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6月, 2013の投稿を表示しています

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_12

今年度もメディア芸術カレントコンテンツに記事を書くことになりました.
今年度最初の記事→作品をコピーしあう仲間たちのクラブ:《The Copy Companion Club》

《The Copy Companion Club》は現存作家の作品をコピーし続けます.デジタル情報になったら「⌘C+⌘V」でコピーできるのだから行為の上では「オリジナル」がなくなったように感じつつも,サイト上でオリジナルとコピーの作品を並列することで「オリジナル」の存在を強く押し出している感じもする.しかし,そこに掲載されている「オリジナル」の作品はデジタルデータ化されたものであるから,それ自体がコピーであるとも言えます.

《The Copy Companion Club》の創設者のひとりCaroline Delieutrazはネットを流通している画像を用いて作品をつくっているアーティストです.自己紹介文に次のような一文が書かれています.
 彼女は「オリジナル」の消去と呼ばれることや,それと関連するコピー・アンド・ペーストの世界という概念を恒久化しようとしているのかもしれない.しかし,画像データのオリジナルや他の人によってつくられた作品を否定するわけではない.それどころか,大本の画像は彼女の作品に統合され,重要な部分になる.She might be perpetuated what could be referred to as the deletion of the "original", a relative concept in a world of copy-and-paste, but she does not negate neither the origins of these data nor the work done by the others. On the contrary, direct sources of images are an integral and significant part of her work.  彼女の言葉からは「オリジナルなんてものはもうない」という意識と「いやいや,つくった人いるのだからやはりオリジナルはあるでしょ」という意識とが衝突しているようにみえる.「コピー・アンド・ペーストの世界」では概念としての「オリジナ…

「動詞から名詞へ,名詞から動詞へ」という感覚の切り替え

「それは「場所」ではない,もしくは,それは「選択範囲」ではない」という記事で論じたJan Robert Leegteの《Selection as an Object》(2013)から《The Act of Selecting Objectified》(2013)という作品が派生していた.


前作は予め描かれた選択範囲を示す点線の明滅とその影を見るだけだったが,今作は選択範囲を自分で決めることができる.カーソルを対角線上に引っ張ることで明滅する点線の四角を描くことでき,その下に影ができあがる.画面上でもう一度クリックすると選択範囲が消えるので,選択範囲とその下の影を何度でも描ける.

選択範囲を描くもしくは決めているときは,「選択範囲」そのものをつくりだしているという感覚が強くなるように感じた.それはPhotoshopなどで選択範囲を決めているときに感じるいつもの感覚にとても近いものである.そこには《Selection as an Object》で感じた「機能」が突如ひとつの「画像」及び「実体」になってしまうような感覚がなく,機能としての「選択範囲」を使っているという感じである.実際は何ひとつ選択していないし,選択範囲には不必要な影が示されるにも関わらず,そこで行われているのは「選択行為」でしかない.けれど,選択範囲を描き終えてしばらく明滅している点線の四角を見ていると,徐々にそれが実体化してくる.自分の手から離れるとそれは突如して影をもった実体としてそこに存在し始めるのである.

もう少し詳しく見てみると,選択を決めた最後のクリックの後にカーソルを動かさなければ,選択範囲の四隅のどこかにカーソルが残り続けて行為の痕跡を残している.だから,カーソルをその隅から動かさないあいだは機能として描かれた選択範囲と選択範囲の実体化とがせめぎあっている感じを受ける.カーソルをその隅から離すとそれを合図にしたかのように選択範囲が実体化する.

前作が《Selection as an Object》という名詞によるタイトルであったとのに対し,今作は《The Act of Selecting Objectified》となっており「実体化される」ものを選択していくというような動きとともにある行為を示唆している.このタイトルの変化からも今回の作品は,ヒトがコンピュータ上の画像とともに遂行する行為…

メモ:David Joselit『After Art』

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David Joselitの『After Art』はTumblrにおけるイメージ分析に使えそう.作者は「ポスト」と「アフター」のちがいにこだわっており,「ポスト」は切断するという感じで「アフター」は前のものの残響があるという感じがするので,「アフター」を使うとのこと.

アートの定義をリンクにまで拡げるというところはパーカー・イトーの考えを想起させる.だったら,イトーのテキストの引用すればと思ってしまうのだが,この本では「ポスト」インターネット的に活動しているアーティストは取り上げられていない.

