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7月, 2013の投稿を表示しています

メモ:「フィジカルな場の危機」と「フィジカルに注目!」

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Winkleman Galleryで開催されている「Send Me the JPEG」とインターネットヤミ市とを比較すると面白いかもしれない.

Send Me the JPEGはタイトルからも分かるようにJPEGを展示するグループ展.ここの問題意識は近頃,ネット上の画像だけで作品が売れることにある.つまり,作品を直に見ることがなくなってきている.フィジカルではなくネットで! ということ.


対して,インターネットヤミ市はネットではなくフィジカルで! ということ.ネットでのデータのやりとりは便利だったけれど,近頃少し窮屈だからリアルの場で直に会って,いろいろとやりとりしようということ.

これに加えて,インターネットとアートワールドとの関係を考えると興味深くなります.英語圏では現代美術のマーケットがあって,そこにいかに入り込むのかを多くのアーティストが考えていて,ブラッド・トルメルのようにネット上での活動をマイナーリーグと位置づける人もいる.また,ギャラリーは販路拡大のためにネットを使う.要するに,アートワールドがインターネットを取り込みつつある.そのなかで「フィジカルな場の危機」が叫ばれている.そこへの風刺として,フィジカルな場であるギャラリーで作品のJPEG画像を展示しようとWinkleman Galleryが企画したのが「Send Me the JPEG」になる.

対して,日本ではアートマーケットそのものが存在しない.だから,ネットアートだろうが,インターネットを使ったアートであろうが,そんなものは端からアートワールドとは独立して存在している.メジャーなアートワールドに対してのマイナーリーグとしてネットが存在しているのではなく,独立リーグとしてネットは機能している.そのなかで「フィジカルに注目!」になっている.

ここまで勢いで書いたけれども,これがどういう関係を示すものなのかよくわからなくなってきた.


アートワールドはネットを取りこみ,フィジカル放棄へ日本のインターネット・リアリティ(の一部)はアートワールドとはもともと関係が薄く,そこからフィジカルに注目へ

いや,ポスト・インターネット世代のアーティストはアートワールドに取り込まれはじめるとフィジカルな展示にいくということもある.でも,彼・彼女らの作品の多くはネット上でJPEG画像で流通してしているし,それを良しと…

MAPSが示す「正しい」画像とズレの吸収

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TRIANGULATION BLOGで取り上げられていたKim AsendorfさんのあたらしいプロジェクトMAPS.MAPSはGoogle  Mapsを抽象的な画像にしてしまう.


ズームアウトしてみているとそこには確かに地図が現れているのだけれど,ズームインしていくとだんだんと抽象的な画像になっていく.この抽象的な画像が何かに似ていると思ったら,ラファエル・ローゼンダールさんの作品だった.「ベクター画像」のような鮮明さが似ている感じをつくっている.

ただMAPSでは地図を拡大するときに,ときおり「ラスター画像」になるような感じがする.実際は「ラスター画像」と「ベクター画像」が入れ替わっていないちがう方式で拡大しているのかもしれないけれど,スムーズに拡大しているときに現われる一瞬の「不鮮明さ」は興味深い質感を示している.拡大前と後の画像に生じるズレを吸収して「正しい」画像を提示しているというところだろうか.ここでの「正しさ」とは地図を明確に示すという目的のためのプログラムに基いているということであり,その意味では一瞬見える不鮮明な部分も「正しい」画像ということになる.しかし,その画像を見ているヒトにとっては,その切替のプロセスが「ズレの吸収」に見えてしまう.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_13

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記事を書きました→リアクションが全く生じないメッセージアプリ「ETHIRA」

アマリア・ウルマン(Amalia Ulman)氏の「ETHIRA」というメッセージアプリについて書きました.タイトルにもあるようにこのアプリはメッセージへのリアクションが全く起こりません.ただただメッセージを投稿するのみのアプリです.

メモ:「ファイル形式」から画像を眺めるというか

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ICCucnvさんの展示を見てからグリッチがまた気になり始めた.現在の画像を考える上でとても大きな手がかりを示していると思う.表現にファイル形式が大きく影響するというか,その表現をファイル形式が規定しているところ.しかも,「正常」に見えている時よりもファイル形式のちがいが際立つというところが面白い.

