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ÉKRITS連載_スケッチパッドで「合生」される世界 - インターフェイスを読む #2

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」の第2回目「スケッチパッドで「合生」される世界」が公開されました.今回「読む」のは,GUIの源(ソース)といえるアイヴァン・サザーランドの「スケッチパッド」です.1回目のテキストで論じた「最小化した行為」と「手」の問題をスケッチパッドの記録映像から考察しています.

はじめは,スケッチパッドでは「行為する手✍️|最小化する手👍|制約する手🖖」という3つの手が絡み合っていると考えて,テキストのタイトルは「スケッチパッドで絡み合う三つの手」でした.けれど,平倉圭さんの「合生的形象 — ピカソ他《ラ・ガループの海水浴場》における物体的思考プロセス」の「合生的形象」という言葉に惹かれて,今のタイトルとなりました.

よろしくお願いします✍️👍🖖

身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界

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今から7年前に .review というTwitter発の雑誌に書いたテキスト.業績に概要が載ってなかったので改めて読んでみたら,自分で書いた図に「ディスプレイの重層性」とあった.今とつながっているのかもしれない. − 水野勝仁「身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界」,.review001,pp.282-289,2010年5月
概要 本論考は,コンピュータがカーソルを中心にして身体のあらたなあり方を規定する想像力をつくりだしていること論じたものである.カーソルと身体との結びつきを考察するために,評論家の斎藤環がインターネットのOSI階層モデルによって説明する「ラメラスケイプ」という概念と,文学において身体が消失してきたとされる論を参照する.そこから,文学から消失した身体がコンピュータに移行してきたことを示す.

メモ:視野角と透明感

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http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/157792586526/mr-styly-preview-of-upcoming-mixed-reality-fashion
http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/135580649616/skincare-interactive-installation-by-akihiko
Psychic VR Labに行き,ゴットスコーピオンさんと会い,MicrosoftのHoloLensを体験させてもらった.目の前には何も着ていない服のボディがあり,その前で手を開く動作をすると,ボディに服が被さる.HoloLensの視野角が狭いために,服に近づくと私にはボディの一部にしか服が被さってない状態が見えるけど,視線を動かすたびに,そこに服が現れる体験は新鮮であった.物理空間には服はなくて,HoloLensを通すと服が見える.さらには,HoloLensは上のGIFのように服の全体,カメラが捉える領域のデータが処理されているのだけれど,ヒトは適切な距離からは画像のように全体を捉えることもあれば,服に近づいたときには,自分の視線の先に服の一部を見るということが起こる.物理空間と仮想空間とが入り混じりつつも,視野角というヒトとデバイスのフィジカルな制限で仮想空間と物理空間との重なりが決定され,その境界がつねに自分の動きに追随するというのは興味深い体験だった.

この体験は,谷口暁彦さんの「スキンケア」の作品《透明感》を考察する際に有効かもしれない.谷口さんはディスプレイがディスプレイを内包したときのことを考えているのかもしれない.

お仕事:YCAM YEARBOOK 2017-18への寄稿:バニシング・メッシュ展レビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」

