「インターフェイス」は何かと何かのあいだの界面のことである

インターフェイス

「インターフェイス」は何かと何かのあいだの界面のことである.もともとは化学の用語であったが,今では「社会と大学のあいだのインターフェイス」のようにふたつ以上の物事があるところには,この言葉が多く使われるような状況になっている.しかし,「インターフェイス」という言葉から真っ先に思い浮かべるのは,ヒトとコンピュータとのあいだにある「マン-マシン・インターフェイス」や「ユーザ・インターフェイス」であろう.私たちが日々触れているコンピュータのキーボード,マウスやディスプレイ,アイコン,スマートフォンのタッチパネルは,ヒトとコンピュータとをつなぐインターフェイスであるけれど,それらをコンピュータの使い勝手を決めているものにすぎないと考えてはならない.インターフェイスはもっと大きな役割をもっているのである.スマートフォン以降のインターフェイスデザインを扱った『UI GRAPHICS』で,ウェブデザイナーである中村勇吾は「動きから『質感』を生み出すUIデザイン」というインタビューにおいて次のように応えている.


情報やデータという無形の世界と,人間側にある有形の世界の間には,両者をうまく取りもつインターフェイスが必要になってきて,その機能やレイアウトのデザインが「ユーザーインターフェイスデザイン」という表現になってくるわけです.(p.44)
中村勇吾「動きから『質感』を生み出すUIデザイン」


普段,私たちが意識するのはインターフェイスの「機能やレイアウトのデザイン」である.だから,インターフェイスを記述するときには「使いやすさ」や「格好良さ」という言葉が多く使われる.しかし,私たちはインターフェイスを介して,コンピュータが扱う情報やデータという「無形の世界」に触れている.中村が指摘するようにインターフェイスは情報の無形と私たちの有形の世界をつなぐ必要性から生まれたものであり,「デザイン」はそのための手段にすぎないのである.そこで,無形の世界と有形の世界のあいだのインターフェイスという観点から,ヒトとコンピュータとをつなぐユーザ・インターフェイスの歴史をみてみたい.

現在,私たちが使っているコンピュータのインターフェイスは「グラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)」と呼ばれている.GUIはディスプレイに「アイコン」や「ウィンドウ」といった画像を映し,それらをマウスなどのポインティングデバイスで選択しながら作業を行う環境である.その大元は,1963年にアイヴァン・サザーランドが開発した「スケッチパッド」まで遡ることができる.「スケッチパッド」は間とコンピュータとをリアルタイムのグラフィカルな対話,つまり「お絵描き」で結びつけたシステムであった.また,ダグラス・エンゲルバートは「ヒトとコンピュータの共進化」というアイデアのもとで,コンピュータの入力デバイスの改良を行った.物理的なインターフェイスが変われば,ヒトとコンピュータとの関係が変化し,最終的にはヒトの知能が強化されるとエンゲルバートは考えていた.そして彼のチームは今ではコンピュータの操作に欠かすことができない「マウス」を開発したのである.アラン・ケイはグラフィックによるリアルタイムの対話と,多くの人が混乱なく使えるマウスを用いて,「誰でも使えるコンピュータ」の実現を図った.それが「Alto」と呼ばれるシステムである.現在のGUIの多くは「Alto」から派生したものになっている.現在のユーザ・インターフェイスへの系譜を振り返ると,そこには「使いやすさ」や「格好よさ」を求めるよりも,計算機であるコンピュータが扱う無形の情報とヒトとがどのように触れ合うべきかを探る試みであったといえる.ケイのAltoによって,コンピュータの無形の世界とヒトの有形の世界を向かい合わせる初期の試みは一応の完成をみたといえる.なぜなら,私たちは今でも「Alto」に由来するGUIでコンピュータを操作しているからである.ところが,iPhoneの成功から画面に直接触れてコンピュータを操作するタッチ型のインターフェイスが急激に普及することになった.ここで興味深いのは,コンピュータそのものの根本的な部分はまったく変わっていないのにもかかわらず,ユーザ・インターフェイスが変わることによって,コンピュータを操作するという体験が大きく変わることである.インターフェイスが「無形」のものに形を与える方法によって,ヒトとコンピュータ,そして情報との関係は変わってしまう.インターフェイスが「無形」と「有形」のふたつの世界の関係を決めているのである.