ある写真のオリジナルから派生,変化した多数のさまざまなヴァリエーションが展示されています.それは,オリジナルに近いものから,同じ写真とはまったく認識できないほどの変化にいたるまで,その状態は多様です.これらの写真には,コンピュータの画面でときどき見かけるような,画像がうまく適正に再現されなかった状態と同じことが起こっています.すべてが,もともとは同じ写真,つまり同じイメージを持ったものでしたが,それぞれに異なるのは,その画像のデータ形式です.同じイメージを表示していても,その画像データの形式が異なっているために,データに欠損を生じた際の現象,表示された状態に差異が生じているのです. http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2013/Openspace2013/Works/Tab_Glitch_j.html 
 ICCのページにある解説文を読むと,そこにはグリッチとともに最近気になっている「オリジナル」という言葉が書かれていた.ここでの「写真のオリジナル」というのは「見え方」がオリジナルということになるであろうかということを考えた.「見え方」は同じでもファイル形式が異なる場合,どれがオリジナルになるのであろうか.

グリッチに「オリジナル」はないのか? すべてがオリジナルなのか? 大量の同一モチーフのグリッチを目の前にすると不思議な感覚になる.  ICCでucnvさんの作品を見ながら書いたメモ 
RAW,PSD,JPEG,GIF,PNGなどなど.これらのファイル形式にグリッチという現象が起こると,画像がそれぞれファイル形式に特有の「破損」が起こる.「破損」が起きたもののほうが,そのファイル形式が際立つので唯一無二の「オリジナル」と思ってしまう感じもある.でも,そのファイル形式は「説明」がないとわからない人がほとんどだと思う.


そして,Kim Asendorfさんがファイル形式に着目して「ExtraFile」というものを作ってしまったのもとて…

ラファエル・ローゼンダールの「ガスのような作品」

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昨日,川崎市民ミュージアムラファエル・ローゼンダールインターネット・リアリティ研究会でのトークをしてきました.トークに来てくれた方ありがとうございました!

トークはとても興味深いものでうまくまとめて紹介したいのですが,自分も登壇者だったのですべてをまとめる余裕がないので,トークの紹介というよりもトークで自分が気になったことろ及びローゼンダールの展示から考えたことを書いていきたいと思います.

展覧会でローゼンダールが展示していたのは《looking at something》でした.ネットでも体験してもらえるとすぐにわかるのですが,カーソルやタッチのインタラクションに応じてブラウザに表示されている天気が「晴れ」や「雨」,「雷雨」に変わるというものです.展示は3つの画面がプロジェクションされていて,それぞれを映像の正面に置かれた展示台上の「トラックパッド」でコントロールするというものでした.


インスタレーションとネット上の作品のちがいは画面の大きさやその数などありますが,「カーソルの有無」が個人的にはとても気になりました.インスタレーション版ではカーソルはありませんが,ネット版ではパソコンで体験するとカーソルがあって,スマートフォンではカーソルはありません.

自分のなかではカーソルがあるパソコンでの体験が一番作品とインタラクションを行なっている感じがします.自分の指の行為がカーソルに反映され,それがしっかりと「カーソル」の位置として見えているからなのだと思います.カーソルがないタイプだとスマートフォンの方がよりインタラクトの度合いが深いかなという感じです.インスタレーション版は,プロジェクションされた画面とトラックパッドとのあいだの距離があり,自分で動かしているのは確かなのだけれども,そこには本当に自分が画面をコントロールしているのかという小さな疑念みたいなものが浮かんでくるというか,インタラクションで「自分と画面とがつながる」,インタラクションの研究者・渡邊恵太の言葉でいうと「帰属感」を感じるまでにわずかに微小な時間のズレがあるという感じです.
インタラクション版に感じたズレが「悪い」というわけではなくて,作品を体験する環境によって微妙に異なった体験ができるということが重要だと,私は考えています.トークでローゼンダールに作品の「オリジナルとコピー」について質問し…

告知とメモ_トーク・イベント:ラファエル・ローゼンダール+インターネット・リアリティ研究会

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7月20日(土)から川崎市民ミュージアムで始まる「セカイがハンテンし、テイク」展の関連イベントでアーティストのラファエル・ローゼンダールインターネットリアリティ研究会によるトークイベント(20日14:30から)があります.お時間があるかたは是非お越しください.

