ナウシカの世界におけるメディア・コミュニケーション(4)

自然との対話:サイレント・ダイアローグ
ここまでは,ナウシカの世界における「見える」ことを考えてきました.その世界では通信やインターフェイスは直接「見える」ことが重要な要素になっていました.では,ナウシカの世界では「みえないちから」は,全く力を持たないのでしょうか,そこで最後に,ナウシカにおける「見えない」ことを考えてみたいと思います.まずは,現在の私たちの状況を確認するために,再びICCの展覧会のテキストを参照してみたいと思います.その展覧会のタイトルは「サイレント・ダイアローグ」といいます.

自然とは,私たちの抗うことのできない大きな力であるという意味で,コントロール不可能な,人間の意志を受けつけることのない私たちの身体もまた同様な「他者」としてある.自然の中で,私たち自身その生態系の一部となって,意識を自身の外部へ,内部へとめぐらせること.自然から何かを受けとる,そして自然へと何かを返してみる.これらの自然という「他者」とのコミュニケーションの試行から,私たちは何を感じ,何を知り,何を学ぶことができるのか.「サイレント・ダイアローグ」とは,それを考えるための展覧会であり,私たちと自然との「見えないコミュニケーション」を見つけだすための,いわば予行演習のようなものと言えるのではないだろうか.(p.14) 
見えない世界との対話:サイレント・ダイアローグ,畠中実

このテキストでの「見えない」はメッセージを伝えるメディアが見えないという意味ではありません.私たちがメッセージの媒体として利用してしてきた自然の力,つまり「みえないちから」そのものとコミュニケーションを行おうとする試みなのです.メディアアートが常に「メディア」を問題にしてきたからこそ,その「メディア」そのものとコミュニケーションすることを,アートという手段を使って「予行演習」を行うという発想が出てきたのでしょう.そこには,私たちが自分勝手に利用するだけ利用してきた自然の「声」を静かに聴いて,自らの行いを反省しようという意味もあると思います. 

自然の「声」を真剣に聴いてこなかった私たちに比べ,ナウシカの世界では,多くの人々が自然とのコミュニケーションをしているようにみえます.この点では,ナウシカ世界の住人たちは,私たちがするべき「サイレント・ダイアローグ」のお手本みたいな存在です.しかし,彼ら・彼女らは「腐海」,そしてそこに住む蟲,とりわけ王蟲を恐れています.ナウシカの世界の住人の多くは,自分たちがよく知る自然とはコミュニケーションをとっているが,そのすぐ側に位置する腐海・蟲たちから構成された「もうひとつの自然」とのコミュニケーションは絶っているのです.そのような状況の中で,ナウシカは王蟲とコミュニケーションをしています.しかもそれは腐海・蟲たちがもつ「みえないちから」の中で行われ,メッセージのやりとりに「見える」媒体を用いない「見えないコミュニケーション」です.多くの人が恐れてそこから学ぼうとしない腐海・王蟲という「もうひとつの自然」に,ナウシカは耳を澄まして「サイレント・ダイアローグ」を行っているのです.

天使の透明なコミュニケーション
ここでナウシカはすべてが「見える」世界のルールを破っています.ちろんヒトが蟲とコミュニケーションする自体ルール破りなのですが.このことから,ナウシカはヒトの世界に属しつつ,蟲の世界にも属しているあいまいな存在になっています.ナウシカと王蟲は言語などの媒体を使うことなくコミュニケーションをおこなっています.ここでは媒体が「見える|見えない」ではなくなり,媒体が「透明」になっています.思ったことがそのまま相手に伝わるような,メディアを介さない「透明」なコミュニケーション.私たちは言語などの媒体を使ったコミュニケーションしかできないと信じ込んでいるので,その考えから逃れるまではナウシカと王蟲との対話は推測するしかありません.心の中のことが,相手の心の中へと流れ込んでいくような感じでしょうか.映像だと,王蟲の金色の触手(?)がナウシカを包み込むと,ナウシカの心の中が映しだされるというふうに描写されています.先ほど,私は「私たちは言語などの媒体を使ったコミュニケーションしかできないと信じ込んでいる」と書きましたが,実はメディアを用いない「透明」なコミュニケーションを,私たちも行うことがあるのです.それは「虫の知らせ」と言われるような,よくわからないけれど何かのメッセージを受け取っているときです.少しオカルトめいたことではありますが,ナウシカが王蟲と対話するようなことは,私たちの生活でもしばしば起こっていることを,この「虫」がつく言葉が示しています.ナウシカの世界で最も現実と異なるようなナウシカと王蟲との対話が,実は,最も私たちの世界に近い出来事であったりするのです(ナウシカのように蟲と直接対話できるという人は少ないでしょうが……).