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YCAM YEARBOOK 2017-18に展覧会「バニシング・メッシュ」のレビュー「あらゆる世界が重なり合う世界」を寄稿しました.
バニシング・メッシュ展には,菅野創+やんツーによる《Avatars》とサイン・ウェーブ・オーケストラによる《A Wave》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》《The SINE WAVE ORCHESTRA stay》,計4作品が展示されています.私のレビューでは《Avatars》と《A Wave》とが論じられています.両作品とも展覧会の主旨である「今日の情報化社会への批判的展望」を見せてれているので,私の方もメディアアートで古くから扱われきた「物理世界」と「仮想世界」との関係を今日的にアップデートするようなテキストを書きました. インターフェイスという膜でヒトの物理世界とモノの物理世界とを取り囲み,ヒトとモノとの重なりを生じさせるひとつの仮想世界をつくりだしている.ここでの仮想世界は物理世界と対立するものではなく,ヒトとモノのふたつの物理世界を重ね合わせるために必要な触媒として,ヒトとモノとの世界に重ねられる存在となっているのである.(p.100) あらゆる世界が重なり合う世界,水野勝仁 
また, 私はいつも視覚的な作品を考えているので,「サイン波」という音を扱うサイン・ウェーブ・オーケストラの作品を考察するときに,音響文化研究者の中川克志さんの「作文:サイン波は世界を幻惑する(かもしれない)」にとても助けられました.中川さんがここで音について論じていることが,《A Wave》という映像を用いた作品でも試みられているのではないかというところから,考察の突破口が開けています.
作品が先に行ってしまっているので,作品とともに考えつつ,テキストがアップデートされていればいいなと思います.
是非,YCAMに行って,バニシング・メッシュ展の作品を見て,YCAM YEARBOOK 2017-18を手に入れて,テキストを読んでみてください.
追伸:YCAM YEARBOOK 2017-18,執筆者に水野姓が3人もいるのもポイントです😜😜😜

MASSAGE連載09_小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第9回「小林椋《盛るとのるソー》 ディスプレイを基点に映像とモノのあらたな「画面」状態をつくる」が公開されました.
1年間連載をしてきて,やっと9回目です.今回は小林椋さんの《盛るとのるソー》を取り上げました.小林さんの作品はディスプレイが動きます.ひとつの不動点というか消失点であったディスプレイが動くことで,ディスプレイが基点となってモノと映像とが重なり合って,あたらしい画面が生まれてくるのではないか,ということを書きました.
名古屋市立大学芸術工学部の小鷹研理さんが「「展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017」」でエキソニモの《Body Paint》について書いているテキストを,画家・評論家の古谷利裕さんが引用して,次のように書いていました.引用の引用となるので少し長いですが引用します.
このテキストで,エキソ二モの作品に触れることから導き出される,下のような見解はとても重要だと思う.  《おそらく,美術というのは,多かれ少なかれ,現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を,それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして,ポスト・インターネットが,美術の歴史のなかで,何か特別に新しい視座を提供しているというよりは,そういった美術の伝統を,新しい道具を使って,正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない.そのうえで,僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは,ポスト・インターネットが,美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を,非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって,結果的に,美術という難解な装置の,優れたメタファーとして機能している(その意味では,美術であると同時にメタ美術でもあるような),と,少なくとも僕にとってはそんな魅力がある.》  《この「わかりやすい」という印象は,作品の受容において,体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること,とも関係している.つまり,(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること,そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと.これは,ある意味では,美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになる…

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」

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紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」が掲載された「甲南女子大学研究紀要第53号 文学・文化編」が刊行されました.この論文は1月にG/P galleryで開催された開催された写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとのトーク準備を兼ねて書いたものです.
トークの告知記事→「Generated X [生成されたX]」の気配 
紀要論文の冒頭です. 本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光にデータの付与することで可能になる.小山はデジタル写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで,光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
英語のタイトルとアブストラクトです. A new material created by a physical texture superimposed on a clean colored surface  This paper considers possibilities of expression between computers and the physical world, as seen in artworks by Rafaël Rozendaal and Taisuke Koyama. Rozendaall’s internet based artworks utilize vector images, inspired …

ÉKRITS連載_最小化するヒトの行為とあらたな手 - インターフェイスを読む #1

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インターフェイスを読んでいく連載を「 ÉKRITS / エクリ」ではじめました😊 エクリにはこれまでに,エキソニモと谷口暁彦さんの作品をインターフェイス的視点から読み解く「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路」,絵文字を書く・読むときの感情の流れを考察した「絵文字😂😊😱は空白をつくり、スリル💦を生む」「絵文字😹😸🙀は空白をつくり、感情🔥を区切る」と書いてきました.

インターフェイス的視点で様々なテキストをエクリに書いていくなかで,エクリで「インターフェイスの歴史」を扱ったテキストを書きたいと思い,編集部の浅野さんと大林さんに相談してみたところ,ふたりから刺激的なコメントが返ってきました.そこで,連載というかたちで「インターフェイス」について書いてみたいと以下のように構想を書きました.