以下,ラファエル・ローゼンダールについてのメモです.

ラファエル・ローゼンダールはネットに多くの作品を発表しています.そして作品を掲載しているドメインを売るという手法で「ネット上の作品を売る」という行為を成立させました.例えば,falling falling .com(2011)にいくと作品が見られると同時にタブの部分に「collection of hampus indwall, falling falling .com by rafael rozendaal, 2011. sound by gloumouth1」とオーナーの名前と作品クレジットが記されています.


ここで興味深いのは,作品がhampus indwallに購入されているのにも関わらずネットに自由に見ることができるという点です.その理由は作品売買の契約書(契約書のテンプレートは公開されています→http://www.artwebsitesalescontract.com/)にあります.そこには「作品オーナーはウェブサイトをオンラインに残し,みんながアクセスできる状態にしておかなければならない」と書かれています.なので,気に入った作品を購入しても一人占めはできないようになっているのです.このことはネットにおける「所有」という概念を考える上で重要なひとつの例だと考えられます.

契約書で気になる点が「データの引渡し」の項目です.そこでは基本的に3つのファイルが引き渡されると書かれています.

オンライン・ファイル:ウェブページを表示するのに必要なもの展示ファイル:MacやPCで展示を行うためのものソース・ファイル:将来,必要になるかもしれない修復のためのもの
これら3つのファイルが引き渡されるわけですが,これらのどれもが「オリジナル」として機能することになるのか,それとも「ソース・ファイル」が「最も」オリジナルなものなのか? もしくは,ここで引き渡されるデータそのものがローゼンダールがつくった「オリジナル」のコピーになるのか? もともと「オリジナルとコ…

インターネット・ヤミ市2で感じたこと

とにかく人が多かったです.ひとひとひとひとひとという感じ.そんななかあいも変わらず「論文」を売っていたわけです.暑くて汗が論文の上に落ちました.インターネットと汗,いいですね.「インターネット」という言葉.これを枕詞にしているのが「インターネット・ヤミ市」なのですが,インターネットおにぎり,インターネット日本酒などなど.インターネットってなんなのでしょう.ヒトがつくっておきながら制御できなくなりつつあるもうひとつの自然なんて感じではなくて,そこにある「インターネット」.枕詞としての「インターネット」.
インターネットヤミ市なのにインターネット全然してなかった!
— sekineyuco (@corinyou) June 30, 2013

インターネットが当たり前になった今、前回に増して“インターネット”が関係ない感じの商品が多かったのがよかったし、体験ものも多かったのがまた2.0っぽい感じがしてよかったです。 #yami2
— hgw (@hgw) July 1, 2013
インターネット時間のとてもはやい流れは初回のときにあった「インターネットのモノ化」の状態はあっという間に通り越していって,モノ化したインターネットそのものもまたサービス化してまたインターネットしてしまったのかもしれない.そうするとどこもかしも「インターネット」なので,「インターネット」が関係なくなり,それが枕詞として機能することになるのだろうかと上の2つのツイートから考えました.

これらのツイートの他にヤミ市はインターネット1.0ぽいというのもTwitterかなんかで見たような気がするのだけれど,そのツイートは見つけられなかった.なので,それは僕の感想の反映なのかもしれない.インターネットヤミ市はどこか初期のインターネットがもっていた様々な制限からくるリアルとの「切断」を巡り巡って「リアルの場」につくりだしている感じがするんです.でも,そのように自分が感じることが不思議でもあります.なぜなら,僕は初期のインターネットに興味がなかったというか,そこへのリアリティを感じることがなかったのでほとんど知らないからです.じゃ,なんで上のような考えになるのかというと,僕には「インターネット・リアリティ」の基礎体力みたいなものが足りないからではないかと.この距離感をどうにかしたいという思いがいろいろと自分…

インターネットヤミ市2で手に入れたものたち!!

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インターネットヤミ市2に参加して「査読コメントつき査読落ち論文」と「touch-touch-touch tag:エキソニモ」と「読み終えたPDFのデータ」と「女子大生のインターネット雑談の音声データ」を売ってきました.どれもまあまあ売れました.「まあまあ」と書いていますが,もともと「売れる」ものではないものが売れていくのはおもしろいことです.そして,売り買いするときのちょっとした言葉のやりとりがおもしろいのでいいです.




