渡邊恵太さんとトーク「インターフェイスとは何なのか?」のスライドやメモなど


10月は3週連続で東京に出張して,いろいろなところでトークや講演をさせてもらいました.その記録としてのブログ記事の最初は,10月2日にNTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で行われた,渡邊恵太さんとトーク「インターフェイスとは何なのか?」です.

久しぶり「インターフェイス」について,どっぷりと考えられたいい時間でした.しかも,ひとりで考えるのではなく,渡邊恵太さんと一緒に考えられるというのは,とても刺激になりました.

トークで使ったスライドです.


以下は,渡邊恵太さん含め,渡邊研究室との打合せのときにSlackに書いたメモみたいものです.

渡邊研究室への私からの最初の問いかけ

夏の集中講義で『融けるデザイン』を再読して,そこで「smoon」や「LengthPrinter」は,ヒトの行為を均一化していくものだなと考えました.掬う量に関係なく,ただ「掬う」.長さに関係なく,ただ「引っ張る」.ボタンを押すだけの全自動とは異なり,従来の行為を行いつつも,そこでは大きな変化が起きている.でも,従来の行為と変わらないものとして捉えられてしまう.

「行為の均一化」に似たヒトの行為の縮減は,ディプレイに向かうときにヒトに起こっていたと言えます.「ボタンを押す」だけで,様々なものがディスプレイに生じます.でも,それは「行為の均一化」というよりも,ボタンを押すという単一の行為にヒトの行為を最小化していくものだったと言えます.最小化した行為に物理世界に由来する意味づけをつけるためにメタファーが用いられて,デスクトップメタファーが生まれたと考えられます.

最小化した行為のもとでメタファーを使って,ヒトの行為の構造や意味コンピュータに移行していったとすれば,GUIには歪んだ身体感覚が映されたことになります.しかし,その歪んだ身体感覚のことは考えずに,物理世界そのものをディスプレイに構築しようとしたのがスキューモーフィズムだと言えます.しかし.ディスプレイのなかが物理世界に近づこうすればするほど,最小化した行為とメタファーとのセットで持ち込まれた歪んだ身体感覚とインターフェイスの体験がズレていきます.そのズレを解消しようとしたのが,物理世界ではなくディスプレイの体験を最大化しようとしたフラットデザインと考えることできます.

マテリアルデザインは,スキューモーフィズムとフラットデザインの両極端なデザインから生まれたと考えられます.「厚みのあるピクセル」という架空のマテリアルを設定して,「影」など物理現象をディスプレイに取り入れつつ,物理的整合性ではなく,論理的整合性を目指したデザインガイドが,マテリアルデザインなのではないかと考えています.

ヒューマンインターフェイスの歴史を自分なりに振り返ってみたのですが,限りなく現在に近い歴史までは振り返ることはできても,そこから未来を考えるのは難しいですね.まだ考えることができていません.メタファーでヒトとコンピュータ/インターネット=情報をつなぐ時期は終わっている感じがあります.ヒトは物理世界のなかにありつつ,コンピュータ/インターネットによる情報を同時に体験する.そして,渡邉さんやチームラボの猪子さんが言うように「体験」が重要になっている.「体験」といってもそれはすべて情報ではなくて,物理世界のひとつの現象として起こっている.だから,物理世界の現象と情報とを同時に体験することが重要になってきているのかもしない.でも,それを言い表す言葉を見つけることができないでいます.

GUIのところで「歪んだ」という言葉を使いましたが,それは下の文章からとってききたものです.小林健太さんという1992年生まれの写真家のインタビューでの言葉です.
小林健太インタビュー「未完成の写真に向かう、デジタルイメージの生成運動」聞き手・山峰潤也 美術手帖2016年9月号「特集:#photograph 新しい写真の「存在論」に向けて」