マクルーハンによる「身体の拡張」から,コンピュータによる「知能の拡張」に至り,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』にいたる「物理世界」と「非物理世界」との関係の変化を辿っていきたいと考えていますが,どうでしょうか.
でも,初回から,この構想はいい意味でなくりました.それは,久保田晃弘さんの『遙かなる他者のためのデザイン』がでたからです.なので,初回のテキスト「最小化するヒトの行為とあらたな手」は,マクルーハンと久保田さんを扱ったものになっています.

1ヶ月半か隔月の間隔でテキストを書いていきたいと思っています😭😭😭

よろしくお願いします😋😋😋

Poi Vol.1 featuring Nukeme_PDF

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科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループは,2015年11月30日から12月21日にかけて,同志社女子大学京田辺キャンパス内 msc ギャラリーで開催された展覧会・Nukeme「Old School」を中心にして,ヌケメさんを特集した「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を刊行しました.

ヌケメさんを特集した科研費の報告書でもある「Poi Vol.1 featuring Nukeme」を各所で配布してきましたが,より多くの人に届いてほしいためPDFの配布も行いたいと思います.下のタイトルのリンク先にあるPDFは,「A4横1枚あたり2頁+小冊子」という設定でプリントしてステープラーで綴じてもらうと,実際の冊子の雰囲気が味わえます.

よろしくお願いします.

−−

Poi Vol.1 featuring Nukeme

Contents
1. Introduction 『Poi』創刊によせて(松谷容作)
2. Installation View Nukeme「Old School」展
3. Interview 《Old School》をめぐる対話
4. Lecture OS /テクスチャ/グリッチ
5. Workshop アイコンを彫る
6. Roundtable ポストインターネットをめぐって
7. Essay 破壊を引き伸ばし、デジタルデータと物理世界を干渉させてモアレをつくる(水野勝仁)

編集責任:松谷容作
ゲスト:Nukeme
編集:秋吉康晴、田川莉那、増田展大、水野勝仁
協力:二瓶晃、前田真由子
デザイン:増田展大
発行:2016/07/31
印刷・製本:株式会社太洋堂
主催:科学研究費基盤研究(C) 「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」
研究課題番号:15K02203 研究代表者:松谷容作(同志社女子大学)



ディスプレイと物理世界との重ね合わせと物理世界から外れたディスプレイ:「一枚の絵の力」の永田さんと山形さん

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花房太一さんが展示アドバイザーとして関わっている「一枚の絵の力」に永田康祐さんと山形一生さんの作品を見に行った.永田さんと山形さんともにディスプレイを用いた作品をつくっていて,それを見ていて,考えたのは,永田さんはディスプレイの外にレイヤーをつくるというか,ディスプレイのなかだけで映像が完結しないというか,外に伸びていく感じがあるということ.これはこれまで「モノとディスプレイとの重なり」で書いていたことでもある.今回の新作はそれがきれいなかたちででていて,もはや具体的な像ではなく,単にグラデーションの光となった映像とその上の水のレイヤーとの重なりがきれいだった.光と水,水の色とグラデーションの光とが混ざりあって.ディスプレイの光に水の色の情報が重ね合わされていく感じ.






前回の個展よりもディスプレイとその前の空間に置かれたモノ=水+アクリル(?)の水槽とが密着している感じがあったことと,ディスプレイが映しているのがグラデーションの映像だからか,どこか前回の個展でエアキャップにくるまれて壁に立てかけられた作品を強く思い出した.映像が具体的なものではないということが強く影響しているのかもしれない.あと,ディスプレイの表示面すべてにモノが重なっているからかもしれない.表示面すべてが被われていることも相まって,モノの輪郭を明確に示すことがない映像は単にディスプレイが光っているようにも見える.けれど,それもまたひとつの情報のあらわれであって,ディスプレイから放射される光は色の情報を示しているという点では,それが具体的な何かを示していようがいまいが関係ない.ディスプレイは光を放ち,その光はモノを通過していき,ヒトの網膜にあたる.このとき,ディスプレイはひとつの面であり,モノも面であり,網膜も面である.どこがインターフェイスかということを考えていると,それぞれがインターフェイスであって,これら複数のインターフェイスが包み込んでいるモノやヒトが同時に存在している場のあり方を考えることが重要なのだろうなと思う.