ナウシカは言語を使わず王蟲と話します.昔から言語を用いずに会話していると考えられてきた存在がいます.それは天使です.天使は肉体をもたないので,言語ももちません.それでも考えていることはテレパシーのようにどんなに離れても瞬時に相手に伝わります.言語を使わずに王蟲とコミュニケーションをおこなうナウシカは,天使のようです(映画の最後で,ナウシカは天使かどうかははっきりしませんが,「蒼き衣の者」という伝説の存在にはなります).天使は神に近い存在でありながら,ヒトにも近いようなあいまいな存在です.そして,ナウシカもまた王蟲と会話できるということから,ヒトでもあり,蟲でもあるようなあいまいな存在です.どちらにもなれるけれど,どちらにもなれない(アニメではここまで描かれていませんが,マンガだとここまでしっかり描かれています).ナウシカは王蟲とのコミュニケーションを行い,最後には,自然に呑み込まれるという選択を自らの意思で行います.しかし,王蟲はナウシカをヒトとして生き返らせます.一度自然に呑み込まれたナウシカはヒトなのでしょうか,それとも蟲なのでしょうか,あるいはヒトでありつつ蟲でもあるのでしょうか,もしくは本当に天使なのでしょうか.

インターネットという「もうひとつの自然」
 ナウシカは言葉を用いずに,いやだからこそヒトと王蟲という種をまたいだコミュニケーションを行うことができる本当の天使なのかもしれません.しかし,私たちやナウシカ世界の住人は,ナウシカのようにすべてを受け入れるような天使ではありません.私たちとナウシカ世界の住人は,自分の世界のみに適応するルールに則ってコミュニケーションを行うという点ではとても似ています.しかし,違う所もあります.既に指摘したように,コミュニケーションのプロセスが「見える」か「見えない」かということです. 私たちは「みえないちから」を利用して,通信を行いますが,ナウシカの世界では「みえないちから」を感じることはあっても,それを通信には使いません.このちがいは,天使が行うような「透明な」コミュニケーション目指すかどうかによるのかもしれません.哲学者の山内志朗さんは『天使の記号学』という本の中で次のように書いています.

肉体がコミュニケーションの障碍となっているために,やむを得ず言葉を用いているのだという考え方は分からないでもない.自分も他者も「透明な存在」ならば,ディスコミュニケーションに陥ることもないし,言葉の暴力性に身をさらす必要もない.もし人間が天使ならば,コミュニケーションに手間はいらないし,誤解される心配もない.これこそ理想的なコミュニケーションかもしれない.人間は,リアルタイムで短時間で多くの情報を遠くまで確実に伝えるために,電話・ファックス・インターネット等々を発達させたが,現在の人類が,ここまでメディアを発達させたのは,人間が天使ではなかったからだと言うこともできる.(p.11) 
天使の記号学,山内志朗
 
私たちは自分が天使ではないことを認識しています.だからこそ,ナウシカの世界では再生しない「みえないちから」を用いて,情報・通信技術を発展させて,少しでも天使に近づこうとした.しかし実際は,技術だけが発展してしまって,コミュニケーションの行き違いはよく起こるし,自然の声を聴くこともない状態です.ここで利用するだけしてきた「自然の声」に,ナウシカの世界の人たちにように,「耳を傾けてみよう」という自然回帰もいいのですが,私たちはもはや,それこそ今の文明が一度滅ばなければ,「見える」通信だけに戻ることはできない状態にあります.そこで,私たちが天使になるために構築してきた通信網が現時点で行き着いた先であるインターネットを「もうひとつの自然」と考え,ナウシカのようにそこに呑み込まれてみることも必要なのではないでしょうか.

