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11月, 2016の投稿を表示しています

水平の世界に存在する何かが,垂直の平面で特別に仕立てた「動物園」でヒトを覗き見る

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篠田千明の「ZOO」を見た.演劇は久しぶりに見たけれど,今の私はヒトよりもディスプレイに注目してしまう.ディスプレイの位置とそのフラットさ,そして,ディスプレイの表面に起こっている反射.特に水平に置かれたディスプレイを見てしまう.ヒトは重力に対抗するわけではないけれど,二足歩行で経って,水平的姿勢から垂直的姿勢を取るようになった.ヒトにゴーグルをかけるVRも基本的には垂直な性質をもっている.絵画やスクリーンが垂直に掛けられているように,HMDで展開される映像も垂直的なものである.映像自体は360度だったりして,垂直でも水平でもないようなものでも,ヒトが立っている,あるいは,座っていても,背筋が伸びていることを想定しているから,そこに映る映像にはどうしても垂直性がでてくる.垂直だから重力の影響下にあって,水平だとそうではないと言いたいわけではない.水平であろうと,垂直であろうと,ヒトは重力のなかにある.ただ,水平なディスプレイはどこか重力から逃れている感じがあるような気がする.それは錯覚にすぎない.錯覚であろうが,感覚しているのであれば,そこには確実にリアルな何かがあるはずである.だから,水平に置かれたディスプレイが示す重力から逃れているような感じは錯覚であろうが,そこに確かにあるものである.





VRはヒトに付ける.これは意外と忘れられているような気がする.だから,VRは垂直的,二足歩行的な感じがある.二足歩行が水平に置かれたディスプレイを踏みつける.垂直と水平は交わることがない.水平は垂直にたつヒトを支える.水平と水平とは重なり,平面をあらたな様態にする.そこをヒトが歩く.あるいは,踏みつけていく.人工芝だって講堂の床にしかれている.平面に平面が重なっている.VRは立体のモデルにスキンを貼り付けていく.ここまで書いてしまうと,ZOOから離れていく感じがする.ZOOは水平を重ねることで,垂直のヒトがいなくなった世界を描こうとしているようにも見える.VRは垂直であるけれども,結局はスキン,平面の重なりでしかない.そこに垂直のヒトがあるから,妙なことが起こる.水平世界に重力を持ち込むから変なことが起こるのである.


嘘みたいな本当の話ですが,この時点では私たちはカプセルがどういう態勢で着地したのかわかっていなかったのです.
重力が身体にどの方向からかかっているかわかりません…

インターネットヤミ市東京2016での授業とトークのスライド

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スライドのPDF→https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-bWMxS21faGpiY3c
10月の連続トークの最後はインターネットヤミ市で授業とトークをしました.一日で2つのプレゼンは疲れました… けど,ヤミ市だから話せることもあったので楽しかったです😊😊😊😊😊
インターネットヤミ教室の1限「忘れちゃいけない! ポストインターネットアート…」を担当しました.ヤミ市での授業なので,インターフェイスと物理世界との関係でアートを捉えるという私の考え方がストレートに話せました.物理世界とディスプレイ世界を「重力」を軸として話していて,花房太一さんの「サイバースペースで彫刻は可能か?」を参照しつつ,最後に超弦理論の重力に関する変換について読んだ時の興奮がスライドの最後に入られています.
スライドのPDF→https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-Sk5DS0g2YWFZT28
「文化庁メディア芸術祭20周年企画展―変える力」のなかのひとつのイベントとして開催されたトーク「ポスト・インターネット時代の「かえるちから」」で使ったスライドです.「インターネットヤミ市」のことを「ポストインターネットのライフスタイル」を提供する(していた)DISと比較しながら考えたものです.一緒にトークに参加していたコラムニストの辛酸なめ子さんのおかげで,わかりやすくヤミ市の魅力が伝えられたと思います.

写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」のスライドとその後のメモ

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スライドのPDF→https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-b3JadFRKZWdVRHc

10月の連続トークの最終週は飯岡陸さんのキュレーションする「新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン」展での,写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」でした.

「ダーティーなGUI」というタイトルは「GUIの歪み」というタイトルの講演を考えているときに出てきた言葉でした.そして,今回はその言葉を使って,「クリーンなGUI」としてのラファエル・ローゼンダールと「ダーティーなGUI」としての小林健太を対比させることで,何が考えられるのか,ということを,小林本人と話してみようと考えました.
小林  指が大事な気がしていて.写真って実際の行為は,いろいろ身体を動かすにしても,ボタンを押し込むっていうそれだけで,そのボタンを押し込むっていう行為と,出て来た画像との間に,動作的な分断がある.その感じが面白いと思っていて.一方編集では指先と,そこから延びる筆致に連続性があって. [投稿|トーク]小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery) 
今回のトークはGUIが中心ではなく,小林の作品と作品制作の行為がメインなので,事前にいくつもの小林のインタビューやテキストを読んだなかで,気になったのが上の言葉でした.撮影の「ボタンを押す」という行為と編集の指で「描く」という行為との組み合わせ.小林は別のインタビューでは「行為をバインドしたいんすよね.撮る行為と,編集する行為を重ね合わせたい」と言っています. 
カメラはボタンを押すという最小の行為で,物理世界を画像に移してしまう.物理世界を写し取るためにヒトが培ってきた行為を「ボタンを押す」という最小行為にしてしまったのが,カメラであり,その延長にコンピュータがあると考えられます.だから,私はGUIというシステムはヒトの行為を最小化していく流れにあるものだと考えています.しかし,コンピュータの論理世界にヒトが入り込むには,キーボードの一つひとつのボタンを押す行為によって文字列を入力していくことが最適でしょう.そこになぜわざわざGUIなんてものがでてきたのか.それはヒトの身体性を少しでもコンピュータの論理の世界に移そうとする試みであると考え…