ベンヤミンは「時代遅れ」と言い切ってしまっているところが爽快.そうですよね,時代に合わせて議論をアップデートしていかないと.作品がメディアの連鎖のなかに入り込むこと,メディアごとに作品がコピーされていきそのイメージが変化しいくのだから,「アウラ」なんてもうないも同然というか複数のアウラが同一の作品にあってもおかしくないわけです.

リンクというかたちでフォーマット・形式をつくるのが,アフター・アートの作品のかたちというのはまさにという感じがする.そして,作品を支えてきたとされるメディアはフォーマットの下部構造になる.メディアはモノであり,フォーマットはつながり.

作品によってあたらしいコンテンツをつくるという意識ではなく,作品によってこれまでなかったようなつながりのパターンを見出していくことが重要とされる.溢れている画像の「流れ」を変更していく.批評家はその「流れ」をトレースして明らかにすることが仕事.

ネットがスケールアップしていったときに検索可能性をもとめてGoogleがでてきたように,溢れる画像のなかでの検索可能性を高めることが現在のアーティストに求められている.このようなことを描いておきながら,ネットアートを扱うことはない.それはおそらくネットそのものにコミットしなくても画像は溢れ出しているということなのだろう.

作者が「フォーマット」といっていることを「形式」ではなく「初期化」と読み替えてみると面白いかもしれない.ポスト・インターネット的状況で活動する作家たちが「アフター」でなく「ポスト」を選ぶのは「切断」というよりもアートを「初期化」するということが意識のどこかにあるのかもしれない.そして,初期化した「後で・ポスト」でつくり続ける「ポスト・プロダクション」という…

メモ:Vineが6.5秒でInstagramが15秒

Vineが6.5秒でInstagramが15秒.この短さがリアリティをつくりだしていくのだろうか.正方形のとても短い映像.15秒はCMで見ている長さだから,とくに問題ないのかもしれない.YouTubeでCMがスキップされるまでの時間は5秒.5秒のCMをつくればスキップされない.スキップまでの5秒はとても長い.Vineの6.5秒も長いなと感じることがある.それはGIFを見ているからかもしれない.GIF,Vine,Instagramと短い映像が溢れていくインターネットのなかで,映像のあり方が変わり,私たちの認識の仕方も少し変わるのだろうか.

Vineが画面そのものにタッチして撮影するのに対して,Instagramは撮影ボタンを押す.これもまた撮影するときにちょっとしたちがいを生み出す感じがする.あと,Pokeは画面を押しながら撮影するだけではなくて動画を見るためにも画面を押さなくてはいけない.Vineは勝手に再生される.これもまた映像に対して感覚的ちがいを生み出す感じがする.


オリジナルか,コピーか? 「PSD」が示す微妙な感覚

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Width: 700px; Gallery でMichael Bussellの個展《Original Copy》が開催されている.《Original Copy》は2012年の作品であるが,今回のオンライン展示に合わせて再解釈され,作りなおされている.

Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにいくと作品の画像が展示してあり,画像のタイトルをクリックするとPhotoshopのファイル「PSD」をダウンロードすることができる.Busselは展示されている画像そのものではなく,ダウンロードした画像を編集してもらうなどのインタラクションにフォーカスが移ってきていると考えている.そして,Bussellはこの考えをWidth: 700px; Galleryの展示で自らの作品を改変することで実践している.
Bussellの考え方自体は作品を見るためには「PSD」ファイルをダウンロードしなければならない「The. PSD Show」や展示作品を改変可能でネットにアップした展覧会「new jpegs」などにも通じることがあり,ポスト・インターネット的状況においては「当たり前」となった考え方といえる.

ここで注目したいのはBussellの作品タイトルに使われた「オリジナル」と「コピー」という言葉である.Bussellが書いているように,Photoshopは現在の暗室のような存在であり,そこで使用される「PSD」ファイルは写真の「ネガ」のような「オリジナル」的存在である.しかし,その「オリジナル」は劣化なしで「コピー」可能である.Bussellの《Original Copy》ページから「オリジナル」の「PSD」ファイルをダウンロードした場合,それはデータ的には「オリジナル」な感じがあり,心情的には「コピー」という感じがする.ファイル形式が「JPEG」ならそれはもう「コピー」という感じになるが,「PSD」だと微妙な感覚である.
Width: 700px; Galleryでの展示は会場に合わせて低解像度の画像が展示されていることもあり,5つの展示室を連続して見ているとそれらはつくり直した作品というよりはコピー作品という感じがしてくる.5つの展示室を抜けて最後の部屋にいくと5つの「PSD」ファイルのアイコンが展示されている.それをクリックするとBussellのペー…

「Like」の価値をあげてしまって(やっと押せたヒト限定)もいいじゃないですか〜

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MAADONNA (aka Emilio Gomariz @ Kim Asendorf) による《Can You Like This》は,「Like」ボタンをカーソルで押そうとするボタンが逃げてしまって,押せないという作品.それだけといえばそれだけの作品.