今回のヤミ市で手に入れたものたち.cookedさんの青焼きポスター.エキソニモの千房さんの顔に「音量調整」の画像が入っているのがよかったので即買い.ポスターをリュックに挿して名古屋に帰るさいに徐々に紙が凹んだりしていくのがフィジカルだなと.今は下の写真のような状態です.

チバガクさんのカッコイイ作品も買いました.普段はTumblrのダッシュボード上でチバガクさんの作品を見ているので「上から下へ」という流れで1枚1枚見ているわけですが,今回は複数の作品が乱雑に平面に置かれているので,作品の一部は重ねっているし,自分で勝手に選り分けることができたりするわけです.フィジカルな状態でのモノとして作品を扱っているという感覚とフィジカルな風景をイメージにしてそれを乱雑に操作することでそこにフィジカル感を示しているようにみえるチバガクさんの作品の印象とがミックスされて,なんとも言えない不思議な感じでひとつの作品を選んでそれを購入して自分のものにするのが面白かった.

他に手に入れたものは.セミトラの柴田さんが売っていた「土地」.「土地を売る」ってなんだろうと思ったけれども,柴田さんのブースにいくとパソコンがあってそこに「住所」を打ち込むと「http://diary.yusukeshibata.jp/」と書かれた紙(下の画像の左上)を渡されて,その「住所」でアドレスにアクセスすると柴田さんの日記が読めるというものでした.柴田さんの日記が掲載されているネットの「土地」へアクセスできる権利と自分が書いた住所が示す「土地」のふたつを組み合わせて買った感じがします.いや,自分が書いた「住所」は「買った」というよりも「ネットの土地」と引き換えたというか,アクセスのための「キー」として登録したという感じかもしれないです.「土地」という言葉が使われているから,よくわからなくなってい…

メモ:VIlem Flusser "Into the Universe of Technical Images"

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Into the Universe of Technical Images (Electronic Mediations)
ヒトとコンピュータとの複合体としてメディアをより精緻に考えるべきだとフルッサーは考えていたと,マーク・ポスターは述べつつ,ドゥルーズもメディアを考えてこなかったとしている.
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テキストとイメージが交代すると二次元的な情報になる.

次元をもたない画像とポスト歴史→「貧しい画像」に囲まれているというのはまさにポスト歴史なのかもしれない.いやいや画像に「深さ」を求めるをやめるべきだとライダー・リップスなんじゃないの.そこに見えているものだけだし,そこにユーモアがあるかどうかでしょ.

テクノ画像がもっている幻覚的な力←これどういうことなのかもう一度読んでみるべき.

機能のための粒子・パーティクル.粒子の計算.ピクセルの計算.

「見えない可能性」から「見えている起こり得ないこと」へ.これは大きな変化←と書いたけれど何が大きな変化なのだろうか.「見えない可能性」を探ることをやめようとすることには賛成.「見えている起こり得ないこと」って,CGとかの表現なのだろうか.それもそうだけれども「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」みたいな感じもありだとすると,the Joggingが日夜上げている画像のようなものになるし,それが「深さ」ではなく「ユーモア」で考えることができるとすると面白いのかもしれない.

インターネットがコピーを誘う.誘惑された認識と選択.

ヒトとコンピュータとの複合体から生まれる表象←これをあたり前に見てきた世代・状況としてのポスト・インターネットと考えてみてはどうだろうか?

「分解」と「構成」というふたつの相反する要素をもつテクノ画像.

作品(手),イデオロギー(眼),物語(指)を従えるコンピュータ・プログラム.テクノ画像の時代=世界実装の時代.

ボタンのひと押しが「公私」の区別を破壊する!→リブログというボタン!

ボタンを押し続ける→脳の構造→Tumblr!

空白に投射されるイメージ.空白ゆえのコピーなのではないだろうか?

「鏡のようにプログラムされている」だから,壊すと「本質」が生じる.世界をただ映し出しているだけではそれは世界のコピーでしかない.壊れることで世界が壊れ,鏡の本質がでてくる? 鏡の乱反射・コピーだらけのなかに出て…