山形さんの作品には,郷治竜之介さんとの二人展「optical camouflage」のときから気になっていた「ディスプレイの内側」ということが,今回のエイの作品にも感じられた.エイの作品はディスプレイの外側に水が少し入ったペットボトルが設置してあって,それがたまにディスプレイ…

MASSAGE連載08_ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第8回「ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景───永田康祐《Inbetween》について」が公開されました.

今回も前回に引き続き,永田康祐さんの作品を考察しました.けれど,前回は水平に置かれたディスプレイでしたが,今回は主に垂直に設置されたディスプレイについてです.ディスプレイの光とモノとそのあいだの空間について書いています.最後の節は,それがひっくり返る感じです.

引き続き,よろしくお願いします😊😊😊

アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにしてみると…

ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ,怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある.それは1960年代末,劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が,アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である.その質感に裏打ちされ,動きや演出も変わる.『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール,『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど,それまでにない卓越したものが次々に登場した.ゴツゴツの怪獣とはまた違う,超現実的な汚い映像が出現したのだ. 今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」
アニメ評論家の氷川竜介さんのテキストからの引用.「ダーティ」という言葉が使われているところに惹かれた.
ラファエル・ローゼンダールがベクター画像の印象が「クリーン」で,どうしても「ダーティ」にできないと言っていたので,私はコンピュータをクリーンで,コンピュータと対比されるようになった物理世界をダーティと考えるようになった.物理世界がもともとダーティというわけではなくて,コンピュータのクリーンさと比較してはじめて,物理世界のダーティさが際立つというか,そこにコンピュータ以後のあらたなダーティな要素がでてきたといえる.
氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにすることで,物理世界の有り様が変化していき,世界の法則そのものを変更していってしまう.
氷川さんのテキストは「ツルツル=アニメ」「ゴツゴツ=特撮」「ギラギラ=CG」「パキパキ=デジタルペイント」と「質感」の話になっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.

出張報告書_20170128:Malformed Objectsと他者を理解するためのオカルト

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28日は7時過ぎに自宅を出発し,新大阪を経由して品川に行き,そこか天王洲の倉庫街にあるギャラリー山本現代まで歩いて,「Malformed Objects − 無数の異なる身体のためのブリコラージュ」という展示を見た.「Malformed Objects」は,現代思想やインターネットの感覚を多様に取り込んだ考察や展覧会企画を行う上妻世海によってキュレーションされた展示である.ギャラリーに入ると,台の上に紙が置いてある.それは通常の作品解説ではなく,鑑賞者への指示書になっている.指示書の最初には,先程降りたエレベーターにもう一度乗るようにと書かれていた.私は面倒なので,その指示は無視した.指示は必ずしも従う必要はないと指示書に書かれていた.しかし,指示書に従わない場合は,「観察者」として扱われる.指示書に従った場合は「制作者」として扱われる.この指示書は,作品と鑑賞者の相互作用を「制作」と考えようとする上妻の考えを反映したものである.

指示書は特別なことが書いてあるわけではく,作品を見る順番とその見方が簡潔に書かれている.私は普段,解説を読みながら作品を見ないので,テキストを読みながら作品を見るという行為自体が煩わしくも,新鮮であった.けれど,一番の驚きは,指示書に従って最後まで見たあとに,指示書に「以降電子機器を開くことが出来る」と書かれていたことである.電子機器についての記述はそれまでひとつもなかったので,私はiPhoneで写真を撮りまくっていたのである.電子機器の使用までは指示されていないだろうと勝手に思っていたのである.鑑賞のはじめに,ギャラリーのスタッフに「写真とってもいいですか?」と聞き,「いいですよ」と返事をもらっていたので,まさか電子機器についての指示があるとは思わなかったのである.それほど,電子機器は私という身体から離すことができないもので,許可されているならばiPhoneで写真を撮るというのは「見る」という鑑賞行為の一部になっていたことに,上妻の指示から気づいたのである.