僕はいまのところ「Like」できてないけれど,この作品を知ったサイト「prosthetic knowledge」にあった画像ではLike数が「343」で,僕が押そうとしているLikeは「614」なので,がんばれば押せるのかもしれない.
カーソルからボタンが逃げるのであれば,直接ボタンを押してやろうと,iPhoneで《Can You Like This》を試してみた.すると,ボタンは押せるけど,押した瞬間にボタンが違う場所に移動してしまう.数字は変わらない.やはりズルはだめということなのでしょう.
カーソルでボタンを押そうとして押せないようなゲームは昔からあったかもしれないけれど,そのボタンが「Like」ボタンになるだけで,俄然意味が生まれるところが面白いです.それほどにFacebookの「Like」は「ボタンを押す」という単純な行為に大きな意味をつけたのでしょう.
「Like」ボタンといえば,インターネット上の秘密結社であるIDPWのポルトから《どうでもいいね!》が世に出され,メディア芸術祭エンターテイメント部門で新人賞を受賞したこともつい最近の出来事.「どうでもいいね!」の説明は以下です.
インターネット中に溢れる「いいね!」ボタン.増えすぎちゃってそろそろ溺れてしまいそう.いいも悪いも義理もとっておきも全部まとめて「いいね!」したい. そんなあなたにお届けする“どうでもいいね!”ボタンはワンクリックで画面上に表示されている 「いいね!」 を自動でだいたい全部をクリックしてくれる,Google Chrome機能拡張です.
《Can You Like This》も《どうでもいいね!》も,なんでも「Like」してんじゃねーよという批判精神,それは僕たちヒト側もそうだし,「Like」ボタンだって「もう押されたくない!」と逃げまわってもいいじゃないですか.クリックするごとに良いにしろ,悪いにしろあらたに情報が発生するわけだから,あえて押しまくって情報の質をスパムようなものに変えてしまってもいいし,なかなか押せないのもそのもどかし…

「INFOspirit」という大きな構造体のなかで「神」が顕現する条件

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Kevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」を読み終える.Bewersdorfは2007−2009年にインターネットでテキスト,音楽,映像とさまざまな媒体で作品を発表したが,その後ネットから自分の痕跡を消去したアーティストである.なので,「Spirit Surfing」はネット上にまだ残っている彼の痕跡や,サルベージされたデータを編集してつくられた本になっている.

Bewersdorfは「経歴」のなかで次のような言葉を残している.

私は自分のラップトップを躊躇なく崖に投げ捨てるだろう(コンピュータは「INFOspirit」に至るひとつの入り口である).データはすでにネットに蒔かれているし,そのデータは私に関係するものである.
この言葉を実践したのち,Bewersdorfはネット上にひろがる自分に関するデータを消去し始めたのである.編者のDomenico Quarantaは,Bewersdorfによるオリジナルが突如として失われたので,ネットに残された彼の作品に関する低解像度の画像や映像,MP3のデータが貴重になったと指摘している. マルセル・デュシャンがチェスに没頭して,突如アート界から消えたように,Bewersdorfはネットから自らのデータを消去した.

自分のデータをネットから消去するだけなら特に問題にはならないだろう.それは今では誰もがやっている.だが,先に引用した「経歴」に書かれた「INFOspirit」という言葉が示すように,Bewersdorfはネットに「スピリチュアル」な存在を見ていた.ネットは物理的に破壊されうるが,「INFOspirit」を壊すことはできない.この考えが彼の行為を複雑なものにしている.「データ」は消すせるが,一度ネットに記された「INFOspirit」は決して消去されない.このことを実証するように,Bewersdorfは自らのデータを消した.そして,それらは「スピリチュアル」な存在になった.だからこそ,QuarantaはBewersdorfの痕跡をかき集めて編集して書籍をつくり,またネット上の人々によってShare your Sorrowというまとめサイトもつくられた.Bewersdorfはデータを消した.けれど,ネットという構造体は「消去」を許さない.それはネットにアップされた時点で,半ばBewersdor…