコピー」の問題を,ヴァルター・ベンヤミンとボリス・グロイスを使って論じているところは,とても参考になった.ただ問題意識が少し,僕とは違う感じで「見えないオリジナルが存在する場所」について書かれていた.ネットアートの「URL」がひとつのオリジナルの「場所」になるのではないだろうかというのが,Quarantaの見解.僕としてはグロイスの「オリジナルが見えない」ということを考えつつ,ディスプレイに見えているものの「パフォーマティブ」な感じを考えてみたい.Quarantaは「場所」を考え,僕はその場での「パフォーマンス」を考えたい.Quarantaも本のなかで結構な長さで「パフォーマンス」について論じており,このあたりを接続して考えみるといいのかもしれない.
Quarantaはペトラ・コートライトについて,「彼女の生活はTwitter,Facebook,Flickrで継続的に行われているオンライン・パフォーマンスである.彼女の作品はメディアについてではなくて,ペトラ・コートライトについてのものである」と書く.このような視点から考えると,彼女はまさに「選択的認識」を実践しているアーティストといえる.コートライトについて自分で考えたときは,全く分からなくて,次のように書いている.
私は「メディアの条件を問う」ような作品を考えることが好きなのだが,Petra が扱っているメディアが「インターネット」だとすると,「そこには『条件』なんてものはないですよー」とアッケラカンと示されているのが,Petraの 作品群のような感じがする.インターネ…

プッシュ通知|風景|2013

デザインハブで開催されている( )も( )も( )展に行って,エキソニモの作品《風景2013》を見てきました.《風景2013》は多くのスマートフォンが床に置いてあって,それらが「プッシュ通知」し続けている作品でした.「作品に手を触れないでください」という紙が床に張ってあるから,日頃イヤッというほど触っているスマートフォンに触れることができません.
「通知」を行なっているスマートフォンが自分のものではないからか,特にそれらに触れたいとは思わなかった.けれど,それらが「通知」し続けているのはとても気になります.>「通知」というのは以前に誰かが決めた予定だったり,誰かのTwitterのツイートからだったりと,その先に「誰か」,それはヒトであることが多いけれど,botかもしれないです,ヒトであろうがbotだろうが,それ以外であろうが,通知の先には何かしらが存在します.「プッシュ通知」について考えていくと,エキソニモが書いている作品についてのテキストを思い出します.



(   )と(   )の間にある(   )は、時には(   )であったり、またある時には(   )であったりします。そんな(   )の(   )に挑む展示を実行します。
「プッシュ通知」は,誰かと誰か=何かの間にあるもので,それは「Twitter」だったり,「Poke」だったり,過去の自分が立てた現在の自分への「約束」であったりします.スマートフォンの群れが伝え続ける「プッシュ通知」は,この場にない何かを伝えるためにディスプレイに表示されているわけです.「通知」だけを聞き続けて見続けていると,ここにはない(   )を感じ始めてしまうというのは言い過ぎかもしれないけれど,ディスプレイの「先」を考えるきっかけになります.

この作品をタイトルの《風景2013》から考えてみると,そこに「風景」の移り変わりを見ることができます.エキソニモがネットの風景画としてGoogleのトップページを描いた《A web page》を完成させたのが2004年です.このときにはGoogleがネットの風景として成立していて,僕たちはそこにいって「検索」をしてネットをしていました.では,2013年の風景はどうでしょうか.スマートフォンの群れの先にある壁には「黒い枠」だけがつくられていて,そこに「風景2013 exonemo」と書いているだけです…

そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か?

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CLICK | GALLERYJon Satrom 《Storm Cloud Computing》 (Gallery_A) が開催されている.Jon Satromはシカゴ在住の「ダーティ[dirty]」ニューメディア・アーティスト.



《Storm Cloud Computing》はAppleのiCloudの「雲」を用いた作品.ところどころグリッチした背景に多くの「雲」が表示されていて,ところどころはループで動いていて,音も流れている.クリックすると,別の画像が表示されていく.
グリッチ自体は珍しいものではなくなった.この作品を興味深いものにしているのは,《Storm Cloud Computing》というタイトルだろう.「クラウド」を示す画像を文字通り「雲=Cloud」として捉えて,「嵐=Storm」を「グリッチ=Computing」つくりだしている.コンピュータが生み出す世界を「もうひとつの自然」と捉えることが多くなってきている.そうれであれば,データ上に発生する「雲」を使って「嵐」という現象を起こすこともできる.
これは単に言葉遊びというか,モチーフ=メタファーの選択の仕方にすぎないともいえる.けれど,この作品のとなりにラファエル・ローゼンダールの《looking at something》を置いてみると「もうひとつの自然」の「自然さ」というか,その考え方の枠のようなものがネットで活動する作家にはあるのではないかという感じになる.



《looking at something》はカーソルに位置に応じて,ウィンドウ内が「晴れ」であったり,「雨」だったり,「雷雨」になったりする.このシンプルなインタラクションに惹きつけられるのでだが,ここで見ているのは何かと考えると,よく分からなくなる.「ウィンドウ=窓」というメタファーを活かして,外の「自然」を見ている感じもするのだが,もちろんそれは現実の自然ではないし,リアルさを求めているわけでもない.「デスクトップ・リアリティ」というか,作品のタイトル《looking at something=何かを見ている》が示すように,それはブラウザのウィンドウ内に生じている「何か」としか言えないものであり,その「何か」を示すのに「自然」が使われているにすぎない.

