出張報告書_HELLO, YCAM!


12月15-17日に開催された「HELLO, YCAM!」では多くのトークを聞いた.そこから感じたのは,YCAMがハックできる施設であり,ハックできる人たちがいるということだった.どこでも使おうと思える建物の空間を実際に使ってみたり,多くの異なる領域を拠点とする集団がそれぞれの集団をハックしてみたりと,施設と組織自体を中の人たちが改変していく.アーティストという何もないところから始める人とともに作業をしてきたYCAMのスタッフは,0から考えることに慣れているとR&Dディレクターの伊藤隆之さんが言っていたように,YCAMは0から1にする行為を行い続けている.しかし,よく考えてみると0ではない.そこにはすでにアーティストがいて,建物があり,組織がある.けれど,YCAMはそれを既定のものとせずに,常に改変できないかと様子を伺っている.専門委員の城一裕さんを中心にして,展示施設としてだけでなく研究施設へと整備されていく様子は,国の制度をハックして,YCAM自体が改変されているように見える.HELLO, YCAM!のトークセッションは,YCAMが自らを改変していくプロセスが話されていたと思う.



エデュケーターの菅沼聖さんがエキソニモをゲストに迎えた「教育」をテーマとしたトークで「書き込み可能性」と言っていた.この言葉を聞いたとき,YCAMのスタッフは「書き込み可能性」を自ら拡張していると私は考えた.公共施設という縛りがきつそうで書き込みの余白がほとんどなさそうなYCAMで,なぜ「書き込み可能性」自体を拡げることができるのであろうか,ということを大学という組織に属している私はトークを聞きながら考えていた.このテキストを書いている時点ででた一つの答えは,彼らはテクノロジーをうまく使っている,ということだった.YCAMはテクノロジー万能主義ではないけれど,テクノロジーを使うことで「これまで違うことができる」ということをポジティブに考えている.「それは単にあたらしいテクノロジーを使っただけではないのか」という問いがあったとしても,それは単に「問い」でしかない.YCAMの施設,スタッフはテクノロジーを作品に,身体に,教育に,地域にと様々な領域で使っていく.それぞれの領域を一つの中心としながら,もう一つの中心としてテクノロジーを使って,考えて,さらに使う.外から眺める私には,テクノロジーをもう一つの中心とした各領域での実行・実装と問いのあいだのサイクルがよく回っているように見える.サイクルのなかで,テクノロジーは単にあたらしいだけではなくなり,実際の道具として使われて,問いを生み出す装置になる.YCAMはテクノロジーを使いながら何度もこれまで当たり前に思っていたものを一度0に戻して,その0から1を生み出して,施設と組織の書き込み可能性を拡張しているのだろう.



トークセッションで最も印象に残った言葉は最後の「インスタレーション作品の修復」に関するセッションで,登壇者の映像メディア学を専門とする馬定延さんが言っていた三上晴子作品のアーカイブ作業をすることは作品の本質を考えることであり,それは批評であると力強く言っていたことである.私は今現在展示される作品のテキストをできるだけ多く書くことで,アーカイブが難しいメディアアートの資料になればと考えている.私のやり方で辿り着ける作品の本質もあると確信しているのだけれど,馬さんの言葉は「作品の本質には批評的視点を持ったアーカイブ作業の方が辿り着けるかもしれない」というメッセージとして,私に強く響いた.しかし,改めて考えてみると,作品の本質にたどり着けるかどうかということが問題なのではなく,馬さんが力強くアーカイブを批評であると言い切ったことにこそ,彼女の言葉が私に響いた核心があると思われる.批評的視点を持つ人がアーカイブに携わることで,アーカイブ自体に書き込み可能性が発生するというとても開けた感覚を私は馬さんの言葉に感じたのである.馬さんだけではなく,トークに登壇していたYCAMのアーキビスト渡邉朋也さん,アーティストであり研究者の久保田晃弘さんなど三上晴子作品のアーカイブに携わる人たちの視点が,単にアーカイブをすることではなく,これまでにないアーカイブのかたちを模索しているからこそ,この作業自体が批評的なものになっているのである.三上晴子作品のアーカイブには三上晴子の作品と思想といった中心があり,ここにもアップデートしていくテクノロジーというもう一つの中心が存在している.三上晴子とテクノロジーという二つの中心があるがゆえに,アーカイブに携わる人たちのあいだにアーカイブという行為そのものに対しての書き込み可能性が生まれ,行為自体が批評となっているのだろう.

YCAM自体と三上晴子作品の修復という二つについて考えると,翻って,自分は何をしているのかということを突きつけられている感じがあった.私の考えは一つの中心の周りを回っているだけではないだろうか.YCAMや修復のように自らの軌道を変えることを意識しながら,活動できているだろうか.同じことを繰り返しているだけではないのか.そんな気持ちが強くなっている.一つの中心でもあればいいではないかと普段は思うのだけれど,YCAMで聞いてきたトークはそれでは同じところを回っているだけだぞと,強く訴えかけてくるのである.YCAMから「あなたは研究者としても,大学の中の人としても,このままではいけないぞ」と言われているような気がしている.

このブログの人気の投稿

光の「廊下」:ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学

東京大学大学院講義「建築設計学第3」:建築と「もの」でのゲストレクチャーの告知💬とメモ✍️

Poi Vol.2 featuring Tomoya Watanabe_PDF

「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展カタログへの寄稿

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

「窓」というインターフェイス🖼がサーフェイス🏁に変化する瞬間💬

メモ_融けるデザインとexUI:渡邊恵太さん

Houxo Que「apple」から考えた_サーフェイスとその内部である「バルク」

『メディア・アート原論』への寄稿

The SINE WAVE ORCHESTRA の《A WAVE》を改めて考える