出張報告書_2016/07/1-3(別紙)あるいは,私のようなものを見ることは行くと来るをほぼ同時に意識することかもしない

ICCで開催されている「オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス」に出品されている谷口暁彦《私のようなもの/見ることについて》には,この作品の制作者である谷口暁彦を3Dスキャンしてつくられたアバターが2人存在している.ひとりは自律したアバターであり,もうひとりのアバターは体験者が操作できるようになっている.ふたつの画面が投影されていて,ひとつは自律型アバターからの視点で,もうひとつは操作型アバターからの視点である.

どちらも過去のある日に撮影・スキャンされた谷口暁彦であって,見た目はどこも異なるところがない.自律型アバターは過去のある日に谷口暁彦が操作した記録を再生するものである.操作型アバターはその都度,体験者が動かす.体験者がいなければ,あるいは操作をしなければ,操作型アバターは動くことがない.


アバターはどこまで過去か?

操作型アバターを動かして,自律型アバターにぶつけると,衝突が起こらずにすり抜けてしまう.すり抜ける直前の状態にすると,自律型アバターの谷口の顔の大半がなくなってしまう.かつてあった谷口の顔は,衝突判定のプログラムのなかで見えなくなってしまう.操作型アバターと自律型アバターとをピッタリと重ねるようにすると,自律型アバターのなかが空洞になっていることに気づく.3Dスキャンはある日の谷口暁彦の表面のみをスキャンしているのであって,そのなかまではデータ化していない.そのなかを埋めることはできるであろうが,モデルのデータを軽くするために空洞になっているのだろう.とにかく,谷口暁彦のかたちをした自律型アバターは空洞を抱えている.でも,その空洞は外からは見えない.だとすると,下を向くと足が見える操作型アバターもまた空洞を抱えているのであろう.しかし,空洞を抱えていてもいなくても,そんなことは関係ないと言うべきなのだろう.自律型・操作型ともに見た目は谷口暁彦なのだから.単に3Dスキャンは表面しかスキャンしないということで,ある日の谷口の表面のみが記録されているだけにすぎないのだから.けれど,その表面を表から見るのと裏か見るとで感覚が異なるならば,表面の裏は表面の表とはまた別の意味を示しているのではないだろうか.撮影された時間にコンピュータの演算時間が足されて生まれたアバターの裏面は,これまでとは異なる記憶をつくりだしている.

しかし,自律型でも操作型でもない不動型アバターとしての谷口暁彦は少し様子が異なる.なぜなら,不動型アバターは通り抜けることができずに,衝突が起こるようにプログラムされている.きっと空洞を抱えているのだろうと思いつつも,通り抜けることができない不動型アバターは,オブジェクト感が強く感じられる.それは,詰まっている感じが強い谷口暁彦がそこにいる.すべては同じ見え方であるが,それぞれの属性で谷口暁彦が少しずつ変わって見える.


アバターの視点のスイッチング

作品のなかにも保坂和志の小説『カンバセーション・ピース』の一節が引かれているけれど,私もまた作品を体験している際に,保坂和志の小説の一節を思い出した.それは『未明の闘争』に書かれていた「ブンは結局私のところに行かなかった。」というものである.「ブンは結局私のところに来なかった。」なら別に普通だが,「ブンは結局私のところに行かなかった。」はちょっとおかしい.この文章は最初「私」という登場人物が基点・中心になっているが,最後には「俯瞰」的というか,三人称的な世界になっている.私は中心から外れている.「ブンは結局私のところに行かなかった。」という短い文字列のなかで視点が変わる.そして,この視点の移動を自律型及び操作型の谷口暁彦の視点が交差するたびに感じたのであった.

以前,私は同じ文書を同じように考えていて,上の文章はそのときの文章をコピペしたもので,そこには「CGの3次元空間でのバーチャルカメラの移動にようにとてもスムーズに視点が移動する.身体はそこにありながら,そこにあるままで,視点=意識がスムーズに,瞬時に移動する.これは興味深い」と書いていた.しかし,実際にはCGの視点の移動がいかにスムーズであっても,それは連続的な変化であって,どこかに「パッと」視点が切り替わる,あるいは知らないうちに切り替わるポイントはない.けれど,《私のようなもの/見ることについて》での2体のアバターの視点の交錯は,視点と意識を知らないうちに切り替えてしまうような効果をつくりだしていると感じた.私が操作しているアバターの視界に,ふと自律型アバターが入り込む.そのときのアバターの視点から見える風景がスクリーンに映しだされている.それを見る.視点がそちらに飛んで行く.逆もある.自律型アバターの視界に操作型アバターが入り込む.そうすると操作型アバターの視点から自律型アバターへと視点のスイッチングが起こる.これらの視点のスイッチングは,2体のアバターが向かい合っているときに顕著に感じられる.「来る」「行く」が同時に起こる.主体は変わらないから,普段は「来る」のところが「行く」になる.

これらの視点のスイッチングが起こっていているとき,私はアバターに「私のようなもの」は感じていない.あくまでも,それは過去の谷口暁彦という認識であった.「私」になるにはインターフェイスが馴染んでいないという感じがある.カーソルのように自己帰属感をもつことなく,過去の谷口暁彦としてアバターを動かす.この自己帰属感のなさが逆に新鮮であった.だから,視点のスイッチングのみがおこる.視点がスイッチングされ,視界が変わっていくようというような感じであった.

「ブンは結局私のところに行かなかった。」という文章について,CGの視点の移動について書いたと上に書いたが,そのテキストは最後にエキソニモの作品《↑》に触れている.そこでは,次のように書いた.


「ブンは結局私のところに行かなかった。」という文字列は私の意識を否応なく変化させた.この変化の暴力性はエキソニモの《↑》にちかいものがあった.身体をここに/そこにおいておきながら,意識だけがあっちこっちに連れされる感じ.


「ブンは結局私のところに行かなかった。」という文字列を思い出させるふたつの作品で,《↑》は意識だけをあっちこっちに連れだし,谷口の《私のようなもの/見ることについて》では視点のみがスイッチングされると書いている.どちらにしても身体は置き去りにされている感じがある.意識と視点だけが行ったり,来たりを瞬時に行えるのであって,身体はその素早いスイッチングのついていけないのかもしれない.視点は自分の身体のものでなくてもよくて,その別の視点の切り替えに意識のみがついていく.それは映画がやってきたことであろう.しかし,そこには身体がない.谷口とエキソニモの作品は身体を置き去りにするけれども,意識と視点にほんの少しだけ身体を与えるから,映画の視点の切り替えとは異なる,生々しさというか,「行く」「来る」が同時に起こる奇妙な感じをつくるのかもしれない.

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