Jon Satromの《Storm Cloud Computing》も同…

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(6)

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6.おわりに  2013年3月9日にTumblrがアートブログのHYPERALLERGICとともに, The World's First Tumblr Art Symposiumをニューヨークで開催した.アートユニットEco Art Techのレイラ・ネイダ−とカリー・パーパーメントはシンポジウムに寄稿したエッセイに,私たちは目の前で起こっている現象に対して「語る言葉がないので,言葉はつくられる必要がある53」と書くように,私たちはコンピュータやネットがもたらす表現のための言葉をつくる必要がある.だからこそ,本論文は「選択的認識」という言葉をつくり,高解像度の地球画像「ザ・ブルー・マーブル」に基づく認識ではなく,低解像度で回りつづける(紙の上では回らないが)「earth.gif」から生まれる認識への考察を試みたのである.



 「earth.gif」が回り続ける「ポスト・インターネット」的状況で,GIFと遭遇していくヒトは「選択的認識」を行うようになり,そこでは認識の多さが重要であり,認識及び画像の解像度は大した問題ではなくなる.そして,より多く認識を行うために解像度は徐々に下がり,現実の捉え方が変化していく.「選択的認識」はTwitterの例があるように,GIFに留まらずコンピュータとウェブに接していくヒトの認識の変容のひとつである.「選択的認識」は憂うような認識の劣化ではなく,ヒトがコンピュータとがひとつの複合体としてより密接な関係を築くための変容と肯定的に捉えるべきなのである.

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(5)

5.画像ファイルとしてのGIFとデフォルメされた世界  次に,GIFにおいて「選択的認識」がヒトに強く作用する理由を考えてみたい.美術批評家のボリス・グロイスは「画像ファイル」に関して,ファイル自体は見ることができない,つまり「オリジナル」を見ることができないものだとしている.その上で,「画像ファイル」に基づいてディスプレイに表示される「画像」は「コピー」ではなく,楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものであると指摘している46.ディスプレイに表示されている画像は「オリジナル」と「コピー」という関係が成立しないもので,パフォーマティブな画像だというグロイスの指摘は興味深い.「画像ファイル」のというあらたな画像のあり方が「選択的認識」に作用していると考えられる.しかし,この性質はすべての画像ファイルに当てはまるものであり,これだけでは「GIFとの遭遇」が,なぜ認識の変化の兆しを示すのかを説明できない.
 1024個のGIFアニメを売買する場として2011年に《GIF MARKET》47をつくったキム・アセンドルフとオラ・ファッチは,GIFはその低解像度とアニメーションによって,画像ファイルは最終的にはプリントされるものという認識を変えるものだと考えている.そして,GIFにとってはディスプレイこそが「ホーム」であるから,たとえそれがグロイスの言うように見えないものであったとしても,ファイル自体が「オリジナル」として価値を持つのだと指摘する48.だから,彼らはGIFの画像ファイルを売るのである.これと対比できるのが,写真家のトーマス・ルフの『jpegs』49という写真作品である.ルフはJPEGが過度に圧縮された際に生じる「アーティファクト」と呼ばれるノイズにデジタル特有の美を見出す.彼はネット上に流通しているJPEG画像をさらに圧縮したノイズ混じりの画像を「プリント」して写真として提示する.ここでは,デジタル特有の「アーティファクト」がディスプレイとファイルとの結びつきから引き離されて提示されている.GIFとは異なりJPEGでは「画像ファイル」と「ディスプレイ及びコンピュータ」との「分離」が成立する.
 JPEGと異なりGIFはディスプレイから分離できないからこそ,ポスト・インターネット的状況でネットを主な表現の場にするアーティストたちに独自の存在感を示し…

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(4)

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4.GIFとの遭遇と選択的認識  ホームページの装飾という役割を与えられていた従来のGIFでは「遭遇」が前面に出ることがなかった.GIFはホームページの至るところに配置され見る者の注意を惹いたが,それはあくまでも「家」のなかの置物にすぎないものであった.「家」のなかに置かれていたGIFをネットの流れのなかへ解き放ったのが,タイムライン型のダッシュボードをもつTumblr35なのである.
 ガニングは「初期映画」が「映画はヴォードヴィルの演目に一つのアトラクションとして現われた.非物語的にしてほとんど非論理的なパフォーマンスの連鎖のなかで,相互に脈絡のないひとかたまりの出し物に囲まれて現われ36」,興行師の話にのって見せられていたと指摘する.これもまた,現在のGIFの受容と重なる部分である.GIFはTumblrというアーキテクチャを得て,「タイムライン」を脈絡なく流れてくるコンテンツのひとつとなり,見る者に「遭遇」という感覚を強く与えるようになったのである.動画にあるべき「再生ボタン」がないことが,この感覚をより強いものにしている.「再生ボタン」を持たないGIFは,ヒトとコンピュータとのインタラクションを否定し,ヒトと映像との最低限のインタラクションである「再生と停止」もできない.ガニングは初期映画の「上演」の際にはじめから動画を見せることをしなかったと指摘し,「最初の静止したイメージの投影は,装置の存在理由である動きの幻想をしばらく見せずにいることで,最初の映画の上映にサスペンスの効果をもたらした37」と書いている.Tumblrを流れてくるGIFではこれとは逆に,動画なのに勝手に再生されるということが「目の前にあるのは映像ではないのではないか」という「サスペンス」効果をつくりだすと考えられる.Tumblrのタイムラインの流れに放り込まれたGIFは,「驚き」とともに見る者と「遭遇」することになり,再び脚光を浴びることになったのである.
 Tumblrでの見る者とGIFとの「遭遇」について教えてくれるのが,《The Gif Connoisseur》というTumblrサイトである38.《The Gif Connoisseur》は,「鑑定士」がGIFアニメをとても近くで鑑定するというGIFアニメである.しかし,鑑定士はGIFを近くで見すぎていて,全体を見ることができていないよう…