【問い: インターネットは私たちに天使が行うような「透明な」コミュニケーションをもたらすものであろうかを,自分の経験から考えてみよう.】

私たちが生きている時代の自然はひとつではなく,「もうひとつの自然」として「情報としての自然」(この言葉もまたICCの展覧会名です.興味がある人は是非調べてみてださい)があるといえます.私たちは長い間慣れ親しんできた自然に対して,ナウシカ世界のように「見えないコミュニケーション」を行う必要があるのはもちろんですが,同時にこの10年たらずで急速に広がった「もうひとつの自然」とのコミュニケーションの方法を,ナウシカのように身を持って考える必要があります.そうしなければ,ナウシカ世界の住人が「腐海」を畏れるように,インターネットを畏れるようになると,私は考えます.私の考えは,宮崎さんがナウシカで示していることではないですが,2011年の時点で,コンピュータとそこから発生したインターネットはひとつの「生態系」を作り上げていると見なされています.ナウシカが呑み込まれた王蟲が,実は失われた文明の人々が作った人工物であったように,私たちはコンピュータとともに,それが何であるか理解することなく作ってしまったインターネットという「情報としての自然」に,もっと深く入り込んでいくべきなのです.そしてその時には,「情報としての自然」という環境との関係を「切断」しないという考えに基づいて,「ひとつの自然」をそのまま受け入れるようなノイジーなインターフェイスが必要となるでしょう.
 
最後にナウシカに戻りましょう.ナウシカの世界では,情報は必ず環境と結びついています.それゆえに環境内に存在する実体が影響を及ぼす範囲までにしか情報を伝えることができません.しかし,王蟲はちがいます.王蟲は世界中の個体すべてがひとつの個となるように常に意識を共有しているのです.王蟲の実体は「王蟲」という種であり,個としての王蟲がその情報なのかもしれません.ナウシカは「ヒト」という異なる種でありながら,「王蟲」というひとつの種の中に入り込んでいくのです.これは先に示したような,これからの私たちのヒトとコンピュータとの在り方にもつながってくるところです.コンピュータというひとつの種のネットワークがひとつの実体になって,その中にヒトという種が入り込んでいき,情報としての個を形成をしていくかもしれないのです.それはナウシカがヒトでありながら蟲になったように,「ヒトでありながら別の何かにもなる」,もしくは「複数の自分になる」というあいまいな状態を受け入れることかもしれません.

★考えてみよう
(1)「耳をすます」という行為から,私たちとメディアとの関係を考えてみましょう..
(2)身の回りのインターフェイスを調べて,どのような表示形式になっているかを確かめてみよう.そして,なぜその表示形式なのかを考えてみよう.
(3)私たちは「AはAである」というようなアイデンティティを重要としていますが,インターネットが発達した現代においては「AでもありBでもある」といったような複数の状態をもつあいまいな自分を認めることも必要なのではないでしょうか.例えば,Twitter や mixi などで全く異なる人格を演じるアカウントもっていたり,同一サービス内で2つ以上のアカウントを使って,異なるグループの人たちとコミュニケーションを行うなどです.あなたは「自分」をどのように考えていますか.

参考文献,URL
山内志朗『天使の記号学』岩波書店,2001年
展覧会「サイレント・ダイアローグ」http://www.ntticc.or.jp/Archive/2007/SilentDialogue/index_j.html
展覧会「オープン・ネイチャー」

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