「デジタルネイティブ」と言われることも多いと思いますが,そう言われることについてはどう思っていますか? 
小林 デジタルの概念や仕組みを理解していて,プログラミングなどができるわけではありませんので,デジタルに精通した世代と自認することには違和感があります.それでも,もし何かしら自分たちの世代固有の感覚を見出すとしたら,それがGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)だと思いました.ゲームやパソコン,携帯などに子どもの頃から触れていて,どんなデバイスを使うにしろ,「画面の中で運動していく」という感覚が染み付いています.例えば,iPhoneなどで画面をピンチインで拡大する動作はすごく小さな指の動きですが,画面の中の大きなものを動かしていて,実際の画面のサイズより広い空間をみて,身体の動きより大きな運動しているような感覚がある.それをGUIが作り出していて,その身体感覚を持ったのが僕たちの世代なのかもしれない.つまり,自分が何かと接する時に,その間に何かフィルターが介入していて,歪みが生じている.そういう状況に慣れきったような感覚です.ツールを通じて,世界と接する「写真」のメディア性はそういった感覚にピッタリくるような気がします.(p.63)
あと,ケヴィン・ケリー『〈インターネット〉の次に来るもの―未来を決める12の法則』のなかに,『融けるデザイン』に通じる文章がありました.このあたりも今回のトークを考える上でヒントになるかもしれません.

プロセスへと向かうこうした変化によって,われわれが作るすべてのものは,絶え間ない変化を運命づけられる.固定した名詞の世界から,流動的な動詞の世界に移動していく.今後30年で,形のある自動車や靴といった物は,手に触れることのできない動詞へと変化していくことになるだろう.プロダクトはサービスやプロセスになっていくだろう.(location 142) 
手で触れないデジタル世界では,静的で固定されたものなど何もない.すべては,〈なっていく〉のだ.(location 152)

その後,渡邊恵太さんから問いかけられた「インターフェイスのこれまでとこれから」について


「インターフェイス」とは,コンピュータというエイリアンをヒトが扱うために必要な仕掛けだと思います.コンピュータ以前の物理的道具を上手く応用しながら,インターフェイスをつくりあげていった.その際に,物理的道具やその考え方をそのままコンピュータに移植するのではなく,常にコンピュータだからこそできることが付け加えれてきたのがインターフェイスであって,この「プラスα」の部分がインターフェイスを重要なものにしていると,私は考えています.

例えば「ページをめくらなくてもいい本」とか「切り貼りがボタン一つでできる紙」というところです.そして,今までのインターフェイスは,エンゲルバートが考えたような「最小の行為で最大の効果」を得る方向で進んできたと思います.

ヒトの行為をディスプレイのなかに移植するにはメタファーは有効だった.けれど,それは有効すぎてインターフェイスが単に情報世界への橋渡しとして機能しているように見えてしまったところもあります.しかし,実際は,インターフェイスはヒトの行為や思考法を変える力をもつもので,だからこそ,現在のテクノロジーにおいて重要性をもつと言えます.

ヒトの行為や思考法を変えるのは,コンピュータとのインターフェイスだけでなく,物理的な道具もそうだと言えます.しかし,インターフェイスは物理的なモノとしての側面と情報を処理・表示する側面とが結びついているからこそ,物理的な道具とは異なる次元でヒトに影響を与えるといえます.渡邉さんが『融けるデザイン』でも指摘しているように,インターフェイスがモノと情報というふたつの側面をもつからこそ,ヒトを「生物としての身体」と「知覚原理としての身体」を明確に分けてしまえると考えられます.

ヒトの「知覚原理としての身体」を拡張してきたからこそ,インターフェイスを考えることは重要なのです.しかし,多くの人はモノや物理世界に基づいた感覚や考え方を延長して.このことを考えるため,そこではあまりあたらしいことが起こっていないと考えがちです.でも,インターフェイスでは,これまでの別の原理でのヒトの拡張・変化が起こっているのです.それを明確に示したのが 「自己帰属感」という言葉だと,私は考えています.

だから,「自己帰属感」の話をするだけでも,インターフェイスの重要性を示すことができると思います.あるいは,「自己帰属感」はインターフェイスの重要性を再確認させてくれる語であって,それはこれまでのディスプレイに向かうインターフェイスには有効だけれども,これからのVRやsmoonのような情報を直に物理世界に具現化するシステムには有効ではないかもしれません.

これまでのインターフェイスは「自己帰属感」で語れるとすると,これからのVRやモノを自由に操作するインターフェイスは自己帰属感が前提としていたヒトが世界に帰属していること自体をつくり直していくものになるのかもしれません.渡邉さんも書いているように世界をひとつのOSとしてみなして,物理世界そのものではなく知覚原理としてのモノ を拡張していくのかもしれません.知覚原理としてのモノって何だということですが,私も勢いで今書いたのでよくわかりません.しかし,モノが変わってきてことは確かだと思います.

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