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(3)

3.GIFと初期映画 3−1.映像  GIFは「動画」であるにもかかわらず,物語の一部にもならない「動き」を切り取った「静止画」のような特殊な性質をもったものである.GIFは「物語」ではなく,デフォルメされた「動き」が強調される.ここで初期映画とGIFとを対比してみたい.なぜなら,初期映画とGIFはとともにそれぞれのメディアの黎明期に現われた映像の形態であり,映画研究者のトム・ガニングが「初期映画は,その後あからさまに映画を支配するようになる物語への衝動に屈服していたわけではなかった22」というように,初期映画は「物語」を強調した映像ではないなど,物語の要素がうすい「短い動画」であるGIFと多くの類似点が見出されるからである.
 ガニングは1906年頃まで映画を支配した映画と観客のあり方を「アトラクションの映画」と呼ぶ.そして,映画が「物語」を積極的に活用するようになったあとも,アトラクションの映画は消えることなく,物語映画の要素としてあり続けているとしている23.アトラクションの映画について,ガニングは次のようにまとめている.
アトラクションの映画は観客の注意をじかに引きつけ,視覚的好奇心を刺激し,興奮をもたらすスペクタクルによって快楽を与える───虚構のものであれドキュメンタリー的なものであれそれ自体が興味をかき立てる独特のイベントなのである.展示に供されるアトラクションは映画的特性も備えていて,それはたとえば今しがた述べたばかりの初期のクロース・アップやトリック映画だが,後者は映画的操作(スロー.モーション,逆回転,変身,多重露出)が物珍しさを提供する.虚構の状況はというと,ギャグやヴォードヴィルの演目,衝撃的で好奇心を煽る出来事の再現(刑の執行,最新の事件)に限定されがちだった.映画製作へのこうしたアプローチを規定するのは観衆への直接的な呼びかけであり,それに基づいて映画興行師が観客にアトラクションを供するのである.ストーリー展開や物語世界の想像と引き換えにショックや驚きのような直接的刺激を強調することで,物語に没入させることよりも演劇的な誇示の方が優位に立つ.アトラクションの映画は,心理的動機や個人的人格を備えた登場人物を想像することにエネルギーを費やすことはほとんどしない.フィクションとノンフィクションの双方のアトラクションを活用することによって,そのエネルギ…

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界(2)

2.GIFと情動  2012年にファッションの業界やアメリカ大統領選挙の報道に使われたことに代表されるGIFの復活に関して,谷口は次のように書いている.
GIFアニメーションの短いループによる意味の圧縮/デフォルメ化と,そのキッチュさが風刺画のように機能しているからかもしれない.こうして2012年,一躍返り咲くことによったGIFだが,それはたんにFlashの代替として返り咲いたわけではなく,GIFというファイルフォーマットならではの質感や特性が再発見され,画像とも動画ともつかない独自の形式として認識され始めたことによるのではないだろうか11.
 この谷口の指摘は,技術の制約だけでなく「GIFならでは質感が再発見される」という見る者の認識の変化も考察の対象にしている.GIFの復活は,ネットと現実の関わりに対する認識の変化と関係していると考えられる.そして,その認識の変化を捉えていたのが2010年前後からの「GIFの質感」をめぐるポスト・インターネットの言説であろう.これらの言説を参照しながら,改めて認識されたGIFのあり方をみていきたい.
ウェブネイティヴ  GIFアニメを多く制作するトム・ムーディは,標準的なブラウザにサポートされているGIFは,ウェブのアニメーションの「ネイティブ」であると指摘する12.さらに,GIFは誰でも作れるがゆえに,半匿名状態で作品が流通していくと考えている.しかし,ムーディはFacebookがGIFをサポートしていないように,GIFはウェブからいつ排除されるかわからない存在とも考えている.その「はかなさ」ゆえに,GIFはメインストリームの外部に位置する存在であり,それゆえにアーティストにとっては打ち捨てられた広場やプールのような格好の遊び場になっているとする13.
コミュニケーション  パディ・ジョンソンは,画面上で明滅し続けるGIFはうるさいものであるが,見る者の注意を引きつけるので,あたらしい対話のはじまりになるとしている14.ジャーナリストで電子音楽のミュージシャンでもあるジョシュ・コプスタインはアニメーションのループが感情と記憶に作用するがゆえに,GIFはコミュニケーションに積極的に用いられていると分析する15.
ループ  初期のウェブの状況を考察した「デジタル・フォークロア」で有名なオリア・リアリナはGIFの特徴は「ループ」と「透過」だとしてい…

