ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(2)

みえないちから」を利用する
では,今の私たちを取り巻く通信環境はなんなのだと言えば,それは「みえないちから」によって支えられているといえます.いきなり「みえないちから」という言葉を使いましたが.この言葉は,インターコミュニケーション・センター(ICC)で行われた展覧会のタイトルです.ICCというのは通信会社のNTTがもっているメディアアートのための機関です.前のふたつの文の中に,このテキストが扱っている主要な要素「通信」「メディア」が入っていることに気づいたでしょうか.そこで,ナウシカの世界におけるコミュニケーションを考えるために,現在のメディアの状況を批判的に捉えるメディアアートを参照してみたいと思います.今回は作品ではなく,展覧会のテキストに注目して,メディアアートでどのようなことが問題になっているのかをみていきたいと思います.それでは早速,「みえないちから」展の主旨を引用してみましょう.

このたび,NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] では,「みえないちから」展を開催いたします.
ドイツのアニメーション作家であり,音楽映画の名作として知られるウォルト・ディズニーのアニメーション作品《ファンタジア》(1940)の制作初期の段階に協力したオスカー・フィッシンガー(1900–67)は,「すべてのものに精霊が宿っている」と言い,その精霊を解き放つためには「そのものを響かせればよい」と言いました.この言葉は,アニメーションの語源が「アニマ(生命を吹き込むこと)」であることを想起させるとも言えますが,それ以上に,あらゆる物質がその中にエネルギーを宿しているということをほのめかす言葉だと言えるでしょう.
アメリカの作曲家ジョン・ケージは,このフィッシンガーの言葉にインスピレーションを得て以来,物質の中に宿る音を探求し,見えないものや聴こえないものの中から音を引き出そうと試みます.それはある「もの」を叩くことによってではなく,「もの」に内在するエネルギーを聴こうとすることへと深化していきました.
音や光といったものは振動現象の一種であることはよく知られていますが,わたしたちは,たとえば人間どうしの関係性の中からも,わたしたちの知覚を超え,物理的な振動としては知覚しえない,エネルギーの交感のようなものを感じとることもあります.この展覧会では,そのようなさまざまなエネルギーや現象としての振動をめぐる多様に解釈されうる「みえないちから」を表現する作品を紹介します. 
展覧会「みえないちから」@NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] http://www.ntticc.or.jp/Archive/2010/Vibrations_of_Entities/index_j.html

現在の私たちはここで言われている「ものに内在するエネルギー」から作られた電気や,「現象としての振動」のひとつである電磁波といった「みえないちから」に取り囲まれ,それらを利用して,様々なメッセージを瞬時に相手に伝える通信を成立させているといえます.「精霊」のような力=エネルギーを使って,いつでも,どこでも,誰とでもコミュニケーションをしています.「みえないちから」は,私たちのふつうの感覚では見る・聴くことはできません.望遠鏡を使って視覚能力を拡大しても見えません.にもかかわらず,私たちは知覚できないことを意に介さないで,通信を行っているし,通信とはそういうものだと思っています.だから,電話で話せることよりも,2個のコップを糸という見えるモノでつないで話せる「糸電話」に驚きを感じたりするのです.このことがいいことなのかどうかはわかりませんが,現在の私たちの感覚は通信の媒体が「見える」ことに驚きを感じるのです.ICCの「みえないちから」という展覧会は,もはや私たちのまわりにあるのが当たり前になってしまった「精霊=みえないちから」を改めて示すことで,その不思議さや畏さを考えようとしています(興味を持った人は,ICCのホームページにいって,展示作品を是非見てみてください).

耳をすますこと
さらに,「『もの』を叩くことによってではなく,『もの』に内在するエネルギーを聴こうとすること」という言葉に注目してみましょう,ここにはナウシカが世界と向かい合うときの態度と同じものが感じられます.ナウシカは常に自然の中で耳を澄ましています.この態度は,カナダの作曲家のマリー・シェーファーが提案するサウンドスケープに通じるところがあります.木が水を吸い上げる音を聴いたり,夜の暗闇の中で何かが起こっていることを確かめたりしています.このナウシカの態度を最もよく示しているシーンのひとつが,先程も取り上げたユパを助けるシーンです.腐海の森の中で,ナウシカは王蟲の抜け殻を見つけます.彼女は王蟲から切り出した眼の抜け殻を頭に載せて,腐海の胞子の中で横になっています.そして,音を聴きます.それはユパが王蟲から逃げる音だったのです.ここでのナウシカは王蟲というヒトとは異なる力の中で,自然に対して耳を澄ましていたと言えます.だから,より遠くの音を聴くことができ,ユパを助けることができたのです.

「耳を澄ます」ことは,聴くことを可能にする範囲を拡げる行為といえますが,まずは自分の態度を受動的にすることが重要なのです.音の受け入れを可能にする受け身の態度を作り上げたのち,そこに音が飛び込んでくる.そのとき人は音を聴くのですが,それは音に呑み込まれることかもしれません.ナウシカと違い,私たちが「耳を澄ます」ことは,近頃少ないような気がします.なぜなのでしょうか.そこで,私たちとケータイとの関係を考えてみましょう.ケータイは突然鳴り,あるいは振るえて,静けさを破ります,私たちはそれにびっくりしたり,喜んだりします.このように書くと,ケータイがうるさいから,私たちは耳を澄ますことをしなくなったと考える人が多いと思います.しかし次のように考えてみたらどうでしょうか.私たちの代わりにケータイが「耳を澄まし」ている,と.ケータイが「耳を澄ます」という表現はおかしいかもしれません.しかし,ケータイは,私たちが見ることも聴くこともできない電波を捉えて,誰かからのメッセージを受け取ってくれています.それは,私たちのまわりにある「みえないちから」を捉えるために,ケータイはいつでも,どこでも,ひっそりと「耳を澄まし」ているということではないでしょうか.ケータイがうるさいからではなく,ケータイが「耳を澄まし」ているから,私たちは自分で耳を澄ますという行為をしなくなってしまった.「ケータイ」と書いているところにいろいろなパソコンや携帯ゲーム機器などの名前を当てはめてみてもいいかもしれません.「みえないちから」に対して私たち自身が「耳を澄ます」のではなくて,多くの情報・通信技術が私たちの代わりに耳を澄ましてくれている.そのおかげで,私たちは遠く離れた誰かと簡単にコミュニケーションできるというのが,現在の世界のあり方なのです.

ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(3)

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