作品で興味深かったのは,池田剛介の《Translated Painting》シリーズと,永田康祐の《Function Composition》である.池田の作品は,デジタルフォトフレームの表面に透明の樹脂を施し,ディスプレイの上に水滴がついているような状態を作り出していた.ディス…

告知:トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」と,出来事を複製する→出来事を個別化する

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29日に京都のARTZONEで開催されている渡邉朋也個展「信頼と実績」で,渡邉朋也さんと美学者の秋庭史典さんのトーク「アートと計算(コンピュテーション)」の司会をします.ふたりとも話がおもしろいので,どんな話になるのか楽しみです!
是非,お越しください! −− トークショー 「アートと計算(コンピュテーション)」 日程:2017年1月29日(日) 18:00– 入場料:無料 会場:MEDIA SHOP gallery 登壇者:渡邉朋也氏、秋庭史典氏、水野勝仁(司会) −−
このトークのために渡邉さんの作品を考えてみたのが,こちらです.渡邉さんといえば「落合博満」などの野球の話ですが,野球のことがキャプションで言及されているのは,《ツナとマヨネーズ》と《敬遠とフォアボール》だけなんですよね.下に書いたテキストは,最初は渡邉さんの作品全体を視野に入れていたのですが,書き終えてみると,キャプションで野球について触れている,上のふたつの作品にもっともフィットするようなテキストになっているような気がします.当日のトークとは関係あるかもしれないし,ないかもしれません.あくまでも,渡邉さんの作品に対する,私のメモです.



出来事を複製する→出来事を個別化する
渡邉さんの作品を見続けて,浮かんできたのが「出来事が複製される」という言葉である.《ツナとマヨネーズ》のレシートや《敬遠とフォアボール》の試合の再演のようにアルゴリズムをもとに生みだされたフォルムが複数展示されることで「同一性」というフォルムの問題がでてくる.それは単体としてのフォルムではなく,アルゴリズムを経たフォルム,もしくは,アルゴリズムと癒着したフォルムというあたらしいモノとして,そこに存在している.そして,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれたときに,「出来事が複製される」という事態が起こっている.しかし,それだと渡邉さんが良く引き合いに出す落合のホームランの説明がつかない.とすれば,「出来事が複製された」結果として,アルゴリズムと癒着したフォルムをもつモノが生まれるときもあると考えてみたらどうだろう.そうすれば,落合にはホームランが残り,渡邉にはモノや映像が残る.
落合はホームランを打つための行為を複製しているのではなく,その場のパラメータを調整して「ホームランを打つ」という出来事を複製している.「行為を複製する…

「Generated X [生成されたX]」の気配

以前も投稿しましたが,1月6日から恵比寿のG/P galleryで開催される小山泰介個展『Generated X』で,写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとトークをします! モデレーターはG/P galleryのディレクターであり,『写真は魔術』の翻訳をされた深井佐和子さんです.

このトークに向けて,「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」という紀要論文を書きながら,小山さんの写真について考えました.写真家つながりということで,昨年の小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」で得たアイデア「ダーティー」と「クリーン」という区分けで,小山さんの写真を考えたらどうなるのか,という感じで論文を書きました.なので,小林さんとのトークから引き続き論文にもラファエル・ローゼンダールが登場します.物理世界はじまりの写真とコンピュータはじまりのブラウザとを対比させるには,ローゼンダールがどうしても必要となってくる感じです.そして,小山さんとローゼンダールとを結びつけるのは,データにテクスチャを付与するという行為ではないだろうか,と考えました.


紀要論文の冒頭です.

本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光にデータの付与することで可能になる.小山はデジタル写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで,光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである.
小山さんの写真はまだ写真集と…