SEAN ROY PARKER:VHSそのものの粗さ

Desktop ResidencyでSEAN ROY PARKERの個展が4月17日から5月6日まで開催されている.Desktop ResidencyにいくとSEAN ROY PARKERによる画像があり,左上に「download」がありクリックすると,パソコン,iPad,iPhone用の壁紙がダウンロードできる.右上にはDesktop Residencyについての情報を表示する「about」がある.


Tubelord ≈ My First Castle from Sean Roy Parker on Vimeo.
SEAN ROY PARKERは映像作家として活躍している.YouTubeに「VHSモード」が(1日限りで?)実装されたけれど,PARKERはVHSで撮影した映像を用いて作品をつくる.だから,当然画質が粗い.PARKERは画質の粗さをVHSという素材そのものだと捉えている.そして,彼はビデオ編集のときによく使われた,画面に画面を重ねる手法をよくつかっている.この編集の仕方による複数のビデオ画像平面の重なりと画質の粗さは,GIFを思い起こさせるものであるが,彼自身は「ネットアート」とは距離をおいている.(→http://www.mintmagazine.co.uk/art/sean-roy-parker/).

VHSという素材そのものが示す「粗さ」と,GIFという画像ファイルが示す「粗さ」を対比させてみても面白いかもしれない.素材そのものの劣化が大きく影響するVHSと,もともと圧縮されており,それ以上劣化することがないGIF.

また,PARKERは「new displays」という画像コレクションのTumblrをやっている.Desktop Residencyで展示されている画像はここからとられている.「new」というところが「new jpegs」や「new aesthetic」を思い起こさせる.自分がやっていることは「ネットアート」ではないが,ネット自体からは大きな影響を受けているという部分がここに現れている感じがする.「new displays」を見続けても何が「new」なのかはわからないが.延々と画像がポストされている感じが「new」なんだとも思う.「延々と」画像がポストされていくこと自体がいまの世界認識のひとつのあり方を強く示している.

GIFとの遭遇:選択的認識と低解像度のデフォルメされた世界 (1)

1.はじめに  「GIF」とは「Graphics Interchange Format」の頭文字をとったもので,JPEGと並んで多くのブラウザにサポートされ,インターネットでよく使われている圧縮画像形式のひとつである.フルカラーを表示できるJPEGとは異なり256色しか表示できないGIFだが,「透過」や「アニメーション」といった他の画像形式にはない機能を持つために,ウェブの初期から使われている.
 まずGIFの歴史を簡単に振り返ってみたい.1987年5月28日,パソコン通信会社CompuServeが圧縮画像フォーマットとしてGIF規格「GIF87a」を公表する.さらに,GIFの大きな特徴となる「透過」や「アニメーション」機能の拡張をした「GIF89a」が1987年7月に策定される.その後,1995年9月にNetscape Navigatorのヴァージョン2.0が「GIF89a」をサポートしたことで,GIFアニメーションは徐々にネットに拡がっていき,ホームページを飾る要素として「工事中」を示すアニメーションや「回る地球[earth.gif]」などがネットに配置されていった1.同時に「単体で完結する物語作品としてのGIFアニメ2」も登場するようになる.その後,GIFは次のような経過を辿る.
GIFアニメは,2000年頃までにウェブ上の動画コンテンツとして確固たる地位を築いた,かのように見えたが,2001年前後からFlashアニメという新たな潮流の登場によって,少しずつ表舞台で話題になる回数は減っていく.2001年9月1日にサービスを開始した「Yahoo! BB」に象徴されるブロードバンドの普及により,常時接続と大容量回線が当然のものとなることで,軽い面白さが売りのGIFアニメよりも,多少容量が大きくても音楽や美しい映像を駆使したFlashアニメのほうが喜ばれるようになった3.
 しかし,2007年に発表されたiPhoneがFlashをサポートしないなどiOSデバイスからの締め出しや,ダッシュボードというタイムライン型のインターフェイスを持つTumblrの登場などによって,ダウンロードがはやく,再生ボタンがなく勝手に再生されるGIFは「短い動画」として再び注目を集め4.アートGIFのムーブメントを牽引してきた美術批評家のパディ・ジョンソンが「2010年はGIFアニメーションの年…

GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまう

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GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまうのは,僕が古い人なのかもしれない.「映画は反射光,テレビは透過光」という区分け.Glassは透過光なのか,反射光なのか.Glassのページには「Welcome to a world through Glass.」とあるから,僕たちが経験するのはGlassを「透過=through」した世界であるらしい.でも,よく考えるとここは複雑なものがあって,ガラスを通るして映像が投影されているとすれば「透過光」だけれども,映像以外の部分は世界のオブジェクトからの「反射光」なわけです.ということは,Glassを通して「反射光+透過光」という組み合わせで世界を認識していくということでしょうか.
このことが意味するのは,マクルーハンが提唱した枠組みでは捉えることができない「メディア」が登場してきたということになります.これは今ままでの考え方を超えて,あるいは捨てて,考える必要があるものなのかもしれません.
理解できないものの価値を感じることは難しいですし,何か新しいものを理解してもらうためには,いずれにしろ古い価値体系の何かを動員してメタファー的方法で説明するなど過去あったものとの接続作業が不可欠ですね。.グーグルグラスもテレパシーワンも大きな壁に阻まれている.その2 - ウェアラブルの時代 -
これは,Glassと同じメガネ型のウェアブルインターフェイス・テレバシーワンを開発している井口尊仁さんのブログからの引用です.Googleが「インターネットとのシームレスな接続」や「スマートフォンの拡張」を前面に押し出してGlassを売り出すのは,今の価値観の延長にあるから理解されやすいからだと井口さんは指摘しています.でも,Glassやテレバシーワンが持ってい力は,理解できないほどのあたらしさを持っていると井口さんは考えています.井口さんが考える「あたらしさ」は,彼のブログに書いてありますが,僕としては,Glassを通して見る世界,それがGlassという「メディア」を通して見る世界だとすると,それは今までのメディアを大きく区分けしたマクルーハンの枠組みが崩れるという意味で,そこには「あたらしさ」があるのではないかと思うわけです. あと,もうひとつGlassで考えられるのが,スクリーンというかディスプレイとヒトとの位…

ヒトの身体をナメてはいけない

ワコムの最新液晶ペンタブレット「Cintiq 13HD」がいよいよ登場! タナカカツキ×伊藤ガビンによる未来の機械のレビュー!!」がとても面白いです.何が面白いって,「手が邪魔(笑)! 」というところ.
カツキ:でも,一点言わせてください.画面に向かって直接描くことによって,画面と目との間に手がありますよね.そうすると手に目のピントがいっちゃうんですよ(笑).手が邪魔に感じるんですよ。 .ガビン:もう手を使うな! ノーモア手!  カツキ:手が邪魔(笑)!  ガビン:言いたいことはわかるんですよ.本来、絵を描く行為って,紙とかキャンバスとかに手で描いてたわけだけど,だけどIntuosみたいなペンタブレットを使い込んで完全に自分のものにすると,手元と画面が離れてるから手が視界を遮らないんですよね.カツキ:そうそう.でも「手が邪魔」って言うてる人いないでしょ? それは絵を描いていると目が進化して,手が視界に入らなくなるんですよね。 .ガビン:手が透明になっていくんですね .カツキ:どんどん透明になって絵だけが立ち上がるようになっていくんですよね.だけどペンタブレットユーザーにとっては,Cintiqで,手がまた邪魔になった(笑)! でも,手を透明にする機能って僕らの体に染み付いてるんで,ものの数分で慣れるんですよねー. インターフェイスにおけるヒトの身体にあり方がここにある感じがします.僕たちは自分の身体を「透明にする機能」を持っている.道具のデザインが良くて,道具が身体に馴染んでいると言われることが多いけれど,「馴染んでいる=身体の透明化」だとすると,それは道具云々というよりも,ヒトの能力によるところが大きいのではないかと考えるわけです.
タブレットと画面が離れていると,手は視界に入らないわけだけれども,ペン先を示すカーソルは視界に入っているわけです.マウスとカーソルでも同じです.視界のなかに手はないけれど,カーソルはある.でも,カーソルは見えているのか見えていないのかよくわからない存在のまま機能している.それは,ヒトが自分の手を透明化するように,カーソルも透明なものになっているのかなと.
この対談を読んでいると,ヒトの身体は面白いなと思います.タナカさんがCintiq 13HDに対して「すごいことを発見した」と,

カツキ:あのね,発表しますと,Cintiqって机の上に…

「Nicolas Sassoon: Pixel Painter」を読んでみた_Nicolas Sassoon(2)

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Nicolas Sassoonについて補足するために,インタビュー「Nicolas Sassoon: Pixel Painter」を読んでみた.

興味深かったところは,Sassoonが初期コンピュータ・グラフィクスに興味があるというところ.そして,彼がコンピュータ・グラフィクスにはじめてふれたのが80年代後半のAtari 2600や,Minitelということ.とくに,Minitelというのがフランス人らしい.これらのことから,Sassoonが考えるコンピュータ・グラフィックスの「初期」とは,80年代の8ビットのグラフィックスになるといえる.

彼は「初期のコンピュータ・グラフィックス」の魅力を,それが低解像度であるがゆえに見る人の想像力による補足が必要であるところに見出している.そして,コンピュータのスクリーンには形式があり,それをもっともよく見せることができるのが「初期のコンピュータ・グラフィックス」だと考えている.だとすると,マクルーハンが映画に対してテレビは低精細なメディアだから,参与性が高くなるとしたことを,Sassoonはコンピュータ・グラフィックスの歴史で繰り返していることになる.

