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CBCNETにテキストが載りました!

CBCNETにテキストが載りました!→『エキソニモの「猿へ」』を読み解く 〜 水野勝仁:《DesktopBAM》がミスると猿がキーキー叫ぶ

ずっと読んでいた媒体に自分のテキストが載るというのはうれしいものです! 力を抜いて書いていたら,あらぬ方向へ着地した感じなりました.でも,エキソニモが投げかけられた「猿へ」に対して,何かしらの応答ができているのではないかと思います.

上のテキストではコンピュータが「間違える」ということについて,三輪眞弘氏の逆シミュレーション音楽と絡めても書きたかったのですが,うまく書けなかったのでまた挑戦したいと思っています.

そして,
『エキソニモの「猿へ」』に関して,これで5本目のテキストになります.その他のテキストは以下になります.

メディア芸術カレントコンテンツに書いた展覧会全体のまとめ的なテキスト
アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催
上のテキストの告知→お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_17 

自分のブログで「1999」「2005」「2009」と展覧会のセクションごとに書いた3つのテキスト
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた 
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない 
「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(3):あとはPCにまかせた 

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(3):あとはPCにまかせた

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「2009」セクションは,「あとはPCにまかせた」とキャプションに書かれた《DesktopBAM》(2009)から始まる.「あとはPCにまかせた」という言葉の通りこの作品ではカーソルがプログラムされた通りに動くことによって,QuickTimeのファイルが再生・停止を繰り返しビートを刻み,ボイスオーバー機能によってMacが歌う.その演奏はコンピュータ単体で行っているからこそできる高速かつ正確なカーソルの動きで可能になっている.カーソルは動いているが,そこにはヒトが介入する余地はない.周りの音を取り入れる箇所があるので,そこでヒトは自らの声を演奏に介入させることができるのみで,普段は自分の手の延長,もしくは分身として動かしているカーソルとのつながりは切れている.ヒトとの関係を絶ったまま,カーソルはコンピュータを「再起動」させる.画面上の画像にすぎないカーソルが,それ自体を動かす基盤となっているモノに作用する.画像とモノとのあいだの情報の流れのなかから,ヒトは完全に放り出された状態で,ただただ演奏を聴くのみである.

「2009」セクションの大半は連作「ゴットは、存在する。」(2009−)で占められている.このシリーズについてはICCや国立国際美術館での「世界制作の方法」展のときに一度論じている(→イメージを介して,モノが「祈る」「情報機器に在るはずのない精神を感じさせる」存在としてのカーソル )「ゴットは、存在する。」の作品には「お手を触れないでください」マークがつけられている.ここでも「あとはPCにまかせた」状態である.

今回特に気になったのはGoogle日本語入力の「かみ」の変換候補を示し続ける情報彫刻《迷》(2010)である.《迷》では変換候補をループし続けるためにキーボードのスペースキーのところに「りんご」が置かれている.以前この作品を見た時にはアルスエレクトロニカのトロフィーがスペースキーを「押し」ていた.今回は「リンゴ」.キーボードの上にあるMac miniにも「りんご」が描かれている.これは洒落だろうか.コンピュータにとってはキーボードを押す存在がヒトである必要はないわけで,りんごもキーを「押す」ことができて,そのことによってコンピュータが「迷う」.ヒトも変換候補をどうしようかとスペースキーを押して迷うけれど,りんごも迷える.りんごというひとつの決定を…

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_17

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記事を書きました→アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催

ブログでは個別の作品紹介をしないで書いているので,今回は短いですがひとつひとつ紹介していくかたちにしました.記事を書いていて,最後にポール・ゴーギャンの「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」というタイトルの絵画のことを思いました.いつもよりも長くなっていますが,読んでください.そして,展示を見に行ってください.



「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない

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「エキソニモの『猿へ』」2回目.「2005」の謎を解明しに行くためにというか,ひっかかりを探しに.あと「2005」セクションでの《断末魔ウス》のあり方を考えてみた.


「2005」セクションにあった《Object-B VS》(2006)[参考:WORLD B / 意識を裏返し、B面をPLAYせよ]を結構長いあいだやった.銃を撃ちまくって,相手となる(?)転がっているヒトも何度も撃った.撃ちまくっているとスクリーンの向こうにある「オブジェクト」が動きだす.唸りだす.ずっとやっていくなかで感じる気持よさと,銃を撃っていることとオブジェクトの唸りが重なり「あちらの世界」との関係を感じたりする.なんとなく感じる「あちらの世界」.ヒトではないものが存在するあちらの世界.そんなあちらに向かって銃を撃ち続ける.実際の銃は撃ったことはないけれども,ここではあちらに向かって銃を撃ち続けている.と言っても,銃からでてくるのは「弾丸」ではなく,様々なオブジェクトであって,これはこちらの世界では絶対に体験できない.