インターフェイスは触れることができない情報という無形のものに形を与える.それはマウスやタッチパネルのように形あるものだけではない.ディスプレイに表示される画像のデザインもまた,情報に形を与えるひとつの方法である.しかし,私たちのこれまでの感覚で考えると,「ハードウェア」と呼ばれる物質の部分には「形」という言葉を与えることはできても,「ソフトウェア」と呼ばれる部分は情報そのものを扱っているので「形がない」と考える人が多いのではないだろうか.しかし,「ソフトウェア」もまたひとつの「形」となっているのである.先に引用したインタビューのなかで,中村はこの「形」について次のように述べている.


スクリーンの中に仮想的な別世界があるのではなく,プロダクトの表皮の延長としてスクリーンがあり,それ物理的な表皮とは違った「アップデート可能な表皮」であるとする,という捉え方が浸透した結果,現在のような,いわゆる「フラットデザイン」のスタイルが主流になってきたのだと思います.(p.48)
中村勇吾「動きから『質感』を生み出すUIデザイン」 


「物理的な表皮」とは異なると断っているが,スクリーンが物質的なプロダクトの延長にあるという指摘は,ソフトウェアも「有形の世界」を構成する要素になったと言えるであろう.しかし,その表皮は「アップデート可能」なのである.ハードウェアの一部であるスクリーンに展開されるソフトウェアによって,ハードウェアとソフトウェアがあたかもひとつに融合していくようなデザインがなされる.この変化はハードウェアとソフトウェア,つまり有形の世界と無形の世界との境界を曖昧にしていく.そのことを明確に示すのが,中村が指摘する近年の「フラットデザイン」の流行である.iPhoneのオペレーションシステム(OS)であるiOSのバージョンが7に変わるときに,OSが採用するデザインが現実世界を模した「スキューモーフィズム」から,影などの現実のメタファーを使わない「フラットデザイン」へと変更された.これはデザインの変更のみならず,ヒトとモノの有形の世界と情報の無形の世界との関係を一新した出来事でもあった.スクリーンをプロダクトの延長と捉えながら,それを「アップデート可能な表皮」としても捉えることで,ハードウェアを物質だと意識しなくてもよい状況がうまれたのである.そして,ハードウェアを無形の情報の世界の延長と考え,スクリーンに物理法則や現実のモノを模倣することを止めたフラットデザインを展開することが可能になったのである.その結果,ソフトウェアのインターフェイスの変化が手元にあるハードウェアの質感までも変えてしまうような感覚が生まれた.この体験は,有形の世界に住むヒトが情報によって構成される無形の世界に少しだけ入り込んだものといえるだろう.あるいは逆に,無形の世界が有形の世界に滲み出てきたものともいえるだろう.つまり,インターフェイスはふたつの世界を分ける界面として存在しているのではなく,ふたつの世界を融合させる場でもあるのである.

インターフェイスを物質と情報とが互いの領域に滲み出す状況として明確に示したアニメが『電脳コイル』である.『電脳コイル』はメガネ型のユーザ・インターフェイスが浸透した近未来の世界を舞台にしていて,そこでは「電脳メガネ」をかけることで現実世界に無形の情報を重ねた世界が見えるようになり,世界の見え方が全く異なるものになる.電脳メガネというインターフェイスを通して,現実世界全体が「アップデート可能な表皮」に覆われることなった世界が『電脳コイル』である.逆に,インターフェイスをふたつの世界を分ける界面として明確に示したのが『ソードアート・オンライン』である.なぜなら,『ソードアート・オンライン』でのVRマシン・ナーヴギアは現実世界の身体と仮想世界の身体を完全に分ける仕様になっているからである.けれど,それはゲームでの死が現実の身体にも死をもたらすという宣言によって,このインターフェイスもまた物質と情報とが互いの領域に滲み出す状況に置かれることになるのである.

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