「初期のコンピュータ・グラフィックス」とここで言われている80年代の画像の特質などはまだ十分に考察されているわけではない.なので,そこに「ノスタルジー」だけではなく,コンピュータのスクリーンのひとつの特徴を見るSassoonの試みは,その80年代の画像の特質とコンピュータ上の画像の質感を考える上で有益なものになるだろう.

「テレビの砂嵐」のようなGrey #2_Nicolas Sassoon(1)

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http://cloaque.org で展示されているNicolas SassoonによるGrey #2.「テレビの砂嵐」のようなGIFアニメ.Sassoonは1981年生まれで,現在カナダ在住.彼のページにいくと「PATTERNS」という項目があって,そこには「Grey #2」同じような抽象的なパターンがいくつかあげられている.それらのパターンはGIFアニメもあればFlashもある.「PATTERNS」のほかに,「STUDIES」「OBJECTS」「OBJECTS」「INSTALLATIONS」などがある.

描かれているのは,総じて8ビット風のもの.なので,「あたらしい美学」として考えられるのかもしれないが,今まで名前を聞いたことがなかった.けれど,検索してみると結構いろいろと記事がでてくる.2011年にSara Ludyとともに行った「WALLPAPERS」という展示がRhizomeでレビューされていたり,http://societeperrier.com/というサイトで「Nicolas Sassoon: Pixel Painter」といインタビューが掲載されている.また,2008年にKrist WoodらとともにComputers Clubという作品を展示するオンラインスペースをつくっている.

はっきりいって,Grey #2だけ見ると,何だかよくわからない.なので,もう少し調べてみることする.


netartnet.netにはいつもお世話になっています

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ネットアート探訪をしておりますが,その情報源はnetartnet.netです.ネットアートの展示をリスト化しアーカイブすることに特化したサイトになることで,ネットアートを紹介してきた既存のRhizomeなどのサイトとの差別化を図っています.

netartnet.netは,アーティストのAnthony Antonellisによって2012年5月につくられました.最近では「news」というカテゴリーを新設し,ネットアートの世界を広げるような記事やインタビューを掲載しています.

広大なネットのあちこちで開催されているオンライン展を探すのは一苦労ですが,netartnet.netにいけば,今どんな展示が行われているのかがわかります.そこにレビューなどが掲載されていない分だけ,とてもシンプルに展示に辿り着けます.このサイトがあるから,僕は「ネットアート探訪」をしてみようかなと思いました.

この記事を書いて,Anthony Antonellisのことを調べると,彼はいま「The Photographer's Gallery」で展示を行なっていました.このギャラリーは去年.GIFアニメの展示「BORN IN 1987: THE ANIMATED GIF」を開催したところです[以前書いたこの展示の紹介記事→ロンドンのフォトグラファーズ・ギャラリーで「Born in 1987」展 開催(0713].いろいろとつながっています.そして,どんどん情報がでてきます.その情報は英語がメインです.それをかいつまんで日本語にしていくだけでも勉強になります.でも,勉強するだけでなくて,日本からも英語で情報をだすことも考えないといけないと思うものの,とても難しい…

《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》が示しているかもしれない「デジタル」や「ネット」にある質感に対する普遍的な感覚

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デジタルフォークロアで有名なオリア・リアリナ(Olia Lialina)とドラガン・エスペンシード(Dragan Espenschied)による《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》.

《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は,2009年に閉鎖されたアメリカのジオシティーズのまるごとを保存したArchive Teamのデータを使って(このあたりの経緯はHGWのBLANKの「インターネット時代の民藝品 3—メディア芸術プラザの閉鎖を、米ジオシティーズの閉鎖から考える」に書かれている),ジオシティーズにあったホームページのスクリーンショットを延々とTumblrにあげ続けるプロジェクト.

netartnet.netによると,《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》は2013年2月7日に始まり,2027年年2月7日に終わる.14年間のあいだ20分に1枚のスクリーンショットがTumblrに上げられる.そして,ただ画像が上げられるだけでなく,ホームページを分類するためタグが詳しくつけられている.膨大な量のスクリーンショットが詳しいタグとともに延々と上げられていくことに驚くとともに,14年後に「Tumblr」があるのかどうかも気になる.Tumblrがジオシティーズと同じ運命を辿らないとは限らない.

デジタルでもアナログでも記録は残そうとしなければ,残らない.そんなことを考えさせられる.10年後,20年後の人たちが《One Terabyte of Kilobyte Age Photo Op》を見たら,何を思うのだろうか.どこか「懐かしさ」を基本にしたことしか考えることができないでいるが,オリア・リアリナとドラガン・エスペンシードがやっていることは単に「懐かしさ」だけで片付けることはできないもので,未来の人のための確固たる「資料」をつくっているのである.しかし,その「未来の資料」に対して,私が抱くのは「懐かしさ」だけでしかないというのも事実である.ここには消された「過去」とそこから生じる「未来」のあいだのなんとも落ち着かない感覚がある.

「落ち着かない感覚」はある一定の世代しか感じないのかもしれないと思って書いていたけれど,もしかしたらこれは「普遍的」なものなのではな…

ひたすら待つのみ:Alain Barthélémy「Time Extended」

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Alain Barthélémyの「Time Extended」.場所は Fach & Asendorf Gallery

「時間が延長された」というタイトルの個展.Alain Barthélémy については,調べたけれど情報が出てこなかった.個人のページに行くと,風景画像の中央に「hello@alainbarthelemy.com」とあるだけ.