その後,《DEF-RAG》(2008)を見続けた.時間操作されたスクリーン.連続して流れる時間から切り離されたコンピュータの時間とそれを映し出す映像.この時間の「切り離し」を強調する時計と時間のズレなど関係なく存在していうような全く動かない自動車の衝突試験用のダミー人形.そして,映像にはかつていた自分が映しだされている.これは「メディアアート」と呼ばれるものにはよくある作品である.では,エキソニモの独自性はどこにあるのか.それは「見せている」ことなのかなと思った.スクリーンの映像をつくりだすコンピュータ,そこから伸びるケーブルの類がすべて隠されていない.コンピュータの基盤までは見えないけれど,ケーブルが見えるだけでも,ここから映像がつくりだされるということが分かるし,電源ケーブルで電気の流れも可視化される.作品を作り出している部分が露わになっており,映像に写り込んでいる.時計の裏を覗くと,時計を動かしている機構も見える.「あちらの世界」をつくりだすものがすべて「こちらの世界」にあることを示す.ケーブルで結ぶばれたかたちで「こちらの世界」にある様々な機械が「あちらの世界」をつくりだす.そして,ダミー人形は全く動かないことで「こちら」と「あちら」の双方の世界に「同時」に,あるいは「…

「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(1):「1999」と全体の流れを考えてみた

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「エキソニモの『猿へ』」を見てきた.考えるべきところはたくさんあって,ひとつひとつ潰していくと次の「風景」が見えてくる感じがする.

最初の狭い通路.期待感を持たせるし,「ナローバンド」という言葉とも結びつけられる.狭く長いからこそ「ネット」のオリジナリティが今よりもあったのかもしれない.狭い通路の先で回り続ける「地球」はネットがよりネットだったときの象徴としてあるのかもしれない.そして,そこで語られるエキソニモのステートメント.インターネットを手に入れた人類とその急激な進化は,ネットそのものの変化でもあった.



ステートメントの先には「1999」という文字が床にある.今から14年前の風景.次のセクションは「2005」で,その次が「2009」.「1999−2005」のあいだで,ネットは一般化していってひとつの風景になった.このセクションにはみんながつくったRGBのきらめきがプロジェクションされ,ネット上の構造=意味が剥奪された画像が飛びかっている.このあたりはとても「今」を感じさせる.それは集合知やその反対といってはあれだけれどもタガが外れてしまった「集合愚」にもなりうるような麻薬のような効果をもった「インターネット」を感じさせるという意味での「今」.



そして,Googleの検索窓がひとつの風景だった時代を示す絵画の展示.ブラウザのアドレスバーが検索窓になってしまった現在では,Googleの検索窓の風景は誰もがよく見る風景ではなくなっているとともに,絵画に描かれた「Internet Explorerの窓枠を含めた風景」そのものも,ブラウザのアップデートとGoogleのデザイン変更によってなくなってしまった.なので,この絵画に描かれた誰もが同じデザインを見ていた時代が懐かしい.風景は消滅したが,それを「撮影」したスクリーンキャプチャーの画像は存在し,その画像が中国に送られ人力APIとしての絵師によって「絵画」に変換され展示されている.だがこの絵画は「レプリカ」である.この作品でオリジナルとされる絵画はGoogleに所蔵され,一般の人は余程のことがない限り見ることができない状態にある.しかし,もともとが誰もが見る風景の「スクリーンショット」であり,それを「絵画」にするということでは,オリジナルもレプリカもないのではないだろうか.もともとインターネットを介してディスプレイに…

グリッチの表と裏:「幸村真佐男 glitch」展を見て

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名古屋のギャラリーノイボイで開催された「幸村真佐男 glitch」展を見てきた.ギャラリーの壁面に大きくプリントされたグリッチの画像が展示されていた.そのなかで特にガラス面に展示された作品が興味深かった.ガラス面のほうにグリッチ面=印刷された面を向けているので,展示室内からみると印刷面の裏を見ることになる.単に印刷の裏面なんだけれども,グリッチの「裏」を見ている感じがして面白かった.「グリッチの裏」ってなんだろうという疑問自体が面白い.

ヌケメさんのグリッチ刺繍の裏側とかも面白いかもしれない.見たことはなけれども,表はグリッチで,裏もグリッチぽい感じでも1本の糸がつながっている感じではないだろうか.

幸村さんのは画像をプリントしたものだから,表と裏とではズレがないというか,表の画像が裏に透けているだけなのだけれど,裏から見たグリッチは異質な感じがした.

作品を見ていて,幸村さんが「デジタル写真はCGだ」と言っていたことを思い出した.今回のグリッチの展示はその「CGさ」が際立っていた.データの不具合が表出されたことによって,データを具現化していく演算との関係が見えてくる.不具合を起こすことでそこに「演算」が見えてくる.グリッチの裏側を見ることは「演算」の裏を見るということには直に結びつきはしないけれど,表が「演算」を強く意識させればさせるほど,裏の意味を考えてしまう.


印刷されたものの表と裏.データの印刷の表と裏.グリッチの印刷の表と裏.データの表と裏.グリッチの表と裏.表があったら裏があるのか? 表もなければ裏もない.そんな世界もあるのではないか?