「Time Extended」のページにいくと真っ白な画面にURLが書いてあるだけ.カーソルを合わせると,白黒反転するだけ.URLをクリックするとそのサイトにとんでそこに「作品」がある.




「Time Extended」で問題なのは,URLが表示されているページのアドレスバーにある.アドレスバーには「http://fa-g.org/special/alainbarthelemy-timeextended/#32.3%」のような感じで,「/#32.3%」という数字がある,最初は「/#99.9%」でこれがどんどん減っていく.ある程度減っていて,「/#15.3%」くらいや「/#0%」になると,次のURLが表示される.
URLをクリックした先の作品は延々と「Floooooooooow」をスクロースするものだったり,上の画像の作品は,「色のコード」と対応した色が文字の色になっており,それが高速に切り替わるというもの.といったように,ワンアイデアなものが多い.だから,「Time Extended」は「待ち時間」を考えるための作品なのかなと思う.
ネットの通信が「はやく」なり,「待ち時間」ということをあまり意識することがなくなった.あるいは,ちょっとでも「待ち時間」があると,「もういいや」と次にいってしまう.GIFが流行ったのが待ち時間がなく,再生時間も短いからというのとは,真逆の作品である.「Time Extended」を体験しても,「のんびりとしたネットの時間がいいな」とは思うことはなくて,「早く次!」だったり,「他のサイトに行こう」としたけれど,次の作品見たさやURLが切り替わる瞬間を見たいという気持ちもあり,じっと我慢してディスプレイを見つめたのは面白かった.という意味では,「時間が延長」というか「間延び」した感じを味わえる作品である.

Evan Roth《One Gif Compositions》が示すパフォーマティブな画像(群)

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http://officechair-on-greenyellow.com

CBCNETで紹介されていた Evan Rothの《One Gif Compositions》には,文字通りの意味で「膨大な低解像度の画像がディスプレイのスキマを埋めていく」感じがあるような気がしている.単一のファイルを多くの別の名前にすることによって,ブラウザはそれぞれを独立したファイルと認識するので,ダウンロードやキャッシュに時間差が生じて上のような画像が生まれる.同一の画像のコピーがとても簡単にできるデジタルの特性とGIFのループをうまく組み合わせて,大量のアニメーションが画面を埋め尽くすようになっている.

「複製技術技術時代の芸術」での「複製技術」の範疇を超えてしまった「コピー」の連鎖みたいなものをこの作品に感じる.それは「オリジナル」と「コピー」という関係の消滅につながる.美術批評家のボリス・グロイスは「画像ファイル」に関して,ファイル自体は見ることができない,つまり「オリジナル」を見ることができないものだとしている.その上で,「画像ファイル」に基いてディスプレイに表示される「画像」は「コピー」ではなく,楽譜に基づいた演奏などに似た一回限りのパフォーマンス的なものであると指摘している[Boris Groys, From Image to Image File—and Back: Art in the Age of Digitalization in Art Power, MIT Press, 2008, pp.84-85.] ディスプレイに表示されている画像は「オリジナル」と「コピー」という関係が成立しないもので,パフォーマティブな画像だというグロイスの指摘は興味深い.

グロイスの指摘を経由すると,CBCNETでの紹介記事タイトル「同じGIFアニメを別名称で大量に再生することによって生まれるモーション表現」にある「同じ」「別名称」「大量」「再生」という3つの言葉が結びつているところが「画像ファイル」のひとつの特徴をなし,ディスプレイでのパフォーマンスに深くつながっていると考えられる.実際,ブラウザとキャッシュという仕組みをうまく使っているので, Evan Rothの《One Gif Compositions》は「画像ファイル」のパフォーマティブな部分が活かされた作品といえる.

Brad TroemelのPeer Pressureを読み終える

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Kindleで少しずつ読んできた,Brad TroemelPeer Pressureを読み終える.Tumblrをあらたな「生産システム」として,アートのあり方も変えるというところがアツイ.そこで起きていることを「図」もわかりやすかったと思う.そして,とにかく「書き手」がいないことが問題という指摘.書き手がいなくても,Tumblrなどのプラットフォーム上で作品画像は回っていくのだが,そこで文脈をつくるためには書き手が必要となる.Troemelはコンセプチャルアートと今の状況を比較する.それは今の状況とコンセプチャルアートは文脈がなかっためにアートワールドに受け容れられるためにテキストを作家自身が書いたという状況が似ているから.確かに,Troemel自身が作家であり,書き手でもある.


日本だとどうだろうかというと,「作り手」は多いけれども,「書き手」はほとんどいないという状況だろう.それは英語圏では,書き手が出てきた「後」が何となくあるような気がするけど,日本にはそれがない.要は,書く媒体があるかなにかということ.でも,それは隣の芝生は青く見い現象みたいで,Troemelはネットアートに関する2つの媒体RhizomeArt F Cityがあるだけで,それもまた批評的に機能しているかというと,そうでもないとしている.その点,やっと出てきたのがGene McHughのブログ「Post Internet」と書いている.そうだったのかという指摘.

この前の座談会でも少しでていたけれど,インターネット・リアリティ研究会で日本のネットアートの歴史から現在の状況までを考えてみてもいいのかもしれない.英語圏からのテキストからも,日本のことはゴッソリと抜け落ちているから,ここをしっかりと書くことができれば,きっと世界的にも興味深いものになるはず.私個人もGene McHughのように頑張る必要がある.

GIFとループと物語

GIF論文を書いていて,途中で外したテキスト.レフ・マノヴィッチが考えていたニューメディアの「ループ」のあり方とGIFのループとを比較することで,ループにおける「物語」の扱いを考えてみたもの.
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2001年に出版された『ニューメディアの言語』で,マノヴィッチは映像の「ループ」がニューメディアのひとつの特徴だとしている.そこには長時間の再生が難しい当時のコンピュータのスペックの問題があった.そして,マノヴィッチはループの映像の例として,QuickTimeやFlashアニメーションを取り上げる.さらに,マノヴィッチは初期映画とニューメディアはともに「ループ」というテクニックを用いていると指摘すし,映像の歴史を「19世紀の前映画的視覚的デバイスもまたループに頼っていた.19世紀を通じて,ループは長くなっていき,最終的には「物語」へと至った」と簡潔にまとめる.「物語」を語れるほど長く映像を再生できないので,ループ映像が必要だっというのがマノヴィッチの考えの根底にある.マノヴィッチにとっての「ループ」とは物語に従属した要素のひとつであって,「物語を駆動するエンジンとしてのループ」なのである.それは,彼がデジタルの5つの特徴としてあげたもののひとつ「モジュール性」と関係がある.

マノヴィッチが制作した《Software Cinema》や,ループ映像の例として取り上げられるジャン=ルイ・ボワシエの《押し花》は,ループする映像を次々とクリックしていくなかで物語が進んでいく構造になっている.クリックとクリックのあいだ映像が常に動いている必要があるが,長時間の映像を再生させることは難しく,短い映像のループが採用される.そして,映像へのリアクションであるクリックによって物語が分岐していき,ループ再生による映像が物語の「モジュール」として機能していく.ここでのループはプログラムの基本構造のひとつである「次の出来事」へ分岐するためのループとなっている.マノヴィッチが考える「ループ」は,プログラムの構造に基づいたヒトとコンピュータとのインタラクションの基本であるデータの処理を再帰させながら「次へ次へ」と選択を迫る性質を,「物語」を駆動する力に応用した映像なのである.

技術的制約のもとループに着目したマノヴィッチだが,同じ制約のもとウェブで使われているGIFに言及することはない.それは,G…

どこかに「笑い」があり,どこか「パーソナル」な感じがするアートユニット

芸術係数@genron cafe エキソニモ×辻憲行「夜の世界のネット・アート」に行ってきた.1週間ちょっとしかたっていないのけれど,もうすごく昔のように感じる.

トークは辻さんによるネットアートの歴史のレクチャーからはじまった.初期のネットアートは,冷戦とも関係していて,とても政治的であったという指摘や,ダダやフルクサスとの西洋美術史との流れとも関係しているということは,改めて勉強になった.この辺りは,辻さんが読書会をやっていたレイチェル・グリーンの『インターネット・アート』にまとめられているはず.エキソニモは『インターネット・アート』には取り上げられていない.
その後,辻さんが,JODIの作品の説明しているときに,Chromeが「日本語に翻訳しますか?」ときいてきて,翻訳すると意味不明な「半角」の文字が「全角」になったのは面白かった.JODIが作品を作ったときは,Chromeもないし,「翻訳」機能もなかったので,予期しない面白さがあった.
JODIの作品もソースを見ると「原子炉」が現われたりするなど政治的なものなのだが,そこで赤岩さんが「この作品を作っているのはきっとおじさんだと思っていたら,若い男女のふたり組で驚いた.結局,ネットアートは『部屋』からはじまっているだよね」と言ったら,辻さんが「エキソニモもそうですよね~」と突っ込んでいたのが面白かった.シリアスでありながらも,どこかに「笑い」があり,どこか「パーソナル」な感じするところが,エキソニモを独特な立ち位置にしていると思われる.
「笑い」の雰囲気は,エキソニモの紹介のスライドの最初に自らの説明としてあった「怒りと笑いとテキストエディタを駆使し、さまざまなメディアにハッキングの感覚で挑むアートユニット」につながっている.さらに,千房さんがこのテキストを読み上げたときに,赤岩さんが「そうなの?」って突っ込むところにも現れている感じがするのだが,冷静に物事を観察して,作品や言葉にしつつ,同時にそれに対して自分でツッコミを入れているところが,エキソニモにはあるのだと思う.
だから,スライドを用いてのエキソニモ自身による「エキソニモの歴史化」とでも呼べるトークはとても分かりやすくまとめられていて,ところどころ「笑い」も仕込んであり,「エキソニモ」を楽しく勉強することができた.まず,自分たちの活動を3期に分けていたのはとて…